ORANGE×BOY
翌朝。
カーテンの隙間からこぼれる春の光は、昨日と同じようにやわらかく、部屋の白い壁を穏やかに照らしていた。
世界はどこまでも優しく回っているはずなのに、咲良の心だけが、まったく、これっぽっちも穏やかではなかった。
「……なんか、だるいなぁ」
制服のストライプ柄のリボンをきゅっと結びながら、咲良は鏡に向かってぽつりと漏らした。
鏡の前に立つ自分は、今日もちゃんと可愛く整っている。
手入れの行き届いた、さらりと肩を流れる黒髪も、ほんのり薄く色づいた唇も、過去の弱さを隠すために少しだけ強気に見せている目元も、どこからどう見ても抜かりない完璧な自分だ。
けれど、その仮面の内側にある中身は、まるで遠足の前日の夜に、一番聞いてはいけない怖い話を聞いてしまった子どもみたいに、落ち着かなく、小さく震えていた。
理由は、わざわざ考えるまでもなかった。
昨日、あの駅前のコンビニで、最悪のタイミングで再会してしまった、"蓮"と呼ばれていた、あの金髪のヤンキー。
不意に浮かぶ、彼の顔。
悪戯っぽくニカッっと笑って向けられた、あの太陽みたいな笑顔。
位置関係が変わり、ほんの少しだけ近くに感じてしまった。
それらが脳裏をよぎった瞬間、咲良はぐったりと両肩を落として、鏡のの前で突っ伏したくなった。
「……もし、あの人が茉那が言ってた『綾瀬 蓮』って人だったとしたら、同じ学校ってことだよね…?」
口にしてから、咲良は自分の両腕を抱きしめた。
それが、今の彼女にとっての、想像しうる中で一番最悪の予想だった。
ヤンキーなんて、大嫌いだ。
人の気持ちを踏みにじる奴らなんて、この世から消えてしまえばいいとすら思っている。
なのに、もしかしたら転校先の同じ高校で、よりによって学園一目立ちそうで、暴走族のトップだなんて噂される超ド級のヤンキーに顔を覚えられてしまうなんて、災難にもほどがある。
前世で自分はどんな悪事を働いたというのだろう。
咲良は胸の奥のモヤモヤを吐き出すように、大きな深いため息をひとつついた。
それから、気合いを入れ直すように、両手でぱちんと自分の頬を軽く叩く。
「大丈夫。まだ可能性の話だし! ただの他人のそら似かもしれないし!?」
そう、自分に言い聞かせるようにして、強く、強く念じた。
要するに、これから先、会わなければいいだけの話だ。
万が一、彼が噂の本人だったとして、もし廊下の向こうからあの金髪が歩いてくるのを見かけたら、何もなかったかのように、さっと踵を返して避ければいい。
どうせ向こうは二年生なのだ、教室のあるフロアも違えば生活圏だって完全に分かれているはず。
そう心の中でガラスの盾を張り直して家を出たのに、学校へ近づくたび、咲良の足取りはだんだんと重くなっていった。
校門をくぐるときでさえ、咲良はきょろきょろと、まるで不審者を警戒するみたいに落ち着かなく周囲に視線をさまよわせてしまう。
昇降口でローファーを上履きに履き替えるときも。
二階へと続く階段を上るときも。
賑やかな声が飛び交う廊下を歩くときも。
(あ、今、金色の髪が見えなかったっけ……?)
そんな風に、すれ違う生徒の髪色を妙に気にして、勝手に心臓を跳ね上げさせている自分が、悔しくて、情けなくて仕方がなかった。
でも――。
「……んなわけないか。ないない。気にしすぎ」
一年の教室がずらりと並ぶフロアにたどり着いた頃、咲良はようやく、小さく安堵の息を吐き出すことができた。
あたりを見回しても、どこにもいない。
少なくとも、この一年のフロアには、あの乱暴なほどに鮮やかな夕陽のような髪色は見当たらなかった。
当たり前だ。
向こうは二年生かもしれないし、そもそも別の学校の生徒かもしれない。
っていうか、茉那の言う通りなら、毎日真面目に朝から登校してくるようなタイプには到底見えない生徒だ。
そこまで論理的に考えが至った瞬間、朝からずっと胸の奥にピンと張りつめていた見えない糸が、ふっと心地よくゆるんでいくのが分かった。
「はぁ、なら安心か……」
誰もいない廊下の壁際で、思わずぽろりと本音が漏れる。
「何が?」
「ひゃっ!?」
すぐ真横、耳元の至近距離から突然声がして、咲良はびくりと全身の毛穴が広がるくらいに肩を震わせた。
驚いてそちらを振り向くと、そこにはコンビニのサンドイッチではなく、今度はイチゴオレのパックを手にした茉那が、首をかしげて不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「え、なにその反応!私そんなに気配消してた?」
茉那はストローをくわえたまま、パックを揺らして不満そうに唇を尖らせた。
「……消してたわけじゃないけど、急に声をかけるからびっくりしただけ」
「じゃあ、どしたの? さっきからきょろきょろして。誰か探してる?」
「さ、探してないよ?」
図星を突かれて、思わず声が裏返ってしまった。
咲良は慌ててカバンの紐を強く握り直し、いつもの澄ました「完璧な美少女」の顔を作ろうとする。
けれど、彼女の心の動揺を親友の鋭い観察眼が見逃してくれるはずもなかった。
「でも今、思いっきり“安心”って言ってたよね? 何なにー? 誰がいないから安心なの?」
「言ってないよ? 茉那の気のせいじゃない?」
「言ってたよ! 綺麗に鼓膜に届いたもんね!」
「気のせい」
「絶対違う〜! あー! 咲良、私に隠し事してるなぁー?」
茉那は「むむむ」と言いながら咲良の顔の前に回り込み、じーっとその目を覗き込んだあと、ふっと楽しそうに目を細めた。
「……もしかして」
「何よ」
「もしかして、恋!?」
「は?」
咲良は一瞬で真顔になった。
「何でそうなるのよ!」
「だって、朝からそんなにそわそわしてるし? 誰かの姿を追ってるようにしか見えないもーん!」
「してないよ! 私はただ、今日の小テストの範囲がどこだったかなって思い出してただけ!」
「してるって〜! ほら、ちょっと耳が赤くなってなーい?」
「してません!」
「きゃー! 照れてる、やっぱり恋だ!」
「……朝からうるさいよ、茉那ったら!」
咲良がぴしゃりと言うと、茉那は「はいはい、茉那お姉さんはこれ以上は突っ込まないでおきまーす」とくすくす笑った。
窓から差し込む朝の光。いつもの廊下。
いつも通りの、ちょっとうるさくて愛おしい親友との軽いやりとり。
それだけで、朝から咲良の胸を冷たく縛り付けていた蜘蛛の糸のような緊張が、少しだけ解けていくのが分かった。
肩の力が、すっと抜ける。
そうだ。
大丈夫。
自分はただ、昨日のインパクトが強すぎて過剰に考えすぎていただけだ。
今日は何事もなく、いつものように真面目で退屈で、平和な一日が終わるに決まっている。
そう、自分に言い聞かせるように、強く、強く思っていたのに。
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響いたあと、咲良の一日は、想像もしなかった方向性へと、一気に傾斜していくことになる。