まだ恋とは呼べない距離で
同室とシスコン
春の空気は、少しだけ騒がしい。
大学の正門をくぐった瞬間から、あちこちで声が飛んでいた。
「新入生歓迎でーす!」 「サークル興味ありませんか?」 「体験だけでもぜひ!」
色とりどりのチラシが視界に入る。
理緒はそれを避けるように歩いた。
「すみません」 「大丈夫です」 「興味ないです」
声を掛けられては断り、 また少し歩いて、 また断る。
その繰り返し。
誰かと揉めたいわけじゃない。
ただ、できるだけ静かに通り過ぎたいだけだった。
大学生活に、特別な期待はない。
友達がたくさん欲しいわけでも、 サークルで青春したいわけでもない。
講義を受けて、 必要な単位を取って、 穏やかに卒業できれば、それでいい。
いや。
そういう四年間がいい、と自分に言い聞かせていた。
理緒は人混みを避けながら歩く。
笑い声が聞こえる。
新歓の写真を撮っているグループ。 連絡先を交換している女子たち。 もう打ち解けたみたいに話している新入生。
眩しい、と思った。
別に嫌いじゃない。
でも、自分がその中にいる想像ができなかった。
高校生の頃も、ずっとそんな感じだった。
誰かと普通に話せる。 笑うこともできる。
でも、どこか一歩引いた場所にいる。
踏み込まない。 踏み込ませない。
そうしている方が、楽だった。
理緒は小さく息を吐く。
構内の桜は、まだ少しだけ花が残っていた。
春なのに。
新しい場所なのに。
自分だけ、季節から取り残されている気がする。
ふと、 中学時代の図書室を思い出した。
静かな空気。 ページをめくる音。 隣の席。
もう何年も前なのに、 記憶だけは、まだ温度を持って残っていた。
あの頃の自分は、 もう少し前向きだった。
春は春らしく過ごせていた。
でも。
その続きを、うまく生きられなかった。
だからきっと、 私はまだ、あの時の時間のままここにいる。
「——あ、いたいた」
突然、すぐ近くで声がした。
理緒が顔を上げる。
知らない男子学生が、 こちらを見ながら笑っていた。
「あのさ、起業に興味ない?」
理緒は理解が追いつかずに固まる。
「起業。会社起こすやつ、興味ない?」
「……はい? 私ですか?」
「さっき、広報研究会でちょっと足止めてたでしょ。今、広報やってくれる人探しててさ」
そこまで言ってから、男子学生は少し首を傾げた。
「あと、君のこと何か見たことある気がするんだよな」
理緒は怪訝そうに眉を寄せる。
「……よくある、ナンパの手ですか?」
その男子学生は気にした様子もなく笑った。
「違う違う。本当に。俺も思い出せないんだけど……」
「すみません。私はあなたを知りません」
そう言って軽く頭を下げ、立ち去ろうとした時だった。
「待って待って! 起業のほうは? 興味ない?」
呼び止められて、理緒は小さくため息をつく。
「興味ありません。すみませんが、失礼します」
その日は、それで終わった。
---
翌日。
理緒が大学の門をくぐった時だった。
「神崎さん!」
突然名前を呼ばれ、理緒は思わず振り返る。
少し離れた場所で、昨日の“起業の男子学生”がこちらに手を振っていた。
――名前、知ってるの?
理緒は足を止める。
男子学生はそのまま軽い足取りで近付いてきた。
「やっぱり、神崎さんで合ってた? 違うかもしれないけど、一か八かで呼んでみた」
「……本当に、私のこと知ってるんですね?」
「だから言ったじゃん」
悪びれもせず笑う。
理緒は少しだけ眉を寄せた。
「……あの、覚えてなくてすみません。どこで会いました?」
「俺、達也の小・中・高の同級生の佐藤誠。佐藤は日本に多すぎるから、誠って呼んで」
理緒の表情が、わずかに止まる。
誠さんは気にした様子もなく続けた。
「ちゃんと会ったことあるのは小学生の頃。でも、高校の時に達也の写真でキミの顔見たことあったからさ」
「……だから、私には記憶がなかったんですね」
理緒は小さく頭を下げる。
「すみません。……兄の友人ですか?」
「うん。寮で同室だった」
「……同室」
思わず、その言葉を繰り返す。
理緒の知らない兄の時間が、一瞬だけ頭をよぎった。
誠さんはそんな理緒を見ながら、軽く笑う。
「ね、時間ある? 少し話さない?」
理緒は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。
「……はい」
「じゃあ、2号館のカフェテリア行こう」
「いえ……私、2限から授業なので……ここでお願いします」
「2限、どこの教室? 何の授業?」
「1号館の英会話です……」
「じゃ、俺もそれ受ける」
「えぇ!?」
理緒は思わず声を上げた。
「英語はやっといて損ないし。俺、ゼミと必修以外は暇だしさ」
「でも……」
「いいからいいから。授業始まるまで話そう」
「……はい」
1号館103号室。
席に着くなり、誠さんが理緒のほうを見る。
「で、神崎さんは俺に聞きたいこととかないの?」
「え……聞きたいこと、ですか?」
「うん。兄の寮生活とか、シスコンっぷりとか」
「シスコン……?」
理緒は首をかしげる。
冗談だと思って流そうとするが、誠さんは平然としていた。
「そう、シスコン。妹の写真持ち歩いてたし」
「……まさか」
「まぁ、お前一人じゃなくて家族写真だけどな。あれは完全にムッツリシスコンだわ」
「そんなはず……」
「兄妹、仲良かったんじゃないの?」
その言葉に、理緒の指がわずかに止まる。
「……いえ。兄が中学に入ってからは、ほとんど話していません」
「へぇ、思っていたのと違うな」
「……違いますか?」
「うん。あいつ、わりと君の話してたからさ」
「兄が……私の話を?」
理緒はまっすぐ誠さんを見る。
誠さんはたしかに頷いた。
「勉強できるとか、意外と負けず嫌いとか、周り見すぎるタイプだとか」
「……それ、私ですか?」
「そう」
理緒は視線を落とす。
「それは……昔の私だと思います。兄と距離ができる前の」
「ふーん」
誠さんは興味深そうに息を吐いた。
「私が兄のように勉強できたら、もっと上の大学へ行ってますよ」
理緒は誤魔化すように笑う。
「そういえば、兄の高校の同級生なんですよね。あんな名門高校から、なんでこの大学に?」
「俺? 起業したいから」
「……それ、本気だったんですね」
「まぁな」
誠さんは笑う。
「でさ、神崎さんも本当はもっと上いけたんじゃないの?」
「……そんなこと……」
言いかけたところで、講師が教室に入ってくる。
誠さんは軽くノートを開きながら言った。
「ま、とりあえずこの話はまたこの後な」
大学の正門をくぐった瞬間から、あちこちで声が飛んでいた。
「新入生歓迎でーす!」 「サークル興味ありませんか?」 「体験だけでもぜひ!」
色とりどりのチラシが視界に入る。
理緒はそれを避けるように歩いた。
「すみません」 「大丈夫です」 「興味ないです」
声を掛けられては断り、 また少し歩いて、 また断る。
その繰り返し。
誰かと揉めたいわけじゃない。
ただ、できるだけ静かに通り過ぎたいだけだった。
大学生活に、特別な期待はない。
友達がたくさん欲しいわけでも、 サークルで青春したいわけでもない。
講義を受けて、 必要な単位を取って、 穏やかに卒業できれば、それでいい。
いや。
そういう四年間がいい、と自分に言い聞かせていた。
理緒は人混みを避けながら歩く。
笑い声が聞こえる。
新歓の写真を撮っているグループ。 連絡先を交換している女子たち。 もう打ち解けたみたいに話している新入生。
眩しい、と思った。
別に嫌いじゃない。
でも、自分がその中にいる想像ができなかった。
高校生の頃も、ずっとそんな感じだった。
誰かと普通に話せる。 笑うこともできる。
でも、どこか一歩引いた場所にいる。
踏み込まない。 踏み込ませない。
そうしている方が、楽だった。
理緒は小さく息を吐く。
構内の桜は、まだ少しだけ花が残っていた。
春なのに。
新しい場所なのに。
自分だけ、季節から取り残されている気がする。
ふと、 中学時代の図書室を思い出した。
静かな空気。 ページをめくる音。 隣の席。
もう何年も前なのに、 記憶だけは、まだ温度を持って残っていた。
あの頃の自分は、 もう少し前向きだった。
春は春らしく過ごせていた。
でも。
その続きを、うまく生きられなかった。
だからきっと、 私はまだ、あの時の時間のままここにいる。
「——あ、いたいた」
突然、すぐ近くで声がした。
理緒が顔を上げる。
知らない男子学生が、 こちらを見ながら笑っていた。
「あのさ、起業に興味ない?」
理緒は理解が追いつかずに固まる。
「起業。会社起こすやつ、興味ない?」
「……はい? 私ですか?」
「さっき、広報研究会でちょっと足止めてたでしょ。今、広報やってくれる人探しててさ」
そこまで言ってから、男子学生は少し首を傾げた。
「あと、君のこと何か見たことある気がするんだよな」
理緒は怪訝そうに眉を寄せる。
「……よくある、ナンパの手ですか?」
その男子学生は気にした様子もなく笑った。
「違う違う。本当に。俺も思い出せないんだけど……」
「すみません。私はあなたを知りません」
そう言って軽く頭を下げ、立ち去ろうとした時だった。
「待って待って! 起業のほうは? 興味ない?」
呼び止められて、理緒は小さくため息をつく。
「興味ありません。すみませんが、失礼します」
その日は、それで終わった。
---
翌日。
理緒が大学の門をくぐった時だった。
「神崎さん!」
突然名前を呼ばれ、理緒は思わず振り返る。
少し離れた場所で、昨日の“起業の男子学生”がこちらに手を振っていた。
――名前、知ってるの?
理緒は足を止める。
男子学生はそのまま軽い足取りで近付いてきた。
「やっぱり、神崎さんで合ってた? 違うかもしれないけど、一か八かで呼んでみた」
「……本当に、私のこと知ってるんですね?」
「だから言ったじゃん」
悪びれもせず笑う。
理緒は少しだけ眉を寄せた。
「……あの、覚えてなくてすみません。どこで会いました?」
「俺、達也の小・中・高の同級生の佐藤誠。佐藤は日本に多すぎるから、誠って呼んで」
理緒の表情が、わずかに止まる。
誠さんは気にした様子もなく続けた。
「ちゃんと会ったことあるのは小学生の頃。でも、高校の時に達也の写真でキミの顔見たことあったからさ」
「……だから、私には記憶がなかったんですね」
理緒は小さく頭を下げる。
「すみません。……兄の友人ですか?」
「うん。寮で同室だった」
「……同室」
思わず、その言葉を繰り返す。
理緒の知らない兄の時間が、一瞬だけ頭をよぎった。
誠さんはそんな理緒を見ながら、軽く笑う。
「ね、時間ある? 少し話さない?」
理緒は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。
「……はい」
「じゃあ、2号館のカフェテリア行こう」
「いえ……私、2限から授業なので……ここでお願いします」
「2限、どこの教室? 何の授業?」
「1号館の英会話です……」
「じゃ、俺もそれ受ける」
「えぇ!?」
理緒は思わず声を上げた。
「英語はやっといて損ないし。俺、ゼミと必修以外は暇だしさ」
「でも……」
「いいからいいから。授業始まるまで話そう」
「……はい」
1号館103号室。
席に着くなり、誠さんが理緒のほうを見る。
「で、神崎さんは俺に聞きたいこととかないの?」
「え……聞きたいこと、ですか?」
「うん。兄の寮生活とか、シスコンっぷりとか」
「シスコン……?」
理緒は首をかしげる。
冗談だと思って流そうとするが、誠さんは平然としていた。
「そう、シスコン。妹の写真持ち歩いてたし」
「……まさか」
「まぁ、お前一人じゃなくて家族写真だけどな。あれは完全にムッツリシスコンだわ」
「そんなはず……」
「兄妹、仲良かったんじゃないの?」
その言葉に、理緒の指がわずかに止まる。
「……いえ。兄が中学に入ってからは、ほとんど話していません」
「へぇ、思っていたのと違うな」
「……違いますか?」
「うん。あいつ、わりと君の話してたからさ」
「兄が……私の話を?」
理緒はまっすぐ誠さんを見る。
誠さんはたしかに頷いた。
「勉強できるとか、意外と負けず嫌いとか、周り見すぎるタイプだとか」
「……それ、私ですか?」
「そう」
理緒は視線を落とす。
「それは……昔の私だと思います。兄と距離ができる前の」
「ふーん」
誠さんは興味深そうに息を吐いた。
「私が兄のように勉強できたら、もっと上の大学へ行ってますよ」
理緒は誤魔化すように笑う。
「そういえば、兄の高校の同級生なんですよね。あんな名門高校から、なんでこの大学に?」
「俺? 起業したいから」
「……それ、本気だったんですね」
「まぁな」
誠さんは笑う。
「でさ、神崎さんも本当はもっと上いけたんじゃないの?」
「……そんなこと……」
言いかけたところで、講師が教室に入ってくる。
誠さんは軽くノートを開きながら言った。
「ま、とりあえずこの話はまたこの後な」