夜盲
◇
真っ白な壁紙に、右耳をぴったりとくっつける。
耳を澄まさなくても、女の喘ぎ声がきちんと聞こえてきた。吐息を漏らすような声が気持ち悪い。そう思うと同時に、壁の向こう側に広がっているであろう光景がすごく羨ましくて、頭を掻きむしりたいような衝動に駆られた。
聞きたくない。聞きたくないのに、こうすることをやめられない。
「ねえ、乃亜くん。あたしと佳乃くんのエッチも、こんなふうに聞こえてたの?」
「だからヘッドホンつけてゲームしてた」
「あー。そういうこと」
あたしの後方で、乃亜くんは膝を抱えて地べたに座っている。乃亜くんは奇行に走るあたしを止めることもしない。
壁に手を這わせ、目を閉じる。
1ヶ月前までは、あたしもそっちの部屋で、そこにいる男と身体を重ねていたはずなのに。そこにいるのはあたしのはずだったのに。
どうしてだろう。なんでこんなふうになっちゃったんだろう。
ベッドが軋む音がぴたりと止まる。それから、ひとこと、ふたこと、壁の向こうでふたりが何かを話しているのが聞こえる。愛の言葉だろうか。だとしたら、許せない。
「声、止まった。あたし、行くね」
「……ほんとにやるの」
「もう、後戻りしないって決めたの」
あたしはその場で立ち上がる。
2回折った制服のスカート。タックインした白いブラウス。赤いリボンに、紺色のブレザー。高校1年生、16歳。手には乃亜くんの金属バッド。すこし埃をかぶっている。
「おれが昔ソフトボール習ってたっていう話、よく覚えてたね」
「意味わかんなすぎて、覚えてた」
金属バッドを両手で持ちながら、覚悟を固める。
今日という日が来るまで、何度も何度も、頭の中で想像を繰り返してきた。これを振り回しながら、思い切り暴れてやろうと、決意したのだ。大丈夫。今のあたしなら、できる。
「夢見さん」
「なに」
「行かないでほしい」
「ごめんね、迷惑かけて」
乃亜くんからの返事を待たずに、彼の部屋を出る。乃亜くんは追いかけてこない。あたしを止めても無駄だと、彼はきちんと理解しているのだろう。
数歩先、隣の部屋に向かう。
その扉の前でおおきく息を吸う。あたしはもう、こうすることでしか、自分の心の痛みを慰めることができない。
心臓がどくどくと強く脈打っている。興奮なのか、怒りなのか、嫉妬心なのか、それとも別の感情なのかはわからない。だけどとにかく、胸が熱い。
「かーのくん」
ご機嫌で可愛い女だったときとまったく同じ口調で、佳乃くんの名前を呼ぶ。
ノックなんて、してあげない。部屋の中からの返事も待ってあげない。あたしは馬鹿な女なの。佳乃くんみたいな悪い男に引っかかって、恋しちゃって、気が狂ってしまった愚かな女。佳乃くんが捨てた女たちの中の、ひとりでしかない。
ただ、愛してほしかった。選んでほしかった。佳乃くんに対してそう思ってしまった時点で、あたしは、佳乃くんに捨てられた他の女たちと同類になってしまった。
それでもあたし、唯一無二になりたいの。
あたしはその扉を開けた。