夜盲
どんな言葉で乃亜くんから好意を伝えられたとしても、結局あたしは佳乃くんが好きで、その事実だけはどうしたって変えられない。
ならばここで、きちんと乃亜くんに、断りの言葉を伝えるべきだ。
丁重に、不慣れながらも言葉を選び、「乃亜くん」と口から放った瞬間だった。
向こうから、玄関の扉が開く音がする。
「あれ。宵と乃亜、浮気?」
左手にコンビニのビニール袋を引っ掛けた佳乃くんが、ソファーに並んで座るあたしと乃亜くんを見て、茶化すように言う。
タイミングが良いのか悪いのか、佳乃くんが煙草の買い出しから帰ってきたらしい。あたしと乃亜くんが一緒にいるという状況が、珍しく見えたのかもしれない。
浮気も何も、あたしと佳乃くんは付き合っていないでしょうに。なんとも腹立たしいけれど、こういった、佳乃くんに独特の、余裕のあるコミュニケーションは嫌いじゃない。
「あたしが仮に、乃亜くんと浮気してたらどうする?」
こちらに寄ってくる佳乃くんに、冗談めいた口調で言ってみる。たまにはあたしが、佳乃くんをからかってみたかったのだ。
乃亜くんは相変わらず隣で黙っている。
佳乃くんは、「おれは別になんでもいいけど」と前置きをしてから、意地悪そうに目を細めた。
「乃亜なんかと付き合ったら、おまえは退屈で死んじゃうんじゃない?」
がさり、ビニール袋が床に落ちる音がした。
佳乃くんは屈んで、あたしの顎を掴む。ごつごつと骨ばった指先はやや乱暴で、その雄々しさを前にすれば、なす術もなくただ彼の思い通りになってしまう。
何かを察する頃にはもう遅かった。
佳乃くんのやわらかいくちびるが、あたしのくちびるに体温を注ぐ。わざとリップ音を立て、それから啄むように下唇を甘噛みしたかと思えば、今度は舌がぬるりと咥内に侵入してくる。
ぜんぶ、乃亜くんの目の前で。
「んっ、く、」
ひろいリビングの中心に、水音が反響する。
絶対にわざとだ。佳乃くんはわざと、乃亜くんに見せつけている。夢見宵はおれのもの、みたいな。乃亜くんからあたしに向けられた好意のベクトルに、佳乃くんが気づいているかどうかは定かではないけれど、もしかすると佳乃くんは、リビングに入ってきた瞬間に、あたしと乃亜くんの間に流れていた、ただならぬ雰囲気を察していたのかもしれない。どちらにせよ、今この瞬間に佳乃くんが子どもじみた独占欲をあたしに向けていることは明白で、あたしはそれが、どうしようもなく痛くて、どうしようもなく心地よかった。
乃亜くんは絶対に、あたしたちを見てる。
少なからず、あたしは、乃亜くんを傷つけるこの行為に没入し、それでいて同時に、いたく興奮していた。
乃亜くんは何を感じているのだろう。呆れているのか、絶望しているのか、それとも、何も感じていないのか。まったく想像ができなかった。だって、あたしの視界には佳乃くんしかいないから。佳乃くんしか見れない。佳乃くんの体温。佳乃くんの手、佳乃くんのくちびる。佳乃くんの鼻。舌、唾液、それから、舌に残る煙草の苦味。記憶通りのくちびると、鼻筋の起伏のかたち。性的興奮、欲、溺れたい何かと、ままならない恋心。
「ベッド行こ。お姫さまみたいに抱いてあげる」
この最低さが、どうにも愛しかった。