ORANGE×BOY
ーートン。

すぐ横のロッカーから、小さくて鼓膜を優しく叩くような乾いた音がした。

「……え?」

咲良はしゃがみこんだ姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げた。

すると、頭のすぐ横のロッカーの隙間に、一つの大きな手がついていた。

無駄な脂肪が一切ない、白くて節の綺麗な指。
男の子の手だと一目でわかる、少し大きめの掌。

それが、まるで咲良をここから絶対に逃がさないと告げるみたいに、壁とロッカーの間を完全にふさぐ形で置かれていた。

心臓が、ドクンと激しく跳ねた。

冷や汗が背中を伝うのを感じながら、咲良は恐るおそる、錆びついた人形のようにギギギと首を横に向けた。

「さーらちゃん」

すぐそこに、あの乱暴なほど鮮やかな金髪があった。
至近距離にある綾瀬蓮先輩の顔。

彼は細い目をさらに細めて、にこにこと、それはもう嬉しそうに笑っていた。

まるで、あちこち探し回ってようやく見つけたお気に入りの宝物を見つめるような、妙に満足げな顔。

差し込む昼の光のせいで、無駄に眩しくて、悔しいけれど絵になりすぎていた。

「もう、帰んの?」

「きゃぁっ!?」

咲良は取り繕うことも忘れて、本気で情けない悲鳴を上げてしまった。

あまりの驚きと恐怖に手元が狂い、靴箱から引っ張り出しかけていた下履きのローファーを、ぽとんと床に落とす。
ころん、ころんと虚しい音を立てて、咲良の靴が床を転がっていった。

蓮先輩はそれを見て、防音性の低い昇降口に響き渡るような声を出して、楽しそうに笑った。

「はは、驚くとこも可愛いーじゃん。……やっと会えた。」

(やっと会えた、って何?!)
(怖い怖い怖い!)
(怖すぎるんですけど!?)

咲良はこの学校一の不良に、一体いつの間にターゲットとしてロックオンされていたのだろうか。

バクバクと五月蝿い胸を片手で必死に押さえながら、顔を真っ赤にして、彼をキッと睨み上げた。

「ちょ、ちょっと、なんなんですか……っ!? ストーカーですか!? ていうか、なんで私の名前を知ってるんですか!?」

動揺と混乱が限界を突破して、咲良の口から機関銃のように質問が一気に飛び出していく。

綾瀬先輩はぱちぱちと長い睫毛を揺らして瞬きをしてから、面白がるように少しだけ首を傾げた。

「ふはっ、そんな一気に質問するなんてさぁ。咲良ちゃん、もしかして俺に興味津々?」

「んなわけないでしょ!!」

咲良の返球は、一分の狂いもない超高速の即答だった。
きっと眉をつり上げ、床に転がったローファーを素早く拾い上げると、立ち上がりながら彼に冷たい言葉を突きつけた。

「昨日、お礼はちゃんと言いましたよね!? もうそれで終わりです! そこ退いてくれません!?」

「えー」

蓮先輩は、おもちゃを取り上げられた子供みたいにあからさまに不満そうな声を上げた。

けれど、いくら咲良が睨みつけても、壁についた手をおろそうとはせず、その場から一歩も動いてくれない。

退くどころか、彼は身体をもたれさせるみたいに体重を預け、少しだけ長い身を屈めて、咲良の顔をじっと覗き込んできた。

蜂蜜色の前髪の隙間から、昨日と同じあの吸い込まれそうな鋭い瞳が、咲良を真っ直ぐに捉えていた。

「ちなみに、名前はねぇ~」

含みを持たせた笑みを浮かべながら、蓮先輩はズボンのポケットから、見覚えのある小さな紺色の手帳を取り出した。

――紫陽花高校の校章が刻印された、咲良の生徒手帳だった。

(あ、しまった……! あのとき空き地で落としたんだ……!)

背中に冷や汗がどっと吹き出す。
名前を名乗ってもいないのに知られていた理由は、ストーカーでも何でもなく、ただの咲良の落とし物のせいだった。

恥ずかしさと情けなさで顔が火を噴きそうになりながらも、不服そうに唇を尖らせて彼を睨みつける。

「……拾ってくださったんですね。ありがとうございます」

お礼の言葉とは裏腹に、咲良は彼の指先から生徒手帳をパシッと音を立てて力任せに奪い取った。

綾瀬先輩は指先が空を切り、少しだけ残念そうな顔をしたけれど、すぐにいつもの、あの憎らしいほど爽やかな太陽みたいな笑顔に戻った。

「ははっ、言葉と表情全然あってなくない?」
「気のせいです」
「そんなことよりさ、まだ午後も授業あるのに帰るの? 咲良ちゃん、ずる休みはだめじゃね?」

首を少し傾げて、諭すように言ってくる。
その言い方が妙に楽しそうで、面白がられているのが丸わかりで、咲良はさらにムカッと腹が立った。

「"先輩"には関係ないです。っていうか、本当にどいてくれませんか?」

これ以上構っていたら何を噂されるかわからない。

咲良はそう確信して、壁についている彼の腕の隙間に割り込み、蓮先輩の身体を両手でぐいっと力任せに押しのけようとした。
退かないなら、力ずくで突破してやる。

けれど。

「……えっ」

びくとも、しなかった。
本当に、ミリ単位すらもびくとも動かない。
薄い制服の生地越しに咲良の両手に伝わってきたのは、まるで行く手を阻む頑丈な大樹のような、信じられないほどに硬くて引き締まった少年の身体の質感だった。
咲良は一瞬だけ驚きに目を丸くした。

(な、何この人……。見た目はスラッとしてて、細身なのに……全然動かないんだけど……!)

「……っ!」

悔しくて、もう一度、今度は足を踏ん張って思いきり体重をかけて押してみる。
けれどダメだ。

「(んーっ!)」

やっぱりビクとも動かない。
昨日の空き地で大男たちをなぎ倒したあの圧倒的な筋力は、伊達ではなかったのだと思い知らされる。

咲良が必死になって彼の胸元を押している間、綾瀬先輩は拒む風でもなく、なぜか少しだけ頬を朱に染めて照れたみたいに笑った。

「え、可愛い…。咲良ちゃんまじ積極的じゃん。もっと触っていいよ? でもさ、せっかくだからもうちょい話そうよー」

「はぁ!?」

何で、どうして、どう加工したら今の咲良の全力の拒絶が『積極的』なんていうおめでたい解釈になるのか。
会話が通じないにもほどがある。この人は日本語の辞書をどこかに置き忘れて生きてきたのだろうか。

咲良は本気で焦り始めた。
昼休みに入って静まり返っているとはいえ、ここは全校生徒が行き交う昇降口だ。
まだ周りには何人か生徒が残っているし、現に何事かと遠巻きにこちらを伺うような視線も感じ始めている。
こんなところで学園一目立つヤンキーと押し問答をしているところを誰かに見られ続けたら、明日にはどんな変な噂に書き換えられているか分かったものではない。
それだけは、何が何でも嫌だった。

そして何より――。

(だめ、この人のペースに、これ以上色々巻き込まれたくない……!)

笑顔の裏に隠された、どこか掴みどころのない彼の空気感に、咲良のガラスの盾がじわじわと侵食されていくような、そんな奇妙な胸のざわめきが怖かった。

明るくて、軽くて、こちらの都合なんて無視してぐいぐい来るくせに、どこか本気で咲良のことを楽しそうに見つめている。

その眩しすぎる光に触れてしまうのが、なぜだか少しだけ怖かった。
心の奥にある、一番脆くて真面目な自分を見透かされてしまうような、咲良はそんな奇妙な錯覚に囚われそうになる。

「話しませんっ!私がどうしようがあなたには、関係ないです!っていうか何然り気無く変態発言してるんですかっ」

咲良は自分の弱気を振り払うようにそう叫ぶと、とっさに肩にかけていたスクールバッグを両手でぐいっと持ち上げ、そのまま目の前にある綾瀬先輩の綺麗な顔へと押しつけた。

ぼふっ。

「うわっ、ちょっ……!?」

いくら喧嘩最強の怪物といえど、この至近距離でのとんでもない不意打ちには対応できなかったらしい。
さすがの綾瀬先輩も一瞬だけ体勢を崩し、視界を奪われて怯んだ。

その、一瞬の隙を、咲良は絶対に見逃さなかった。

「(今だっ……!)」

咲良はしゃがみこみ、脱ぎかけだった上靴をロッカーに乱暴に突っ込み、代わりにローファーを両手でひっつかんだ。
そして、壁についたままの彼の腕の下へ、するりと滑り込むように体を通す。
まるで捕まりかけた小動物みたいな素早さで綾瀬先輩の包囲網をすり抜けると、そのまま床を強く蹴り、昇降口の出口に向かって一気に駆け出した。

「あ! ええ、咲良ちゃーん!?」

後ろから、遮るもののない広い昇降口に、綾瀬先輩の大きな声が追いかけてくる。

その声音が、怒っている風でもなく、思ったよりもずっと子供みたいに寂しそうで。
ほんの一瞬だけ、咲良の胸の奥がちくりと痛んで、心が揺れそうになってしまった。

(――ダメ、絶対に振り返っちゃダメ……!)

咲良は必死に自分に言い聞かせて走っていった。
ここで一歩でも立ち止まって振り返ってしまったら、今度こそこの人の不思議な引力に、完全に負けてしまう気がしたから。

咲良は手にローファーを持ったまま、靴下のままで昇降口を飛び出し、芝生の上で慌てて足をごりごりと押し込むように靴を履いた。

優しく吹き抜ける風の中を、我が家を目指して全速力で走り去っていったのだった。




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