夜盲
頭の中では、佳乃くんへの恨み言と、どうにもならない状況への諦め、それから不安や焦燥といった負の情動が、どろどろと混ざり合いながら密度の高い不快感を醸造していた。
乃亜くんの背中にもたれかかりながら、佳乃くんと過ごした時間を思い出す。あの姿形が、あの声が、あの体温が、あたしの全てだった。
「夢見さん、そろそろ離れて」
「迷惑?」
「くるしいから」
「何がくるしいの」
「わかってるくせに」
佳乃くんと、元カノの花音さん。乃亜くん。それから、紗良。
ひとりひとりの顔をゆっくりと頭の中で反芻しながら、どうにも折り合いのつかないこの感情を昇華するにはどうすればよいかと考えた。
「前もこうやって、自転車乗ったね」
「あのときの夢見さん、酒臭くて最悪だった」
「ひどいね、なんでそんなこと言うの」
「でも、へろへろになりながらくっついてくる夢見さんを見て、ずるいなって思った」
「今もそう思ってる?」
「うん。夢見さんはずっと酷いよ」
言葉とは裏腹に、乃亜くんの声は落ち着いていた。抑揚のない声で、平坦に話しているのは、あえてそうしているのだろうか。彼はあたしと違って、自分の感情を抑えつけることが得意なのかもしれない。
あたしはなぜか、佳乃くんに傷つけられた分だけ、乃亜くんを傷つけてみたくなった。
そうすれば、佳乃くんの気持ちが理解できるかもしれない。
「乃亜くん。付き合おうよ」
「それって打算でしょ」
「でも、利害は一致してる」
あたしは、これからも町田家に出入りする権利を手に入れて、乃亜くんは、好きな人と一緒にいる権利を得ることができる。
まあ、悪くない。というか、あたしにはこれしか取れる策がない。
「夢見さんって、ほんとにずるいね」
「どんなところが」
「おれが断れるわけないって、全部わかってて言ってるんでしょ」
それはもちろん、そうだ。
だけど、あたしだって捨て身なのだ。紗良のことだってある。あたしが乃亜くんと付き合えば、あたしはきっと、あの4人の輪の中で生きていけなくなる。佳乃くんにだって、どう思われるかわからない。兄が無理なら弟と関係を持つという、節操のない女だと思われるかもしれない。
それでも、全部を壊したい。
あたし以外の全員が、傷つけばいい。
「乃亜くん、こっち向いて」
「…………」
「佳乃くんとキスするとね、いつも鼻ぶつけちゃうの。佳乃くんも、乃亜くんも、ちょっと鷲鼻ぎみでしょ? それでくちびるも引っ込んでるから、遠近感がわからなくなっちゃって、こうやって、鼻と鼻がぶつかって、そのたびに笑われて、恥ずかしい気持ちになっちゃったりして」
「夢見さんは、傷つきたいの?」
「さー、どうだろ。わかんないけど。なんか、ずっと寂しい」
乃亜くんが身体を翻す。そのまま正面から向き合った。湿度を纏った視線が交差する。
「付き合ってくれるって、本当?」
「うん」
「なら、夢見さんに触れてみたい」
「乃亜くんが望むなら、いいよ」
あたしも、浮気じみたことがしてみたい。これは佳乃くんへのささやかな復讐だ。
あたしは自ら、あぐらをかく乃亜くんの膝の上に跨った。自然とこちらの目線の方が高くなり、正面よりやや上の位置から乃亜くんを見下ろすような形になる。
近くで見ると、彼の双眸は佳乃くんのそれよりも明暗がはっきりしていて、別のひとだ、と思った。