ORANGE×BOY
「で、結局本当に大丈夫だったの? ――昨日、絡まれたんでしょ?」
昼休み。
中庭に面した大きな窓から差し込む、まばゆい初夏の光。
教室の床に広がった淡い四角形の光の中で、茉那がコンビニのサンドイッチを片手に、大きな目を丸くして咲良を見つめていた。
外からは、遠くグラウンドで汗を流す運動部の元気な掛け声が、五月の青い風に乗って聞こえてくる。
そんな、いつもと変わらない、どこまでも平穏で普通の昼休みの風景の中で、咲良は手元の牛乳パックにゆっくりとストローを差しながら、努めて淡々と答えた。
「大丈夫大丈夫。ほら、見ての通り、かすり傷一つないでしょ?」
「いや、そうだけど! そういう問題じゃなくてさぁ!」
茉那は半ば叫ぶように言ってから、机の上に身を乗り出してきた。
彼女の綺麗な茶髪が、窓からの光を反射してきらきらと揺れる。
「相手、複数いたんでしょ? しかも他校の年上っぽいやつら。本当に最低だよね! 咲良に怪我がなくてよかったけどさ……」
「んー、なんかたくさんいたねー。ゾロゾロって感じ」
「いやいや、怖すぎるんだけど!? 咲良、ちゃんと先生とか、警察とか、親には言ったの?」
「……言ってない、かな」
「なんでよ!?」
「だって……大事にしたくないし。あいつらも、もう懲りたでしょ」
「いやいやいや、大事にする案件だよ、それ!」
茉那の言うことは、もっともだった。
自分でも、頭のどこかではそう思っている。
でも、先生に言ったところで「そんな夜遅くに出歩くからだ」とか、当たり障りのないお説教をされて終わる気がしたし、何より、親に知られれば心配させるだけだ。
中学時代、あの体育館裏の事件のあと、私は一ヶ月も部屋に引きこもって両親を泣かせてしまった。
彼らは娘を想う一心で、この都会への引っ越し手続きまでしてくれたのだ。
これ以上、咲良は、自分のせいで平穏な日々に荒波を立てたくなかった。
そして、何よりも――。
自分の弱いところを誰かに見せるのが、どうしても苦手だった。
「可哀想に」って心配されると、なんだか心の奥の一番柔らかい部分が刺激されて、無性に泣きたくなっちゃうから。
だからいつもガラスの盾を張って、平気なフリをしてしまう。
「それで!? そんな人数に囲まれたのに、どうやって逃げきったのよ?」
「……たまたま、かな」
「はぁ? たまたまなわけないでしょ!? 詳しく聞きたいんだけど!」
「本当にたまたまなの。逃げ込んだ空き地に、たまたま金髪のヤンキーが座ってて。そしたら、私を追ってきたやつらとその金髪くんが揉め始めて……。私はその隙に、走って逃げ帰ったの」
「は?」
「だから、たまたまなの。たまたまー」
私が牛乳を一口すすると、茉那はしばらくぽかんとした顔で私を見つめ、それから大きく息を吐いた。
「いやいやいや、何その、映画のジャイ●ンと最強の●太が戦ってる間に逃げました、みたいな設定。リアル感がなさすぎて全然面白くないんだけど!」
茉那の反応はもっともだった。
咲良ですらも、昨日のことを冷静に思い返すと、まるで悪い夢か映画のワンシーンのようで現実味がない。
だけど、実際にあったのだ。
あの夕暮れのトワイライトの中で、乱暴なほど鮮やかな金髪の男の子が、ひとりで何人もの大男を電光石火ではねのけて。
咲良はその隙に、必死に逃げ帰ることができたのだから。
茉那はしばらく呆然とサンドイッチを口に運んでいたが、やがて何かを閃いたように「あ」と小さな声を漏らした。
その瞳が、急速に好奇心で輝き始める。
「その金髪って、……もしかして、"綾瀬先輩"じゃない?」
「綾瀬?」
聞き返すと、茉那はなぜか少し興奮した顔になって、さらに机をガタッと鳴らして身を乗り出してきた。
「え、咲良知らないの!? この学校でいちばん有名な不良ヤンキーの人!」
「何それ。ここ、そんな有名人いるの?」
「いるの! っていうか有名すぎて、もはや校内の都市伝説みたいな感じだけど!」
「何それ、意味わかんない」
咲良が眉をひそめると、茉那は周囲の目を気にするように少し声をひそめながら、でも楽しそうに言葉を続けた。
「名前は"綾瀬 蓮"。学年は一つ上の二年の先輩で、それも超イケメンなんだから! 鮮やかな金髪で、喧嘩がめちゃくちゃ強いの! 噂だと、どこかの大きな暴走族チームのトップとか、大企業の社長の息子とか、色々噂が絶えないらしくて――」
茉那の弾んだ声が、咲良の耳の奥で、昨日の空き地の少年の姿と重なっていく。
――綾瀬 蓮。
夕陽を背負って立ち上がった、あの綺麗な横顔。
咲良の大嫌いな「ヤンキー」の頂点に立つような人が、昨日の自分の救世主だったなんて。
胸の奥が、また新しく、そして昨日よりもずっと激しくざわつき始めるのを、咲良は止めることができなかった。
「それでもって女子の人気すごいんだよー? 普段、学校は時々しか来ないのに、来た日は廊下ざわつくくらいなんだから!!」
茉那は興奮を隠しきれない様子で、身振りを手振りを交えながら語気を強めた。
窓外から差し込む初夏の光が、彼女のはしゃぐ横顔を明るく照らし出している。
「へぇー」
咲良はストローをくわえたまま、あえて抑揚のない声で短く返した。
「えー興味なし?! 絶対一回見たらわかるって。なんせ顔がいい!! しかも、女の子には超絶優しいみたいだし!」
「いくら顔がよくても、ヤンキーで不良なんでしょ?どれも 同じじゃん」
咲良の脳裏には、中学時代のあの最悪な記憶が瞬時に蘇っていた。ヤンキーや不良と呼ばれる人種。
それは例外なく、他人の痛みに鈍感で、力と見た目で人を支配しようとするような存在だ。
どれほど外見が甘く整っていようとも、その本質が優しさと結びつくなんて到底信じられない。
「でもでも、咲良も見たら気になると思うよ!!」
「ないわぁ」
「あるってば〜!!」
「ないない」と手を振る咲良に、茉那はなおも食い下がってくる。
まるで少女漫画のヒーローを熱弁するような彼女の必死さに、最後は押し問答みたいになって、茉那が「もう、咲良はガードが堅いんだからー!」とくすくす笑った。
咲良は少しむっとしながら、またちゅーっとジュースを吸い込んだ。
顔が良くても、ヤンキーはヤンキーだ。
見た目が綺麗に整っていたところで、中身まで信用できるわけじゃない。
むしろそういう人ほど、自分の容姿や腕力に自惚れて、周囲にちやほやされるのをいいことに好き勝手しているに決まっている。
人を外見で簡単に判断し、真面目な人間を無下にする奴らの生息地の、一番高いところにいるのがその「綾瀬蓮」という先輩なのだろう。
そう冷ややかに結論づけたはずなのに。
どうしてか、咲良の胸の奥に、昨日見たあの金髪の横顔がふっと浮かび上がってきた。
うっそうとした夏の草木の向こう、古びたベンチに座って、気怠そうにスマホをいじっていた姿。
胸ぐらを掴まれ、スイッチが入った瞬間の、あの周囲の空気を一瞬で凍らせたような鋭い目。
そして――ヤンキーたちを電光石火の速さでなぎ倒したあと、燃えるような夕暮れの光の中で、乱暴に髪を掻き上げた瞬間の、息を呑むほどに美しい横顔。
(あ、また……!)
咲良は慌てて、頭を小さく振ってその記憶を強引に追い払う。
だめだ、だめだ。
考えるだけ時間の無駄だし、何より咲良はそういう人種が大嫌いなのだ。
学校にもたまにしか来ないような不良の先輩と、1年の咲良。
住む世界が違いすぎるし、たぶん滅多に会うこともないだろう。
そう、心の中で強く誓うように思っていた。
――本当に、そう思っていたのに。
昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが、静かに、けれどどこか重々しく教室に響き渡った。