推しだったキミに恋をした
 土曜日の昼過ぎ、灯は駅ビルの入口で一度足を止めた。
 同じ駅ビル。同じカフェ。そう意識した途端、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。今日はただ、あの店のチョコレートとミルクティーを買いに来ただけだ。あの日は買いそびれたから、改めて来ただけ。そう自分に言い聞かせながら、灯は鞄の持ち手を握り直した。
 内ポケットには、あの紙が入っている。
 長谷流司が空中庭園で書き殴り「絶対登録してよ」と言って手に握らせてきた連絡先。持ち歩く必要なんてどこにもない。登録するつもりがないなら家に置いてくればいいし、いっそ捨ててしまえばいい。そう思うのに、今日も気づけば鞄に入れていた。
 捨てられない。登録もできない。それだけで、ずっと同じ場所をぐるぐる回っていることが分かってしまう。
 金曜の夜、柚乃と蒼には少しだけ話した。昔好きだった舞台俳優を見かけたこと。10年前に一度だけ握手会へ行ったこと。リアコってどう思うか、なんて遠回しな聞き方をしたこと。けれどチョコレートを食べさせられたことも、空中庭園に連れていかれたことも、頬にキスされたことも、連絡先を渡されたことも言えなかった。
 言えるわけがなかった。
 あまりにも現実味がない。口にした途端、誰かの作り話みたいになる。けれど、頬に残った熱も、下唇に触れた指の感覚も、何度も思い出してしまうほど生々しい。
 灯は小さく息を吐き、駅ビルの中へ入った。休日の館内はそれなりに人が多い。親子連れ、買い物袋を持った女性、カップル、学生らしい集団。日常の音があちこちから重なっている。その中を歩きながら、灯は思い出さないように努めた。
 あの人がまたいるはずがない。
 あの日はイベントだった。カフェの宣伝とファン交流を兼ねた仕事。大人気の舞台俳優が何の理由もなく同じカフェに二週続けて現れるなんて、普通はありえない。
 そう思っているのに、カフェへ向かう足は少しだけ遅くなる。期待しているみたいで嫌だった。会いたいと思っているみたいで、もっと嫌だった。
 カフェの前に着くと、あの日のような長蛇の列はなかった。パーテーションもない。店内には普通の客が数組いて、レジ前に二人ほど並んでいるだけだ。いつもの休日のカフェ。その景色を見て、灯は胸の奥の力が抜けるのを感じた。
 そのことに気づいて、灯は自分で自分に困ってしまう。
 レジへ向かおうとした時だった。
 
「……来た」
 
 低い声が、すぐ近くで落ちた。
 灯は肩を跳ねさせた。振り返るより先に心臓が嫌なほど強く鳴る。聞き間違えるはずのない声だった。舞台の映像やインタビューで聞いた声よりずっと近く、エレベーターで耳元に落ちてきた声と同じ温度をしている。
 ゆっくり顔を上げると、そこに長谷流司が立っていた。
 黒に近いダークカラーの髪は少し長めの前髪が目元にかかっている。深いチャコールの薄手のカーディガンに黒いインナー。人目を避けるためかキャップを被っているけれど、隠しきれない顔立ちの綺麗さとすらりとした首筋の線が余計に目を引いた。
 灯は完全に固まる。
 
「は、長谷くん」
「うん」
「なんで……」
 
 そこまで言って灯は言葉を飲み込んだ。なんでいるんですか、と聞くのは失礼な気がする。けれど聞かずにはいられない。流司はそんな灯の混乱を見て、少しだけ目を逸らした。
 
「たまたま」
 
 嘘が下手だった。
 本人は偶然を装っているつもりなのかもしれないけれど視線が泳いでいる。口元も少しだけ落ち着かない。舞台上ではあれほど余裕のある人なのに、今はまるで待ち合わせに早く来すぎた人みたいだった。
 灯が返事に困っていると、流司は店内を一度だけ見回した。レジの前には客が二人、窓際には親子連れ、奥の席では買い物帰りらしい女性たちが紙袋を足元に置いている。誰もこちらを見ていない。けれど見られていないことと見られないことは違う。
 流司は少しだけ声を落とした。

「少しだけ」
「え」
「少しだけ、話したい」

 その声はあの時よりもずっと慎重だった。けれど瞳の奥にある必死さは隠れていない。灯が答えられずにいると、流司は一度だけカフェの奥を見てから灯の手首へそっと指を伸ばした。
 触れる直前で止まる。

「……嫌なら、言って」
 
 その一言に灯は少しだけ驚く。
 あの時は考えるより早く手を引かれた。けれど今日は違う。触れようとして止まって、こちらの反応を待っている。灯はその変化に戸惑いながらも、首を横には振れなかった。
 
「少しだけなら」
 
 声に出すと流司の顔がぱっと明るくなった。人気俳優がそんなことで分かりやすく喜ぶものなのだろうか。灯が困る前に、流司は灯の手首ではなく、指先を軽く取った。引き方もずっと控えめだった。
 それでも、触れられた場所から体温が移る。
 十年前の握手会で、彼の手が冷たかったことを思い出した。あの日は熱かった。今日も熱い。少し骨ばった指は触れられると逃げ場がなくなるような強さがある。
 流司はカフェ横の通路を抜け、エレベーターへ向かった。灯はその背中を追いながら小さく息を吸う。また空中庭園なのだろうか。そう思った途端、頬に熱が戻る。
 
「また、あそこですか」
「だめ?」
「だめというか」
「人目、少ないから」
 
 そう言いながら、流司はエレベーターのボタンを押した。すぐに扉が開き、二人は中へ入る。今回はあの時ほど密室の空気が甘く重くなることはなかった。流司は灯の手を離し、少し距離を取って立っている。けれど、その距離が逆に気まずい。
 表示階が上がっていく。小さな電子音が鳴るまでの数秒が、妙に長かった。
 
「あの日」
 
 流司がぽつりと言った。
 灯は顔を上げる。
 
「ごめん」
「え」
「色々、やりすぎた」

 予想していなかった言葉に、灯はすぐに返事ができなかった。流司は正面の扉を見たまま、続ける。

 「怖がらせるつもりはなかった。でも怖かったなら、ごめん」
 
 エレベーターの中に、少しだけ沈黙が落ちた。
 灯は視線を床へ落とす。怖かったのかと聞かれると、すぐには頷けない。驚いた。混乱した。ありえないと思った。けれど、純粋な恐怖だけだったかと言われると違う。だから余計に、どう答えればいいのか分からなかった。

 「……びっくりは、しました」
「うん」
「でも」
 
 そこから先が出てこなかった。怖かったわけではない。嫌だったわけでもない。けれど嬉しかったと言えるほど、整理もついていない。
 灯が言葉を探しているうちに、エレベーターが空中庭園の階へ着いた。
 扉が開く。
 あの日とは違い、そこには数人の人影があった。ベンチに座って飲み物を飲んでいる若い女性二人組。植え込みのそばでスマホを見ている男性。手すりの近くには親子連れもいる。昼の光は白く、風はやわらかい。けれど人がいるだけで非日常の静けさは薄れている。
 流司は一瞬だけ周囲を見回し、灯の手を取り直した。

「こっち」
「え、長谷くん」
「人いるから」
「それは見れば分かりますけど……」
「見られたくない」
 
 短くそう言って、流司は空中庭園の奥へ進む。植え込みと低い壁に挟まれた通路を抜けると、建物の影になった小さなスペースがあった。手すりの向こうには街並みが広がっているけれど、メインの広場からは少し死角になっている。完全に誰もいないわけではないが、声を潜めれば目立たずに話せそうだった。
 流司はそこでようやく立ち止まり、灯の手を離した。
 離されたのに触れられていた場所だけ熱が残る。灯はその手をもう片方の手で包み、何となく隠した。

 「……ここなら、少しは」
 
 流司はそう言ってから、灯を見た。キャップの影で瞳が少し暗く見える。舞台で見る時よりずっと近く、雑誌の写真よりずっと落ち着かない顔をしていた。

「あの日渡した紙、さ」
 
 心臓が跳ねた。
 灯は反射的に鞄へ視線を落としてしまう。その反応だけで流司には十分だったらしい。彼の瞳がわずかに揺れる。
 
「持ってる?」
「……はい」
「登録、してないよね」
 
 責める声ではなかった。むしろ、確認するのが怖いみたいな声だった。
 灯は唇を結ぶ。嘘をついても仕方ない。けれど正直に言えば、彼を傷つける気がした。数秒迷ってから、小さく頷く。

 「まだ、してないです」
 
 流司の表情が、一瞬だけ落ちた。
 本当に一瞬だった。すぐに笑おうとしたし、誤魔化そうともした。けれど灯には見えてしまった。さっきまでの必死さが少しだけ萎むような、傷ついた子どものような顔。
 胸の奥がちくりとした。

 「そっか」
 
 流司はそう言って、手すりに軽く背を預けた。風が彼の前髪を揺らす。灯は何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。

「すみません」
「いや、謝んなくていい」
「でも」
「俺が勝手に渡しただけだし」

 流司は言いながら、少しだけ目を伏せた。あの時の勢いとは違う。今日は言葉を選んでいる。選びながら、うまく選べていないようにも見えた。
 
「無理強いしたいわけじゃない」
 
 灯は黙って彼を見る。
 
「本当に。嫌なら、しなくていい。連絡したくないならそれでいいし、俺がああいうことしたのが無理だったなら、それも仕方ないと思う」
 
 理性的な言葉だった。
 けれど、言っている本人の顔がまったく理性的ではなかった。口では引いているのに、瞳だけが全然引いていない。してほしい。捨てないでほしい。連絡してほしい。そう全部書いてあるみたいだった。
 流司は一度息を吸い、少しだけ顔をしかめた。

「言わないけど」
「……はい」
「言わないけど、できれば、してほしい」
 
 灯は返事ができなかった。
 流司はそこで止まればよかったのに、止まれなかったらしい。片手で口元を覆い、視線を横へ逃がしながら、さらに小さく続ける。
 
「いや、できればっていうか」
 
 風が、二人の間を抜ける。流司の前髪が少し揺れて、隠れていた瞳が見えた。綺麗で、冷たそうで、でも今は驚くほど余裕がない。
 
「して」
 
 灯の胸が、変なふうに鳴った。
 流司は観念したようにこちらを向いた。舞台上なら何千人もの視線を受けても揺らがないはずの人が、今はたった一人の返事を待って、こんなに不安そうな顔をしている。
 
「お願い」
 
 低い声だった。
 甘えるようにも聞こえたし、縋るようにも聞こえた。押しているのか引いているのか分からない。無理にとは言わないと言いながら全身で登録してほしいと言っている。ずるいと思った。そんな顔でお願いされたら、断る方が悪いことをしているみたいになる。
 それでも、灯はすぐには頷かなかった。
 登録するということは、いつでも繋がれるようになるということだ。たまたまカフェで会っただけの大人気舞台俳優と、自分のスマホが繋がる。そんなことがあっていいのだろうか。勘違いしてはいけない。彼は有名人で、自分は一般人だ。しかも事務所としても恋愛には気をつけろと言われているような人だ。
 けれど、目の前の流司は、そんな遠い人には見えなかった。
 連絡先を登録してほしいだけでこんな顔をする人。自分の連絡先しか渡していなかったことにたぶん本気で焦った人。怖がらせたかもしれないと謝って、それでも繋がりたくてここまで来てしまった人。

 「……登録、くらいなら」
 
 灯が小さく言うと、流司が顔を上げた。
 
「え」
「登録するだけなら」
「ほんと?」
 
 あまりにも声が明るくなったので、灯は思わず目を瞬かせた。流司はすぐに表情を引き締めようとしたが、口元が抑えきれていない。
 
「今、します」
 
 灯は鞄を開け、内ポケットから小さく折りたたんだ紙を取り出した。何度も見たわけではないのに、紙の折り目は少し柔らかくなっている。持ち歩いていたことを見られるのが急に恥ずかしくなり、灯はできるだけ平静を装った。
 流司はその紙を見て、ほんの少しだけ息を止めたようだった。
 
「持っててくれたんだ」
「捨てるのも、なんか」
「なんか?」
「……失礼かなって」
 
 本当は、それだけではない。捨てられなかった。けれどそこまでは言えなかった。
 流司は嬉しそうに目を細めた。笑うと少し八重歯が見える。その顔はやっぱり年相応でいたずらっ子のような笑い方と少し似ている。
 灯はスマホを取り出し、連絡先の登録画面を開いた。紙に書かれた番号とIDを、指先で1つずつ入力していく。流司が隣から覗き込もうとして、途中で慌てて顔を逸らした。
 
「見ないんですか」
「見たいけど、圧かけてるみたいになる」
「もう十分かかってます」
「ごめん」
 
 素直に謝られて、灯は小さく笑いそうになった。こんなふうに押してきて、急に引く。強引なのに、嫌われることを怖がっている。つかみどころがなくて、こちらの気持ちが追いつかない。
 スマホの中に彼の名前が入る。舞台のチラシや雑誌の表紙で見た名前が、自分の連絡先一覧に並ぶ。
 変な感じがした。
 何でもない顔をしようとしているけれど耳のあたりが少し赤い。灯は何も言えなくなり、結局フルネームで登録した。
 保存ボタンを押す。
 それだけの動作なのに、妙に緊張した。登録完了の画面が出る。灯がスマホを下ろすと、流司が期待に満ちた目でこちらを見ていた。
 
「……できました」
「本当に?」
「見ます?」
「見る」
 
 即答だった。灯はスマホ画面を少しだけ見せる。連絡先一覧に、長谷流司の文字が表示されている。それを見た瞬間、流司は胸の前で小さく拳を握った。
 大人気舞台俳優が、連絡先を登録されただけで、そんな顔をする。
 灯はまた困ってしまった。
 からかわれているだけならこんな顔をするだろうか。ファンサービスの延長ならここまで必死になるだろうか。分からない。分からないけれど、少なくとも今の流司は灯が登録したことを本気で喜んでいるように見えた。
 
「何か送って」
「え」
「通知、ほしい」
「今ですか」
「今」
 
 あまりにもまっすぐ言われて灯は言葉に詰まった。流司はすぐに「あ、無理なら」と付け足そうとしたが、灯はその前にメッセージ画面を開いた。
 何を送ればいいのだろう。
 よろしくお願いします、だと堅い。登録しました、だと目の前で見ているから変だ。長谷さんですか、もおかしい。灯が悩んでいると、流司が少しだけ身を乗り出した。
 
「何でもいい」
「何でもが一番困ります」
「じゃあ、名前」
「名前?」
「名前、まだちゃんと聞いてない」
 
 そうだった。
 流司は連絡先を渡しただけで灯の名前を聞いてきていない、灯も名乗る余裕なんてなかった。十年前の握手会でも、もちろん名乗っていない。
 灯はメッセージ欄にゆっくり文字を打った。
 佐伯灯です。
 それだけではあまりにも味気ない気がして、少し迷ってから続ける。
 登録しました。
 送信ボタンを押す。
 数秒後、流司のスマホが震えた。彼はほとんど反射みたいに画面を見た。そこに表示されたメッセージを確認した瞬間、表情がほどける。
 
「佐伯、灯」
 
 流司が名前を声に出した。
 ただそれだけなのに、灯は胸の奥をくすぐられたような気持ちになった。彼の低い声で自分の名前を呼ばれると、見慣れたはずの名前が少し知らないものみたいに聞こえる。
 
「灯」
 
 今度は名字なしで呼ばれた。
 灯は反射的に顔を上げる。流司はスマホを握ったまま、ひどく嬉しそうに笑っていた。
 
「灯っていうんだ」
「……はい」
「いい名前」
「そんな、普通ですよ」
「普通じゃない」
 
 即答だった。
 何が普通ではないのか分からず、灯は困る。流司は画面に表示された名前をもう一度見て、確かめるように小さく呟いた。
 
「やっと名前聞けた」
 
 その言葉は、あまりにも深く落ちてきた。
 やっと。
 先週会ったばかりの相手に使うには、少し重い言葉だ。けれど灯は、その重さを完全に否定できなかった。十年前の握手会。冷たい手。ちゃんと息してください、と言った自分の声。自分では恥ずかしい記憶でしかなかったはずなのに、彼の中では違う形で残っているのかもしれない。
 
「長谷くん」
「ん?」
「……もしかして十年前のこと、覚えてるんですか」
 
 言ってから、灯は自分で驚いた。
 聞くつもりはなかった。けれどずっと引っかかっていた疑問が、名前を呼ばれたことでこぼれてしまった。流司は少しだけ目を見開き、それからゆっくり灯を見た。
 風が二人の間を抜ける。
 
「覚えてる」
 
 短い答えだった。
 灯の心臓が、静かに跳ねる。
 
「でも」
 
 流司は続けようとして少し迷った。言葉を選ぶように視線を落とし、スマホを握る指に力を込める。
 
「ちゃんと話したいから、今日は少しだけ」
「……はい」
「今ここで全部言ったら、たぶんまた俺、変なことする」
 
 灯は思わず瞬きをした。流司は真剣な顔でそんなことを言うから、余計に反応に困る。
 
「変なことって」
「近づきすぎるとか」
 
 自覚はあるらしい。
 灯が返事に困っていると、流司は小さく笑った。けれどその笑みはすぐにほどけ、少しだけ真面目な顔になる。
 
「だから、ちゃんと会いたい。人目とか、時間とか、そういうの考えて。灯が嫌じゃなければ」
 
 その言い方は、以前よりずっと丁寧だった。
 芸能人と一般人。事務所。人目。噂。いろんなことが灯の頭をよぎる。簡単に頷いていいことではないのかもしれない。けれど、登録したばかりのスマホが手の中であたたかく感じた。
 
「考えます」

 
 灯がそう言うと、流司は少しだけ残念そうにした。でもすぐに頷く。
「うん。考えて」
「はい」
「返事、待ってる」
 
 待ってる、という言葉に、灯の胸がまた小さく揺れた。あの日からずっと、この人は待っていたのだろうか。通知の来ないスマホを見ながら、自分が登録するのを。
 そんな想像をしてしまったら、もう完全に他人事ではいられない。
 その時、流司のスマホが短く震えた。今度はマネージャーからのメッセージらしく、流司は画面を見て眉間にしわを寄せる。
 
「戻らなきゃ」
「お仕事ですか?」
「うん」
「じゃあ、戻ってください」
 
 灯がそう言うと、流司はまた不満そうに顔をしかめた。
 
「またそれ言う」
「それは言います。お仕事なら」
「引き止めてくれてもいいのに」
「無理です」
「即答」
 
 流司は拗ねたように言った。けれど前ほど強引に距離を詰めてはこない。代わりに、スマホを握った手を少しだけ持ち上げる。
 
「メッセージ、送る」
「はい」
「返事してよ?」
「返せる時に」
「それでいい」
 
 流司はそう言ったあと少しだけ近づいた。灯の体が反射的に固まる。その反応に気づいたのか、流司は途中で足を止める。
 
「今日は、触らない」
 
 低い声でそう言われると、逆に意識してしまう。灯は頬が熱くなるのを感じながら、何とか頷いた。
 
「はい」
「でも、次は分かんない」
「長谷くん……」
「冗談」
 
 どこまで冗談なのか分からない顔で笑い、流司は一歩下がった。風に前髪が揺れる。キャップの影から覗く瞳は、さっきまでより少しだけ穏やかだった。
 
「灯」
 
 名前を呼ばれ、なんだろうと目を見る。
 
「登録してくれて、ありがとう」
 
 それだけ言って、流司はメインの広場の方へ戻っていった。途中で一度振り返り、スマホを見せるみたいに軽く掲げる。その仕草があまりにも嬉しそうで、灯はその場に立ったまましばらく動けなかった。
 からかわれているだけではないのかもしれない。
 そう思った瞬間、胸の奥に小さな熱が灯った。
 灯はスマホを見下ろす。メッセージ欄には、さっき自分が送った短い文と、流司の既読だけが残っている。それだけなのに、見慣れた画面がまったく別のものに見えた。
 帰り道、灯は結局ミルクティーとチョコレートを買った。何をしに来たのか分からなくなりそうだったけれど、最初の目的だけは果たしたかった。袋を受け取り、駅ビルの外へ出る。昼の光は少し傾き始めていて、風は先週よりやわらかかった。
 鞄の中でスマホが震えた。
 灯は立ち止まり、画面を見る。
 長谷流司。
 登録したばかりの名前から、メッセージが届いていた。
 
『今日はありがとう。会えてよかった』
 
 たったそれだけの文だった。
 けれど灯は、すぐに返事を打てなかった。嬉しいと思ってしまったからだ。そう思った自分に驚いて、スマホを胸元に引き寄せる。
 少しだけ迷ってから、灯は短く返した。
 
『こちらこそ、ありがとうございました』
 
 送ってから堅すぎたかもしれないと思う。けれどすぐに既読がつき、次のメッセージが来た。
 
『また敬語』
 
 思わず笑いそうになった。
 灯は返信欄を開いて、閉じて、もう一度開いた。何と返せばいいのか分からない。分からないのに、さっきまでの怖さだけではなくなっていた。
 一方その頃、流司は現場へ戻る車の中で何度もスマホを見下ろしていた。
 画面には、さっき届いたばかりのメッセージが残っている。

『佐伯灯です。登録しました』

 たったそれだけの文を、もう何度読み返したか分からない。名前を知った。連絡先が繋がった。それだけで、胸の奥が落ち着かないくらい熱い。

「流司さん」

 隣でスケジュールを確認していたマネージャーが、呆れたように声をかけた。

「顔、ゆるんでます」
「ゆるんでない」
「ゆるんでます。あと、今日は本当に何もしてないでしょうね」
「してない」

 流司はスマホを伏せ、窓の外へ視線を逃がした。マネージャーはため息をつきながらも、声を荒げることはなかった。

「事務所としては、今は余計な噂を立てたくありません。恋愛するなとは言いませんけど、表に出たら面倒なのは分かってますよね」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるけど、それとは別」

 口にしてから少しだけ自分でも驚いた。
 仕事のことも、事務所の方針も、世間の目も分かっている。それでも、灯と繋がれたことをなかったことにはできなかった。
 数日後。
 金曜の夜、いつものように柚乃と蒼と三人で食事をした時、蒼は灯の変化に気づいた。
 灯は会話に混ざっている。柚乃の話に笑い、蒼の仕事の愚痴にも相槌を打つ。いつもと同じように見える。けれど、鞄の中でスマホが震えるたびに、灯の指先がほんの少し止まる。画面を見た一瞬だけ、目元がやわらかくなる。
 それは、蒼の知らない顔だった。
 
「灯、今日スマホよく見るね」
 
 柚乃が軽く言う。灯は分かりやすく肩を揺らした。
 
「そう?」
「そう」
「別に、そんなこと」
「ある」
 
 柚乃はにやにやしている。蒼は水の入ったグラスを見下ろした。聞きたいことはある。誰からの連絡なのか。あの舞台俳優なのか。以前話していた長谷流司なのか。
 けれど聞いてはこなかった。
 灯がスマホを伏せる。その仕草は隠しているというより、自分でもどうしていいか分からないものをそっとしまうみたいだった。
 蒼はその横顔を見て、胸の奥が鈍く沈むのを感じた。
 ずっと近くにいたはずなのに。
 灯の表情を変えるのは、自分ではない誰かになり始めている。
 その事実だけが、静かに蒼の中へ積もっていった。
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