推しだったキミに恋をした
長谷流司は、通知の来ないスマホを何度目か分からないほど見下ろしていた。
楽屋のソファは柔らかい。稽古終わりの体は沈み込めばそのまま眠ってしまえそうなくらい疲れている。テーブルの上には開いたままの台本と、半分ほど残った水のペットボトル。マネージャーは少し離れたところで明日の確認をしていて、廊下の向こうからはスタッフの足音や、誰かの笑い声が薄く聞こえていた。
けれど流司の意識は、ずっと手の中の画面に貼りついていた。
通知はない。
先週の土曜日、あのカフェの空中庭園で連絡先を書いて渡し「絶対登録してよ」と言った。今思い出しても、かなり格好悪い。渡した瞬間は、これで繋がれると本気で思っていた。けれどエレベーターに乗ってから、自分の連絡先しか渡していないことに気づいた。
名前も聞いていない。連絡先も聞いていない。彼女が自分の番号を登録して連絡してくれない限り、何も始まらない。
十年ぶりに会えたのに。
それなのに、自分はまた、彼女を見失うかもしれない。
「……何やってんだろ、俺」
低く呟いた声は、楽屋の空気に吸い込まれるだけだった。
舞台の上では、たいていのことに対応できる。台詞が飛んだ相手がいれば拾うし、殺陣の間合いが少しずれても体が勝手に調整する。客席の空気が重ければ声の温度を変えればいい。共演者の緊張も、スタッフの焦りもある程度は読める。
それなのに、彼女のことになるとまるでだめだった。
スマホを見ても通知はない。分かっているのに、また画面を点ける。消す。置く。数秒後にまた手に取る。自分でも呆れるほど落ち着かない。
やはり怖がらせたのかもしれない。
あの時は十年分の感情が一気に溢れて、考えるより先に体が動いていた。チョコレートを食べさせたこと。手を引いたこと。エレベーターで頭を撫でさせたこと。空中庭園で抱きしめて頬にキスしたこと。
今になって1つずつ思い返すと、全部やりすぎだった。
それでもあの瞬間の流司には、他の選択肢が見えていなかった。目の前に彼女がいた。十年前、名前も知らないまま消えてしまった人が何でもない顔をしてあのカフェに立っていた。
――おつかれさまです。
そう言った声を聞いた瞬間、十年前の記憶が胸の奥で音を立てて開いた。
まだ今ほど仕事のなかった頃だった。
十八歳だったか、十九歳だったか。正確な年齢は覚えているはずなのに、その頃の記憶はところどころぼやけている。舞台の稽古、オーディション、雑誌の小さな撮影、先輩の後ろに立つだけのイベント。仕事があるだけでありがたいと言われ、ありがたいと思わなければならない空気があった。
売れたいなら、もっと笑え。
印象に残りたいなら、爪痕を残せ。
若いんだから、多少無理してでも頑張れ。
どれも、悪意のある言葉ではなかった。事務所の人も、先輩も、スタッフも、流司を潰そうとして言っていたわけではない。実際その通りなのだと思っていた。笑顔が硬いと言われれば、鏡の前で笑い方を練習した。トークが弱いと言われれば、帰りの電車で反省をメモした。疲れていても、疲れた顔を見せるのは違うと思った。
ファンの声も、同じだった。
頑張ってください。
次の舞台も見に行きます。
いつかもっと大きい舞台に立つ姿を見たいです。
どれも嬉しかった、本当に嬉しかった。期待されるのはありがたいことだ。見てくれている人がいるから、仕事は続く。自分一人で立っているわけではない。それくらい分かっていた。
ただ、些細な一言が少しずつ積もっていくことがあった。
頑張って。
もっと。
次も。
その1つ1つは軽くて温かいのに、胸の上に乗るとたまに息が浅くなる。期待に応えられなかったらどうなるのだろう。売れなかったら忘れられる。もっと笑えなかったら次はない。そう考えるたび、手のひらが冷たくなった。
その日は、写真集のお渡し会を兼ねた小さな握手会だった。
まだ会場も大きくはない。並んでくれた人たちの顔が一人ずつ見える距離で、スタッフの声も近い。ありがとうございます、頑張ります、また来てください。用意された言葉を、流司は何度も繰り返した。もちろん心を込めているつもりだった。けれど何十人と続くうちに、自分の声がどこか遠くから聞こえてくる。
笑えているだろうか。
ちゃんと目を見られているだろうか。
感じよくできているだろうか。
そう考えながら握る手は、いつの間にかひどく冷えていた。
順番が進んで、ある一人の女の子が前に立った。
最初の印象は、緊張している子だった。
丸みのあるやわらかな顔立ち。横にすっと流れる目元に、黒目が大きく見える瞳と右目下にある泣きほくろ。前髪は眉あたりで切りそろえられていて、肩上まで落ちる髪が控えめに揺れていた。派手な格好ではない。声も大きくない。けれど順番が来る前から小さく息を整えているのが見えて、流司は少しだけ口元を緩めた。
「ありがとうございます」
写真集を渡すと、彼女は両手で受け取った。指先が少し震えていた。緊張しているのが分かりすぎるくらい分かって、流司はいつものように手を差し出した。
彼女の手は、あたたかかった。
けれど握った瞬間、彼女がほんの少しだけ目を見開く。
その反応に、流司の方が一瞬戸惑った。何か失敗しただろうか。力が強かったのか。笑顔が変だったのか。頭の中で反省の候補が一気に並ぶ。
彼女は流司の手を見て、それから顔を上げた。
目が合った。
その目は、他の誰とも違うものを見ている気がした。顔でも、名前でも、役でもない。もっと奥の、流司自身でさえ見ないようにしていたところを、知らないうちに覗かれたような気がした。
「あの」
彼女の声は小さかった。
後ろにはまだ人が並んでいる。時間は限られている。スタッフの目もある。彼女もそれを分かっているからか、言葉を急ごうとして少しだけ詰まった。
「これからも、活躍を応援しています」
よくある言葉だった。
嬉しいはずの、ありがたい言葉。流司は反射的に「ありがとうございます」と返そうとした。けれど彼女は、そこで終わらなかった。
「でも……たまには立ち止まって、ちゃんと息してくださいね」
その瞬間、流司は返す言葉を失った。
彼女は自分で言っておきながら、すぐに恥ずかしくなったように視線を揺らした。若手俳優相手に何を言っているのだろう、と自分でも思ったのかもしれない。頬が少し赤くなって、手を離すタイミングを迷っている。
けれど流司は動けなかった。
――ちゃんと息してください。
誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。
頑張ってではなく、もっとでもなく、売れてでもなく。今より高いところへ行けと言うのではなく、まず息をしろと。立ち止まってもいいと。そう言われた気がした。
手の冷たさに気づいたのだろうか。
笑っているのに疲れていると、見えたのだろうか。
彼女が何を思ってそう言ったのか、流司には分からない。ただ胸の奥に絡まっていた何かが、その一言で少しだけほどけた。
「……ありがとうございます」
やっと出た言葉は、いつもよりずっと小さかった。
彼女は慌てて首を横に振り、写真集を大事そうに抱え直す。
「こちらこそ、ありがとうございました」
スタッフに促され、彼女は列の外へ進んでいく。何度も振り返るタイプではなかった。少しだけ名残惜しそうにしながらもきちんと一礼して、そのまま人の流れに紛れていった。
その背中が見えなくなっても、流司の手には彼女の体温が残っていた。
イベントは続いた。
その後も「頑張ってください」「応援しています」と何度も言われた。流司は笑い、礼を言い、写真集を渡し、握手をした。けれど胸の奥ではさっきの言葉だけがゆっくり反響していた。
――たまには立ち止まって、ちゃんと息してくださいね。
帰りの車の中で、流司は初めて深く息を吸った。
それまで自分がどれだけ浅く呼吸していたのか、その時になってようやく気づいた。肺の奥まで空気が入って少し苦しいくらいだ。窓の外を流れる夜の街を見ながら、流司は自分の手のひらを見下ろした。
名前を聞いておけばよかった。
その後悔は、その日のうちに始まった。
けれど次の日にはいつも通りの仕事が始まる。稽古もあった。反省会も、オーディションも、次の現場の顔合わせもあった。日々は立ち止まってくれない。彼女のことだけを考えていられるほど、流司の毎日は暇ではなかった。
それでも、不思議と忘れなかった。
台詞がうまく入らなくて帰り道に一人で落ち込んだ日。先輩の隣に立つだけで何も残せなかったと感じた日。舞台が終わった後、楽屋で誰もいなくなってから急に体の力が抜けた日。
そんな時、ふとあの声が浮かぶ。
――ちゃんと息してくださいね。
思い出すたびに、流司は深く息を吸った。目を閉じて、肩の力を抜いた。たったそれだけで何かが劇的に変わるわけではない。仕事が増えるわけでも、評価が上がるわけでもない。けれど、一度呼吸を整えると、また前を向けた。
それが何度も続いた。
いつの間にか、彼女の言葉は流司の中で小さな指針になっていた。舞台に立つ前。稽古で詰まった時。スタッフに厳しい言葉をもらった後。客席の反応が思ったより重くて、自分の力不足を感じた夜。流司は誰にも分からないところであの日の言葉を思い出した。
立ち止まってもいい。
息をしてもいい。
それは、売れたいと思う気持ちを否定する言葉ではなかった。頑張るなと言われたわけでもない。むしろ彼女は、これからも応援していると言ってくれた。その上で、呼吸を忘れるなと言った。
だから余計に、支えになった。
数年が経ち、流司の仕事は少しずつ増えていった。小さな役から目立つ役へ。脇を固める役から物語の中心に立つ役へ。観客席の数も、取材の数も、ファンの声も増えた。
いつだったか、雑誌のインタビューで聞かれたことがある。
「忙しい時期をどう乗り越えていますか」
用意されたような答えならいくつもあった。体調管理を徹底しています。仲間に支えられています。応援してくださる皆さんの声が力になります。どれも嘘ではない。
けれどその時、流司の口から出たのは別の言葉だった。
「大変な時もあるんですけど、でも、たまには立ち止まってちゃんと息するようにしています」
インタビュアーは「いい言葉ですね」と笑った。
もしかしたら、あの子が読むかもしれないと思った。
今も自分を見てくれているかは分からない。もうファンではないかもしれない。あの日のことなんて覚えていないかもしれない。それでも、もしどこかでそのインタビューを見てくれたら自分に届いたと気づくだろうか。あなたの言葉を、まだ覚えていると。
それからも、似たようなことを何度か言った。
舞台挨拶で忙しい時のリフレッシュ方法を聞かれた時。ラジオで、落ち込んだ時にどうするか聞かれた時。流司は冗談っぽく、でも少しだけ本気で「息します」と答えた。
ファンは笑った。共演者も笑った。マネージャーには、変な答え方をしますねと言われた。
けれど流司にとっては、冗談ではなかった。
彼女に届けるためだけに仕事をしていたわけではない。そんな綺麗な話ではない。流司には野心もあったし、負けず嫌いなところもあった。もっと上に行きたい。もっと大きな舞台に立ちたい。誰にも代わりがきかない俳優になりたい。そう思って走ってきた。
それでも、苦しい時に思い出す顔があった。
名前も知らない。どこに住んでいるのかも知らない。何歳だったのかも、正確には分からない。ただ握った手があたたかかったこと。自分の手の冷たさに気づいたように目を揺らしたこと。緊張しながらも、まっすぐ言葉をくれたこと。
最初は、ただお礼を言いたかった。
あの日、あなたの言葉に救われました。
それだけを、いつか伝えたいと思っていた。
けれど年を重ねるほど、その「いつか」は形を変えていった。仕事で大きな節目を迎えるたびに、流司は考えた。今の自分を見たら彼女はどう思うだろう。ちゃんと息をしているように見えるだろうか。まだ応援してくれているだろうか。
気づけば、彼女を思い出す時間が増えていた。
舞台袖で深呼吸する時。取材で笑った後、一人になった時。夜中に台本を閉じ、部屋の明かりを落とした時。ふとした隙間に、彼女の声が浮かぶ。
それはもう、ただの感謝とは呼べなかった。
名前も知らない相手に何を、と思う自分もいた。十年前に一度だけ会ったファンを忘れられないなんて、自分でもおかしいと思った。けれど何度否定しても消えなかった。消えないどころか、思い出すたびに輪郭が濃くなっていく。
あの子に会いたい。
お礼を言いたい。
今の自分を見てほしい。
そしてできるならいつか、名前を呼んでほしい。
そんな願いが、いつの間にか胸の奥に居座っていた。
だから、先週の土曜日。
カフェイベントの最後に彼女を見つけた瞬間、流司は本当に呼吸を忘れた。
最初は信じられなかった。十年だ、十年も経っている。人の顔は変わるし、記憶だって都合よく補正される。似ているだけかもしれない。そう思おうとした。
けれど、彼女が顔を上げた瞬間に分かった。
あの目だった。
十年前と同じ、遠慮がちで、でも人の奥を見てしまう目。少し戸惑うと固まるところも、言葉を選ぶ時に視線が揺れるところも、あの日と同じだった。
――おつかれさまです。
そう言われて、流司は笑いそうになった。十年前も、彼女は緊張していた。今も、なぜか仕事終わりのスタッフにかけるみたいな言葉をくれた。そのぎこちなささえ懐かしくて、胸が詰まった。
やっと会えた。
頭の中は、その一言だけだった。
だから理性が置いていかれた。チョコレートを差し出したのも、手を引いたのも、空中庭園へ連れていったのも、今思えば全部、十年分の衝動だ。彼女を驚かせたいわけではなかった。怖がらせたいわけでも、困らせたいわけでもない。
ただ、もう目の前から消えてほしくなかった。
今度こそ、繋がりたかった。
それなのに。
流司は現在の楽屋でスマホを見下ろし、深く息を吐いた。
彼女からの連絡はまだ来ない。
画面は静かなまま。どれだけ眺めても通知は増えない。あの紙を捨てられた可能性を考えると、胸のあたりが冷える。けれどもしかすると彼女はただ迷っているだけかもしれない。登録していいのか、送っていいのか、困っているのかもしれない。
彼女は、そういう人に見えた。
十年前も、言葉を言うまでに少し迷っていた。それでも最後には、ちゃんと伝えてくれた。なら今も、時間がかかっているだけかもしれない。
そう思いたい。
「流司さん」
マネージャーの声がして流司は顔を上げた。いつの間にか楽屋の入口に立っていたらしい。手にはタブレットを持っている。
「明日の昼、少しだけ空きます。夕方には戻ってもらいますけど」
「やっとか」
反射的に声が明るくなった。マネージャーはその反応に、少しだけ目を細める。
「何しに行くんですか」
「ちょっと、カフェ」
「それだけなら別にいいですけど、人の多い場所で目立つことしないでくださいね」
「しない」
流司は目を逸らした。先週の自分を思えば、強く否定はできない。マネージャーはため息をつきながら、スケジュールの画面を閉じた。
「変な写真撮られたら面倒ですよ。今、次の舞台の情報解禁前なんですから」
「分かってる」
そう答えながら、流司の頭の中にはもう明日のカフェしかなかった。
彼女が来る保証なんてない。あの店が好きそうだったというだけで、同じ時間にもう一度来るとは限らない。普通に考えれば、可能性は低い。けれどゼロではない。ゼロでないなら、行く理由には十分だった。
会えたら、今度はちゃんと聞く。
名前を。
連絡先を。
そして、十年前のことを覚えているのかを。
けれどそこまで考えて、流司は少しだけ怯んだ。
もし覚えていなかったら?
もしあの日の言葉を何となく言っただけで、彼女の中には何も残っていなかったら。
十年間、自分が支えにしてきたものが、彼女にとってはほんの数秒の出来事でしかなかったとしたら。
怖かった。
舞台に立つ前の緊張とは違う。失敗を恐れる感覚とも違う。もっと個人的で、もっと格好悪い恐怖だった。
それでも、会いたい。
流司はスマホの画面を閉じ、胸の奥に残るざわめきを抑えるように息を吸った。十年前に教えられた通りに、一度立ち止まって、ちゃんと息をする。
息を吐くと、少しだけ落ち着いた。
「……覚えてなくても、いいか」
小さく呟く。
本当はよくない。覚えていてほしい。あの日のことを、彼女にも特別だったと思っていてほしい。けれどもし彼女が忘れていても、流司が救われた事実は消えない。十年間、その言葉に支えられてきたことも、今の自分の中に彼女がいることも、なくならない。
だから、まずはお礼を言おう。
ずっと言えなかった、ありがとうを。
その上で、もう一度彼女と向き合えたらいい。
スマホは相変わらず静かだった。メッセージは来ない。通知もない。
それでも流司は、さっきより少しだけ穏やかに画面を見つめた。
明日、あのカフェへ行く。
もし会えたら今度こそ逃がさない。無理やりではなく、怖がらせるのでもなく、ちゃんと自分の言葉で繋がる。
十年前、彼女がくれた言葉を、ようやく返しに行くために。
流司は台本を閉じ、ソファからゆっくり立ち上がった。
楽屋のソファは柔らかい。稽古終わりの体は沈み込めばそのまま眠ってしまえそうなくらい疲れている。テーブルの上には開いたままの台本と、半分ほど残った水のペットボトル。マネージャーは少し離れたところで明日の確認をしていて、廊下の向こうからはスタッフの足音や、誰かの笑い声が薄く聞こえていた。
けれど流司の意識は、ずっと手の中の画面に貼りついていた。
通知はない。
先週の土曜日、あのカフェの空中庭園で連絡先を書いて渡し「絶対登録してよ」と言った。今思い出しても、かなり格好悪い。渡した瞬間は、これで繋がれると本気で思っていた。けれどエレベーターに乗ってから、自分の連絡先しか渡していないことに気づいた。
名前も聞いていない。連絡先も聞いていない。彼女が自分の番号を登録して連絡してくれない限り、何も始まらない。
十年ぶりに会えたのに。
それなのに、自分はまた、彼女を見失うかもしれない。
「……何やってんだろ、俺」
低く呟いた声は、楽屋の空気に吸い込まれるだけだった。
舞台の上では、たいていのことに対応できる。台詞が飛んだ相手がいれば拾うし、殺陣の間合いが少しずれても体が勝手に調整する。客席の空気が重ければ声の温度を変えればいい。共演者の緊張も、スタッフの焦りもある程度は読める。
それなのに、彼女のことになるとまるでだめだった。
スマホを見ても通知はない。分かっているのに、また画面を点ける。消す。置く。数秒後にまた手に取る。自分でも呆れるほど落ち着かない。
やはり怖がらせたのかもしれない。
あの時は十年分の感情が一気に溢れて、考えるより先に体が動いていた。チョコレートを食べさせたこと。手を引いたこと。エレベーターで頭を撫でさせたこと。空中庭園で抱きしめて頬にキスしたこと。
今になって1つずつ思い返すと、全部やりすぎだった。
それでもあの瞬間の流司には、他の選択肢が見えていなかった。目の前に彼女がいた。十年前、名前も知らないまま消えてしまった人が何でもない顔をしてあのカフェに立っていた。
――おつかれさまです。
そう言った声を聞いた瞬間、十年前の記憶が胸の奥で音を立てて開いた。
まだ今ほど仕事のなかった頃だった。
十八歳だったか、十九歳だったか。正確な年齢は覚えているはずなのに、その頃の記憶はところどころぼやけている。舞台の稽古、オーディション、雑誌の小さな撮影、先輩の後ろに立つだけのイベント。仕事があるだけでありがたいと言われ、ありがたいと思わなければならない空気があった。
売れたいなら、もっと笑え。
印象に残りたいなら、爪痕を残せ。
若いんだから、多少無理してでも頑張れ。
どれも、悪意のある言葉ではなかった。事務所の人も、先輩も、スタッフも、流司を潰そうとして言っていたわけではない。実際その通りなのだと思っていた。笑顔が硬いと言われれば、鏡の前で笑い方を練習した。トークが弱いと言われれば、帰りの電車で反省をメモした。疲れていても、疲れた顔を見せるのは違うと思った。
ファンの声も、同じだった。
頑張ってください。
次の舞台も見に行きます。
いつかもっと大きい舞台に立つ姿を見たいです。
どれも嬉しかった、本当に嬉しかった。期待されるのはありがたいことだ。見てくれている人がいるから、仕事は続く。自分一人で立っているわけではない。それくらい分かっていた。
ただ、些細な一言が少しずつ積もっていくことがあった。
頑張って。
もっと。
次も。
その1つ1つは軽くて温かいのに、胸の上に乗るとたまに息が浅くなる。期待に応えられなかったらどうなるのだろう。売れなかったら忘れられる。もっと笑えなかったら次はない。そう考えるたび、手のひらが冷たくなった。
その日は、写真集のお渡し会を兼ねた小さな握手会だった。
まだ会場も大きくはない。並んでくれた人たちの顔が一人ずつ見える距離で、スタッフの声も近い。ありがとうございます、頑張ります、また来てください。用意された言葉を、流司は何度も繰り返した。もちろん心を込めているつもりだった。けれど何十人と続くうちに、自分の声がどこか遠くから聞こえてくる。
笑えているだろうか。
ちゃんと目を見られているだろうか。
感じよくできているだろうか。
そう考えながら握る手は、いつの間にかひどく冷えていた。
順番が進んで、ある一人の女の子が前に立った。
最初の印象は、緊張している子だった。
丸みのあるやわらかな顔立ち。横にすっと流れる目元に、黒目が大きく見える瞳と右目下にある泣きほくろ。前髪は眉あたりで切りそろえられていて、肩上まで落ちる髪が控えめに揺れていた。派手な格好ではない。声も大きくない。けれど順番が来る前から小さく息を整えているのが見えて、流司は少しだけ口元を緩めた。
「ありがとうございます」
写真集を渡すと、彼女は両手で受け取った。指先が少し震えていた。緊張しているのが分かりすぎるくらい分かって、流司はいつものように手を差し出した。
彼女の手は、あたたかかった。
けれど握った瞬間、彼女がほんの少しだけ目を見開く。
その反応に、流司の方が一瞬戸惑った。何か失敗しただろうか。力が強かったのか。笑顔が変だったのか。頭の中で反省の候補が一気に並ぶ。
彼女は流司の手を見て、それから顔を上げた。
目が合った。
その目は、他の誰とも違うものを見ている気がした。顔でも、名前でも、役でもない。もっと奥の、流司自身でさえ見ないようにしていたところを、知らないうちに覗かれたような気がした。
「あの」
彼女の声は小さかった。
後ろにはまだ人が並んでいる。時間は限られている。スタッフの目もある。彼女もそれを分かっているからか、言葉を急ごうとして少しだけ詰まった。
「これからも、活躍を応援しています」
よくある言葉だった。
嬉しいはずの、ありがたい言葉。流司は反射的に「ありがとうございます」と返そうとした。けれど彼女は、そこで終わらなかった。
「でも……たまには立ち止まって、ちゃんと息してくださいね」
その瞬間、流司は返す言葉を失った。
彼女は自分で言っておきながら、すぐに恥ずかしくなったように視線を揺らした。若手俳優相手に何を言っているのだろう、と自分でも思ったのかもしれない。頬が少し赤くなって、手を離すタイミングを迷っている。
けれど流司は動けなかった。
――ちゃんと息してください。
誰かに、そんなことを言われたのは初めてだった。
頑張ってではなく、もっとでもなく、売れてでもなく。今より高いところへ行けと言うのではなく、まず息をしろと。立ち止まってもいいと。そう言われた気がした。
手の冷たさに気づいたのだろうか。
笑っているのに疲れていると、見えたのだろうか。
彼女が何を思ってそう言ったのか、流司には分からない。ただ胸の奥に絡まっていた何かが、その一言で少しだけほどけた。
「……ありがとうございます」
やっと出た言葉は、いつもよりずっと小さかった。
彼女は慌てて首を横に振り、写真集を大事そうに抱え直す。
「こちらこそ、ありがとうございました」
スタッフに促され、彼女は列の外へ進んでいく。何度も振り返るタイプではなかった。少しだけ名残惜しそうにしながらもきちんと一礼して、そのまま人の流れに紛れていった。
その背中が見えなくなっても、流司の手には彼女の体温が残っていた。
イベントは続いた。
その後も「頑張ってください」「応援しています」と何度も言われた。流司は笑い、礼を言い、写真集を渡し、握手をした。けれど胸の奥ではさっきの言葉だけがゆっくり反響していた。
――たまには立ち止まって、ちゃんと息してくださいね。
帰りの車の中で、流司は初めて深く息を吸った。
それまで自分がどれだけ浅く呼吸していたのか、その時になってようやく気づいた。肺の奥まで空気が入って少し苦しいくらいだ。窓の外を流れる夜の街を見ながら、流司は自分の手のひらを見下ろした。
名前を聞いておけばよかった。
その後悔は、その日のうちに始まった。
けれど次の日にはいつも通りの仕事が始まる。稽古もあった。反省会も、オーディションも、次の現場の顔合わせもあった。日々は立ち止まってくれない。彼女のことだけを考えていられるほど、流司の毎日は暇ではなかった。
それでも、不思議と忘れなかった。
台詞がうまく入らなくて帰り道に一人で落ち込んだ日。先輩の隣に立つだけで何も残せなかったと感じた日。舞台が終わった後、楽屋で誰もいなくなってから急に体の力が抜けた日。
そんな時、ふとあの声が浮かぶ。
――ちゃんと息してくださいね。
思い出すたびに、流司は深く息を吸った。目を閉じて、肩の力を抜いた。たったそれだけで何かが劇的に変わるわけではない。仕事が増えるわけでも、評価が上がるわけでもない。けれど、一度呼吸を整えると、また前を向けた。
それが何度も続いた。
いつの間にか、彼女の言葉は流司の中で小さな指針になっていた。舞台に立つ前。稽古で詰まった時。スタッフに厳しい言葉をもらった後。客席の反応が思ったより重くて、自分の力不足を感じた夜。流司は誰にも分からないところであの日の言葉を思い出した。
立ち止まってもいい。
息をしてもいい。
それは、売れたいと思う気持ちを否定する言葉ではなかった。頑張るなと言われたわけでもない。むしろ彼女は、これからも応援していると言ってくれた。その上で、呼吸を忘れるなと言った。
だから余計に、支えになった。
数年が経ち、流司の仕事は少しずつ増えていった。小さな役から目立つ役へ。脇を固める役から物語の中心に立つ役へ。観客席の数も、取材の数も、ファンの声も増えた。
いつだったか、雑誌のインタビューで聞かれたことがある。
「忙しい時期をどう乗り越えていますか」
用意されたような答えならいくつもあった。体調管理を徹底しています。仲間に支えられています。応援してくださる皆さんの声が力になります。どれも嘘ではない。
けれどその時、流司の口から出たのは別の言葉だった。
「大変な時もあるんですけど、でも、たまには立ち止まってちゃんと息するようにしています」
インタビュアーは「いい言葉ですね」と笑った。
もしかしたら、あの子が読むかもしれないと思った。
今も自分を見てくれているかは分からない。もうファンではないかもしれない。あの日のことなんて覚えていないかもしれない。それでも、もしどこかでそのインタビューを見てくれたら自分に届いたと気づくだろうか。あなたの言葉を、まだ覚えていると。
それからも、似たようなことを何度か言った。
舞台挨拶で忙しい時のリフレッシュ方法を聞かれた時。ラジオで、落ち込んだ時にどうするか聞かれた時。流司は冗談っぽく、でも少しだけ本気で「息します」と答えた。
ファンは笑った。共演者も笑った。マネージャーには、変な答え方をしますねと言われた。
けれど流司にとっては、冗談ではなかった。
彼女に届けるためだけに仕事をしていたわけではない。そんな綺麗な話ではない。流司には野心もあったし、負けず嫌いなところもあった。もっと上に行きたい。もっと大きな舞台に立ちたい。誰にも代わりがきかない俳優になりたい。そう思って走ってきた。
それでも、苦しい時に思い出す顔があった。
名前も知らない。どこに住んでいるのかも知らない。何歳だったのかも、正確には分からない。ただ握った手があたたかかったこと。自分の手の冷たさに気づいたように目を揺らしたこと。緊張しながらも、まっすぐ言葉をくれたこと。
最初は、ただお礼を言いたかった。
あの日、あなたの言葉に救われました。
それだけを、いつか伝えたいと思っていた。
けれど年を重ねるほど、その「いつか」は形を変えていった。仕事で大きな節目を迎えるたびに、流司は考えた。今の自分を見たら彼女はどう思うだろう。ちゃんと息をしているように見えるだろうか。まだ応援してくれているだろうか。
気づけば、彼女を思い出す時間が増えていた。
舞台袖で深呼吸する時。取材で笑った後、一人になった時。夜中に台本を閉じ、部屋の明かりを落とした時。ふとした隙間に、彼女の声が浮かぶ。
それはもう、ただの感謝とは呼べなかった。
名前も知らない相手に何を、と思う自分もいた。十年前に一度だけ会ったファンを忘れられないなんて、自分でもおかしいと思った。けれど何度否定しても消えなかった。消えないどころか、思い出すたびに輪郭が濃くなっていく。
あの子に会いたい。
お礼を言いたい。
今の自分を見てほしい。
そしてできるならいつか、名前を呼んでほしい。
そんな願いが、いつの間にか胸の奥に居座っていた。
だから、先週の土曜日。
カフェイベントの最後に彼女を見つけた瞬間、流司は本当に呼吸を忘れた。
最初は信じられなかった。十年だ、十年も経っている。人の顔は変わるし、記憶だって都合よく補正される。似ているだけかもしれない。そう思おうとした。
けれど、彼女が顔を上げた瞬間に分かった。
あの目だった。
十年前と同じ、遠慮がちで、でも人の奥を見てしまう目。少し戸惑うと固まるところも、言葉を選ぶ時に視線が揺れるところも、あの日と同じだった。
――おつかれさまです。
そう言われて、流司は笑いそうになった。十年前も、彼女は緊張していた。今も、なぜか仕事終わりのスタッフにかけるみたいな言葉をくれた。そのぎこちなささえ懐かしくて、胸が詰まった。
やっと会えた。
頭の中は、その一言だけだった。
だから理性が置いていかれた。チョコレートを差し出したのも、手を引いたのも、空中庭園へ連れていったのも、今思えば全部、十年分の衝動だ。彼女を驚かせたいわけではなかった。怖がらせたいわけでも、困らせたいわけでもない。
ただ、もう目の前から消えてほしくなかった。
今度こそ、繋がりたかった。
それなのに。
流司は現在の楽屋でスマホを見下ろし、深く息を吐いた。
彼女からの連絡はまだ来ない。
画面は静かなまま。どれだけ眺めても通知は増えない。あの紙を捨てられた可能性を考えると、胸のあたりが冷える。けれどもしかすると彼女はただ迷っているだけかもしれない。登録していいのか、送っていいのか、困っているのかもしれない。
彼女は、そういう人に見えた。
十年前も、言葉を言うまでに少し迷っていた。それでも最後には、ちゃんと伝えてくれた。なら今も、時間がかかっているだけかもしれない。
そう思いたい。
「流司さん」
マネージャーの声がして流司は顔を上げた。いつの間にか楽屋の入口に立っていたらしい。手にはタブレットを持っている。
「明日の昼、少しだけ空きます。夕方には戻ってもらいますけど」
「やっとか」
反射的に声が明るくなった。マネージャーはその反応に、少しだけ目を細める。
「何しに行くんですか」
「ちょっと、カフェ」
「それだけなら別にいいですけど、人の多い場所で目立つことしないでくださいね」
「しない」
流司は目を逸らした。先週の自分を思えば、強く否定はできない。マネージャーはため息をつきながら、スケジュールの画面を閉じた。
「変な写真撮られたら面倒ですよ。今、次の舞台の情報解禁前なんですから」
「分かってる」
そう答えながら、流司の頭の中にはもう明日のカフェしかなかった。
彼女が来る保証なんてない。あの店が好きそうだったというだけで、同じ時間にもう一度来るとは限らない。普通に考えれば、可能性は低い。けれどゼロではない。ゼロでないなら、行く理由には十分だった。
会えたら、今度はちゃんと聞く。
名前を。
連絡先を。
そして、十年前のことを覚えているのかを。
けれどそこまで考えて、流司は少しだけ怯んだ。
もし覚えていなかったら?
もしあの日の言葉を何となく言っただけで、彼女の中には何も残っていなかったら。
十年間、自分が支えにしてきたものが、彼女にとってはほんの数秒の出来事でしかなかったとしたら。
怖かった。
舞台に立つ前の緊張とは違う。失敗を恐れる感覚とも違う。もっと個人的で、もっと格好悪い恐怖だった。
それでも、会いたい。
流司はスマホの画面を閉じ、胸の奥に残るざわめきを抑えるように息を吸った。十年前に教えられた通りに、一度立ち止まって、ちゃんと息をする。
息を吐くと、少しだけ落ち着いた。
「……覚えてなくても、いいか」
小さく呟く。
本当はよくない。覚えていてほしい。あの日のことを、彼女にも特別だったと思っていてほしい。けれどもし彼女が忘れていても、流司が救われた事実は消えない。十年間、その言葉に支えられてきたことも、今の自分の中に彼女がいることも、なくならない。
だから、まずはお礼を言おう。
ずっと言えなかった、ありがとうを。
その上で、もう一度彼女と向き合えたらいい。
スマホは相変わらず静かだった。メッセージは来ない。通知もない。
それでも流司は、さっきより少しだけ穏やかに画面を見つめた。
明日、あのカフェへ行く。
もし会えたら今度こそ逃がさない。無理やりではなく、怖がらせるのでもなく、ちゃんと自分の言葉で繋がる。
十年前、彼女がくれた言葉を、ようやく返しに行くために。
流司は台本を閉じ、ソファからゆっくり立ち上がった。