密かに… そっと…
二月になると、学校は少し寂しくなる。

受験を控えた三年生は自宅学習になっていた。

学校のアイドルだった春先輩は、推薦で大学が決まっているらしく、毎日のようにバスケ部に顔を出している。

そのおかげか、体育館だけは相変わらず賑わっていた。

「風香ー。もうすぐバレンタインデーだねー」
相変わらず友達は、にやにやしながら近づいてくる。

「えー、あー、そうだねー」

「何、その棒読み」

私の気のない返事に、友達はジト目を向けてきた。

「いやー、なんか最近、ちょっと距離ができたような、薄い壁を作られてるような感じがして……」

私は腕を組みながら考え込む。

そうなのだ。

あの『風香ちゃん』呼び事件のあとから、なんとなく詩音くんの様子が今までと違う気がするのだ。

「え? だって毎日ゲーム一緒にやってるんでしょ?」

「うーん、そうなんだけどさぁ……」

自分でもよくわからないモヤモヤ感がある。

「なんかあったの?」

私はバイトの時の『風香ちゃん』事件を友達に話した。

「ふむふむふむふむ……」

友達は、なるほどねぇ、と全てを理解したような顔をする。

「流れはこうね。まず、白田と詩音が二人きりで勉強をしていた。そこへ風香が登場。白田は詩音と仲良く写っている写真を風香に見せる。そして、詩音に写真を送ると言った。すると、いきなり『違う! 風香ちゃん!』と詩音が叫んで立ち上がった……というわけね」

私はコクンと首を縦に振った。

それを確認した友達は、

「ほうほうほうほう……」

と、なぜだかどんどん顔を歪めていき、私が引くほどの満面の笑みを浮かべた。

「なーんだ。なるほどねぇ……」

そう言うと、

「風香、バレンタイン頑張るのよ」

私の両肩をガシッと掴んだ。

そして、「じゃあねー」も言わずにスキップしながら去っていった。

(……な、なによ? なんなのよ?)

置いていかれた私は、一人その場に立ち尽くした。

「もうっ」

私は気を取り直して、放課後の体育館へ向かった。

「あれ?」

今日はギャラリーが少ない。……というか、誰もいない?

恐る恐る中を覗いてみる。

「部活、今日は休みなんだ……」

(なーんだ……)

そう思って振り返ると、

「「あっ!」」

ちょうど後ろから詩音くんが走ってきたところだった。

「「あれ? どうしたの?」」

またしても声が重なる。

お互い驚いて目を丸くしたけれど、

ふっ。

ふふっ。

ふふふっ。

「あははっ」

思わず二人で笑い合った。

「詩音くん、今日は部活お休みなんじゃないの?」

「体育館に水筒忘れちゃって……。三波さんは……」

そこで詩音くんは言葉を切った。

「そっか。春先輩か……」

かすかに聞こえるくらいの小さな声だった。

(えっ?)

「違う!」

私は自分でも驚くくらい大きな声で叫んでいた。

「えっ?」

詩音くんは、また驚いた顔をした。

(あれ……? こんなこと、前にも……)

そうだ。

詩音くんが言ったんだ。

白田さんが『写真を送るね』と言った時に。

『違う! 風香ちゃん!』って。

(私は……なんで『違う』って言った?)

――詩音くんに、春先輩を見に来たと誤解されたくなかったから。

(それじゃあ……詩音くんも?)

私に、誤解されたくなかった……ってこと?

詩音くんがあの時口にした『違う』という言葉が、私と同じ意味だったらいいのに。

そう、思ってしまった。

「詩音くん、どうしてあの時『風香ちゃん』って呼んだの?」

(あっ、あれ? 私、今、声に出してた?)

聞きたくて……。

でも、聞けなくて……。

言うつもりなんてなかったのに。

思わず口からこぼれてしまった。

詩音くんは、ハッとしたように目を見開き、右手を口元へ持っていった。

「ごめん。何言ってるんだろう、私。気にしないでね。またね」

そう言って詩音くんの横を通り過ぎようとすると、

「待って、三波さん」

詩音くんに呼び止められた。

私は足を止めて振り返る。

「俺……」

詩音くんが静かに口を開いた。

「三波さんに初めて会ったのって、まだ俺が中学生の時だったよね」

私は小さく頷く。

「あの時、父さんがいつも『風香ちゃん』って呼んでいたから、俺の中では最初から三波さんは『風香ちゃん』だったんだ。たまに家でも三波さんの話が出てたし」

あっ――。

私は思わず詩音くんの顔を見た。

「その頃、俺は三波さんの名字を知らなかったし……」

そうだ。

私が初めて詩音くんに会ったのは、彼がまだ中学三年生の時。

確かに自己紹介なんてしていなかった。

詩音くんは夜に店を手伝いに来て、お皿を洗っていただけだったから。

「高校に入ってから、風香ちゃんが三波風香って名前だって知ったんだ。でも、三波さんは先輩だし、それまであんまり話したこともなかったのに、いきなり『風香ちゃん』って呼んだら、気持ち悪いやつだと思われそうで……」

「あの日から、このことをちゃんと話したかったんだ。良かった、言えて……」

詩音くんは、ほっとしたように優しく笑った。

「なんか、ずっと変だったのって、このことを言いたかったから?」

「えっ? 俺、変だった?」

「うん。なんか、薄い壁があるみたいな感じがしてた」

「えっ……あっ、ごめん。ずっと気になってたんだ。いきなり名前で呼ぶなんて、気分悪くさせちゃったんじゃないかって……」

「えーっ。名前で呼んでよって、あの時言ったのになぁ。あれ、本心だったよ?」

「そっか……。良かった……」

私たちは笑い合った。

気づけば、いつもの自然な空気に戻っていた。
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