夜盲
あたしを見上げる乃亜くんのくちびるに、自分のそれを這わせてみる。鼻と鼻が軽くぶつかって、それからくちびるが重なった。ごつごつとした乃亜くんの手が腰に添えられ、制服の白いブラウスにしわが寄る。
乃亜くんとのキスは無味無臭だった。感傷すらもない。
どちらともなくくちびるを離し、数センチの距離で見つめ合う。たったこれだけの行為なのに、乃亜くんは泣きそうな顔をしていた。
「夢見さん、ほんとは。ほんとは、全部おれがわるいの」
神さまの前で懺悔をする罪人みたいに、乃亜くんはあたしに縋り付く。
彼の発言の意図がわからなくて、その場でフリーズした。どうして乃亜くんがそんなことを言うのか、あたしには全く心当たりがなかったのだ。
「……どういうこと?」
「夢見さんが佳乃の連絡先消したとき、おれはその中に花音さんがいたの、気づいてた。だけど言わなかった」
「別に、あたしはたぶん、それを知ってても花音さんの連絡先を消したと思うよ」
「違う、それだけじゃない」
乃亜くんの指が、あたしの横髪を掬って耳にかけてくれる。その仕草はずいぶんとぎこちなかったけれど、うすいガラス片を拾い上げるかのように丁寧な手つきで触れられたとき、あたしはそこに兄弟の血筋を感じた。佳乃くんも、こういうふうに触れてくるのだ。
「花音さんのラインが消えてるって不思議がってた佳乃に、おれが言ったの。夢見さんが、花音さんの連絡先消したって」
「え、うそ。……なんで」
「ごめん、ほんとうにごめん、ただ、夢見さんが佳乃に嫌われればいいのにって思って、それで」
あたしは乃亜くんの吐露を、じょうずに受け入れることができない。
言葉をかみ砕いて、頭の中で繰り返して、時系列を整理する。ホテルで佳乃くんが花音さんと電話をした。それをきっかけに、佳乃くんは自分のスマホから、花音さんのラインが消えていることに気が付いた。それを不思議がっていた佳乃くんに、乃亜くんがチクったのだ。あたしが佳乃くんのスマホから、勝手に女の連絡先を消していたことを。
へえ、乃亜くんが。
じゃあ全部、乃亜くんのせいじゃん。
「あたし、佳乃くんに全部あげたの。身体も心も、時間も、感情も、佳乃くんにぜんぶ捧げたの。それを台無しにしたっていう自覚、ある?」
「ごめん、ほんとにごめん」
「自分勝手だね。あたしは佳乃くんじゃなきゃだめだったのに」
乃亜くんは瞳を潤ませながら、何か言おうとして口を開いたみたいだったが、結局彼は口ごもった後に、もう一度「ごめん」と言って謝るだけだった。
ずくり、加虐心が刺激される。
「乃亜くん。あたしのことが好きなら、あたしのために何でもしてくれるよね?」
「夢見さん、」
「あたしのこと、好きなんでしょ?」
乃亜くんは項垂れながら、うわ言のように謝罪の言葉を繰り返した。そうすることで彼は、罪の意識から逃れようとしているのかもしれない。
この瞬間、町田乃亜はあたしのものになった。
だけど、町田乃亜を手中にしても、あたしはちっとも満たされなかった。
佳乃くんも、こんな気分だったのだろうか。好きな人と一緒になることでしか埋まらない空白を、むりやり他の人で埋めようとして、軽薄に女を抱いてきたのだろうか。確かに、好きでもない異性が相手なら、人はこんなにも残酷になれる。
乃亜くんは掠れた声で、「何でもするから、どこにも行かないで」と零す。あたしは薄ら笑いを浮かべながら、彼のくちびるにもう一度噛み付いた。