一夜のあと、君に溺れる
この期に及んで俺を引き留める。
掴まれている腕を乱暴に振り払った。

「実花が何を企んでいるのか知らないけど、さーちゃんに何かあったら許さないからな」

実花は怯み、祖母は「あら、かっこいい」などと呟く。祖母が早く行けと言わんばかりに目配せしてくるので、俺はその場に二人を残して、一度料亭に戻った。実花は祖母に任せておけば大丈夫だろう。

事務所にいた母に端的に説明し、仕事を抜ける旨を伝える。店に迷惑をかけることを心苦しく思っていたが、「出刃包丁持っていってもいいわよ」と、相変わらず恐ろしいことを口走りながら笑っていた。そしてずいぶんと乗り気だ。こっちはそんな余裕なんかないっていうのに。

「大福、急いては事を仕損じるわよ」

「ばあちゃんにも言われた」

「我が家の家訓よ」

「いつからだよ」

「あなたの穴埋めは、お姉ちゃんにでもしてもらいましょ。はい、気合い入れていってらっしゃい」

仕事を放り出すなんて、ありえないことだと思った。今までだって、どんなに疲れていても、どんなに気持ちが揺れていても、仕事を抜けることなんてしたことがない。姉に頼ったことだってない。だけどそんな「ありえない」は、さーちゃんの事を想えば簡単に崩れ去った。

電話の向こうのさーちゃんの声が、不安に満ちていた気がしたんだ。その声が、頭から離れない。もしかしたら、俺が不安を煽ってしまったのかもしれないけれど。

だから、何も起きていないことを願っている。それならそれでいい。でも、もし何かあったら――なんて、後悔だけはしたくない。迷っている時間すら惜しいと思える。

仕事なんかよりもさーちゃんのことが大事だ。誰よりも好きで誰よりも守りたい。そう思った瞬間、俺はさーちゃんのことを「好き」ではない、別の感情があることに気づいた。

もっと深くて、もっと強くて、もっと確かな感情。
俺は、さーちゃんを愛しているんだ。
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