まだ恋とは呼べない距離で

正しさと我慢

夜の玄関は、いつもより重く感じた。

ドアを開けた瞬間、母の声が飛んでくる。

「理緒」

怒鳴るわけではない。

でも、短い声だった。

反射的に背筋が伸びる。

「……はい」

リビングに入ると、母はキッチンに立ったままこちらを見ていた。

表情は怒っているというより、感情を抑えているように見えた。

「今日、遅くない?」

「……ちょっと、話してて」

「“ちょっと”じゃないでしょ。前より遅いじゃない」

理緒は言葉に詰まる。

母は一歩近づく。

「誰と?」

その問いで、空気が変わる。

「……友達です」

「夜に?」

「……塾の帰りに」

母はため息をつく。

「理緒」

その声は、少しだけ強くなった。

「何度も言ってるけど、夜に出歩くのはやめなさい」

理緒は視線を落とす。

「……ごめんなさい」

「謝るなら、やめられる?」

その問いに、答えは出なかった。

沈黙。

母はそれ以上責めなかったが、許したわけでもなかった。

「もう遅い時間に外で話すのは禁止。分かった?」

「……はい」

---

部屋に戻ると、ドアを閉めた瞬間に力が抜けた。

ベッドに座る。

スマホを開く。

指が重い。

――どう伝えればいいんだろう。

先輩に、母に強く言われたことをそのまま伝えるのは違う気がした。

でも、隠すのも違う気がした。

迷いながら打つ。

«ちょっと、お母さんに怒られてしまいました»

少し考えて、続ける。

«夜の外出は控えるように言われました»

そこで一度止まる。

本当はもっと厳しかった。

でも、そのままは言えない。

だから濁す。

«ごめんなさい»

送信。

既読はすぐについた。

数秒後。

«仕方ない。連れ出してごめん»

理緒の胸が少しだけ締まる。

すぐに、また続く。

«会える時、会おう»

理緒は指先で唇に触れる。

先輩の言葉に応えたい。

なのに、不安も混ざる。

打つ。

«先輩にも、無理させてしまっている気がしていて……»

送信。

すぐに返ってくる。

«無理してない»

短い。

でも、その言葉の奥に焦りのようなものが見える気がした。

理緒は画面を見つめる。

また打つ。

«私のために時間を使わせてしまって、大丈夫ですか»

送信。

少し間。

そして――

«だから大丈夫だって»

続けて、

«むしろ、会えない方が無理»

理緒の指が止まる。

その言葉に、嬉しさと、少しだけ重さを感じる。

また少し時間が空く。

そして、先輩から。

«受験終わるまではちゃんとやる。夜会えなくても我慢する»

«だから、クリスマスだけは会いたい»

理緒の胸が、きゅっと鳴る。

――私も会いたい。

その必死さも分かる。

理緒は息を吐く。

何が正しいのか、分からない。

このまま側にいたい。

でも、どう続けていけば正しいのかも分からない。

どちらも、完全には選べなかった。

だから、曖昧なまま応える。

«分かりました。クリスマスイブ、楽しみにしてます»

送信。

すぐに返事が来る。

«絶対な»

理緒は小さく頷くように画面を見て、

«はい»

と返した。

スマホを置く。

部屋は静かになる。

胸の奥に残っているのは、今日の幸せな時間と、後ろめたさ。

その間で揺れる、まだ名前のつかない感情だった。

理緒は目を閉じて、ベッドに倒れ込む。

まだ、答えは決まっていないまま。
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