硝子の鍵
Key·29 言えない名前
尚さんと別れたあと、私はしばらく駅前に立っていた。
冬の風が、コートの裾を揺らす。
街灯の下で、吐く息が白くほどけた。
俺も、手くらい繋ぎたかったです。
冗談みたいな声だった。
でも、冗談ではなかった。
あの一言が、耳の奥に残っている。
尚さんはいつも軽い。
私が泣く前に笑えるように、先に冗談を置いてくれる。
陽斗のことも、私のことも、利月くんのことも、少し離れた場所からちゃんと見ている。
その人が、今日初めて、ほんの少しだけ自分の痛みを見せた。
俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ。
楽。
その言葉は、胸に残った。
たしかに、尚さんといると楽だった。
目を見て話せる。
冗談を返せる。
息を止めずに笑える。
でも。
利月くんの前では、何もかもうまくできなくなる。
目を見るだけで、胸がいっぱいになる。
返事が少し遅いだけで、不安になる。
手を繋いだだけで、眠れなくなる。
楽じゃない。
なのに、会いたい。
それが答えなのだと思った。
答えなのに、尚さんの背中が少し寂しく見えたことも、嘘ではなかった。
私はスマホを取り出した。
利月くんからのメッセージが、画面に残っている。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その言葉が、少しだけ痛かった。
ありがたい。
本当にそう。
尚さんが陽斗を見てくれていることも、私を現実に戻してくれることも、利月くんの不器用さを翻訳してくれることも。
ありがたい。
でも、それだけではなかった。
私は返信欄を開いた。
佐伯さんは、陽斗のことも私のこともよく見てくれています。
そこまで打って、止まった。
違う。
これは本当だけど、足りない。
尚さんが今日、男としても一歩踏み込んだこと。
私に「俺だったらもっと楽でした」と言ったこと。
「手くらい繋ぎたかった」と言ったこと。
それを利月くんに言うべきなのか。
言ったら、どうなるのだろう。
利月くんはきっと黙る。
怒るかもしれない。
いや、怒るより先に考え込むと思う。
そして、陽斗の担任である尚さんとの関係や、学校のことや、私の気持ちまで全部並べて、また遠くなるかもしれない。
それが怖かった。
私は一度打った文字を消した。
そして、短く送った。
佐伯さんが陽斗を見てくれていて、私も助かっています。
私もちゃんと陽斗を見ます。
既読はすぐについた。
返事は、少し遅れて来た。
はい。
俺も、気をつけます。
短い。
でも、そのあとにもう一通。
灯理さんは、大丈夫ですか。
胸が揺れた。
大丈夫。
その言葉を見て、私はいつものように「大丈夫です」と打ちそうになった。
でも、今日は止めた。
少し、考えています。
正直に送った。
陽斗のことですか。
すぐに返事が来た。
私は画面を見つめた。
陽斗のこと。
それもある。
でも、それだけではない。
尚さんのことも。
私のずるさも。
利月くんへの気持ちも。
全部が混ざっている。
陽斗のこともです。
それだけ送った。
全部は言えなかった。
少しして、利月くんから返事が来る。
話せる時でいいので、聞かせてください。
その言葉に、胸が少し締めつけられた。
聞かせてください。
そう言ってくれるのに、私は全部を渡せない。
「なんでも聞く」と言われた時ほど、どこまで話していいのか分からなくなる。
私はスマホを伏せた。
冬の夜が、静かに降りていた。
家に帰ると、陽斗はリビングで本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「佐伯先生と話した?」
私はコートを脱ぐ手を止めた。
「なんで」
「今日、佐伯先生がちょっと静かだったから」
子どもは、本当に見ている。
「話したよ。陽斗のこと」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ何」
私はソファに座った。
「陽斗が、少し頑張って普通にしてるって」
陽斗は、ページをめくる手を止めた。
「佐伯先生、そう言ったの?」
「うん」
「先生、見すぎ」
「担任だからね」
「見すぎ」
陽斗は少し不満そうに言った。
でも本気で嫌そうではなかった。
「陽斗」
「なに」
「頑張って普通にしなくていいよ」
陽斗は本を閉じた。
「普通にしてるだけだよ」
「うん」
「でも、ちょっと考える」
「何を?」
陽斗は少しだけ視線を落とした。
「登坂先生が、お母さんの好きな人かもしれないって思うこと」
胸が痛む。
「うん」
「でも、学校では先生だから」
「うん」
「俺、そこ間違えたくない」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
陽斗は、ちゃんと線を引こうとしている。
十一歳の小さな手で、大人たちが曖昧にしてしまいそうな線を。
「ごめんね」
また謝ってしまった。
陽斗は眉を寄せる。
「だから、すぐ謝らない」
「ごめん」
「また謝った」
私は苦笑した。
陽斗は小さく息を吐く。
「俺、嫌じゃないよ」
「うん」
「でも、たまに変な感じになるだけ」
「うん」
「だから、それ言っただけ」
「分かった」
私は頷いた。
「言ってくれてありがとう」
陽斗は少し照れたように目を逸らした。
「別に」
その横顔を見ながら、私は思った。
尚さんが気づいたことは、やっぱり本当だった。
陽斗は、頑張っている。
でも、それをちゃんと言葉にできるなら、まだ大丈夫かもしれない。
私はその言葉を受け止める母でいたい。
夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。
胸が跳ねた。
珍しく、彼の方から。
私は少し迷って、出た。
「はい」
今、大丈夫ですか。
「大丈夫です」
言ってから、少しだけ笑った。
「これは本当に」
それなら、よかったです。
電話の向こうの声は、いつもより少し硬かった。
「どうしました?」
少し沈黙があった。
今日、佐伯と話しましたか。
私は息を止めた。
「はい」
陽斗のことで。
「はい」
それだけですか。
胸が、どくんと鳴った。
利月くんの声は、責めているわけではない。
でも、何かを感じ取っている。
私はすぐには答えられなかった。
すみません。
利月くんが先に謝った。
詰めたいわけじゃないです。
「うん」
でも、佐伯の様子が少し違ったので。
やっぱり。
利月くんも、見ていた。
尚さんがいつもより少し静かだったこと。
いつもの軽さの奥に、何かがあったこと。
「佐伯さんは」
私は言葉を選んだ。
「陽斗のことを、ちゃんと見てくれていました」
はい。
「それから、私にも、ちゃんと見るように言ってくれました」
はい。
そこで終わらせることもできた。
でも、電話の向こうで利月くんが黙って待っている。
その沈黙が、今夜は逃げ道ではなく、場所みたいだった。
私は目を閉じた。
「それから」
声が少し震える。
「佐伯さんも、少しだけ、男の人でした」
言った。
言ってしまった。
電話の向こうが、静かになった。
長い沈黙。
私はスマホを握る手に力を入れた。
「ごめんなさい」
謝らないでください。
利月くんの声は、低かった。
でも、怒ってはいなかった。
佐伯が、何か言ったんですね。
「はい」
灯理さんを困らせることですか。
「困らせるというか」
私は言葉を探した。
「私が、楽な方に逃げていたことを、ちゃんと見ていたんだと思います」
楽な方。
「尚さんとは、目を見て話せるから」
電話の向こうで、利月くんが小さく息を吸った気配がした。
「でも、それは、好きだからじゃなくて」
言いかけて、止まる。
違う。
それも少し違う。
尚さんに全く心が動かなかったわけじゃない。
救われていた。
甘えていた。
必要としていた。
でも、恋の真ん中は利月くんだった。
それを言葉にするのは、こんなにも難しい。
「利月くん」
初めて、電話でそう呼んだ。
少しだけ、彼の呼吸が止まった気がした。
「私は、尚さんに救われています」
はい。
「でも、会いたいのは利月くんです」
電話の向こうが、また静かになった。
今度の沈黙は、少しだけ熱を持っていた。
「楽なのは尚さんです」
私は続けた。
「でも、手を繋ぎたいと思うのは、利月くんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
電話でよかった。
目の前だったら、絶対に言えなかった。
利月くんは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに言った。
佐伯に、嫉妬していいですか。
息が止まった。
「え」
すみません。
今のは、少し違います。
「違わないです」
自分でも驚くくらい、すぐに言った。
電話の向こうで、利月くんが黙る。
私は胸に手を当てた。
「違わないと思います」
……はい。
彼の声が、少しだけ掠れていた。
嫉妬しています。
その一言で、胸の奥が揺れた。
利月くんが、嫉妬。
いつも考えて、遠慮して、陽斗のことも学校のことも先に置く人が。
尚さんに、嫉妬している。
「利月くん」
はい。
「それ、少し嬉しいって言ったら、だめですか」
だめではないです。
「じゃあ、少し嬉しいです」
そうですか。
声が、ほんの少し柔らかくなった。
でもすぐに、利月くんは真面目な声に戻る。
でも、佐伯が陽斗を見てくれていることは、本当にありがたいと思っています。
「はい」
それと、灯理さんが佐伯に救われていることも、否定したくないです。
胸が痛くなる。
「うん」
でも。
彼はそこで一度止まった。
俺は、灯理さんが俺の前で息を止めることも、手を繋ぎたいと思ってくれることも、簡単に譲りたくはないです。
涙が、じわっと滲んだ。
「利月くん」
はい。
「そういうこと、もっと早く言ってください」
すみません。
「謝るところじゃないです」
電話の向こうで、少しだけ笑った気配がした。
その小さな笑い声に、私は救われる。
「尚さんに、言われました」
何をですか。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引くって」
電話の向こうが、静かになる。
「でも、泣かせるなら黙ってないって」
利月くんは、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
佐伯らしいですね。
「怒りました?」
少し。
「尚さんに?」
自分にです。
「自分に?」
佐伯にそう言わせたのは、俺が灯理さんを不安にさせているからだと思うので。
「違います」
違わないところもあります。
利月くんは、こういう時にごまかさない。
「俺は、言葉が遅いです」
「はい」
でも、遅いことを理由に、灯理さんを不安にさせ続けていいわけではないので。
その言葉が、胸に深く届く。
ちゃんとします。
静かな声だった。
でも、その静けさが強かった。
「ちゃんとって?」
次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。
心臓が跳ねた。
それから、佐伯に嫉妬していることも、顔に出さないようにします。
思わず笑ってしまった。
「そこは出してもいいです」
だめです。陽斗が見ます。
「確かに」
二人で少し笑った。
でも、笑いの奥に、確かに何かが変わっていた。
尚さんが一歩踏み込んだことで、利月くんも一歩踏み込んだ。
三角形の線が、少しだけ濃くなった。
痛い。
でも、物語が動いている。
「利月くん」
はい。
「私、ずるいです」
はい。
即答だった。
「そこは否定してほしかったです」
すみません。
「謝るところじゃないです」
でも、ずるいと思います。
胸が少し痛む。
でも、利月くんの声は責めていなかった。
佐伯に救われて、俺に会いたいと言うので。
「うん」
でも、それを言ってくれたので、俺はまだ大丈夫です。
「大丈夫?」
はい。
言えないままにされるより、ずっといいです。
涙がこぼれた。
「ありがとう」
はい。
「次、会えますか」
言ってしまった。
今夜は、言葉が止まらない。
会います。
返事は早かった。
迷いがなかった。
いつがいいですか。
私は目を閉じた。
嬉しくて、泣きそうだった。
「近いうち」
近いうち、だと灯理さんがまた不安になります。
「じゃあ」
私は少し笑った。
「明後日」
分かりました。
「いいんですか」
俺が聞きました。
また、心臓が鳴る。
「はい」
明後日、会いましょう。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを握っていた。
尚さんの言葉が残っている。
利月くんの声も残っている。
陽斗の「ちゃんと考えて」も残っている。
全部が、私の中にある。
どれも軽くない。
窓の外には、冬の月があった。
欠けている。
でも、なくなってはいない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの嫉妬も。
私のずるさも。
見えない場所に押し込めても、なくならない。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、言えない名前の形をしていた。
尚。
利月。
陽斗。
そして、私。
呼ぶたびに胸が痛む名前たちが、
冬の夜の中で静かに光っていた。
冬の風が、コートの裾を揺らす。
街灯の下で、吐く息が白くほどけた。
俺も、手くらい繋ぎたかったです。
冗談みたいな声だった。
でも、冗談ではなかった。
あの一言が、耳の奥に残っている。
尚さんはいつも軽い。
私が泣く前に笑えるように、先に冗談を置いてくれる。
陽斗のことも、私のことも、利月くんのことも、少し離れた場所からちゃんと見ている。
その人が、今日初めて、ほんの少しだけ自分の痛みを見せた。
俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ。
楽。
その言葉は、胸に残った。
たしかに、尚さんといると楽だった。
目を見て話せる。
冗談を返せる。
息を止めずに笑える。
でも。
利月くんの前では、何もかもうまくできなくなる。
目を見るだけで、胸がいっぱいになる。
返事が少し遅いだけで、不安になる。
手を繋いだだけで、眠れなくなる。
楽じゃない。
なのに、会いたい。
それが答えなのだと思った。
答えなのに、尚さんの背中が少し寂しく見えたことも、嘘ではなかった。
私はスマホを取り出した。
利月くんからのメッセージが、画面に残っている。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その言葉が、少しだけ痛かった。
ありがたい。
本当にそう。
尚さんが陽斗を見てくれていることも、私を現実に戻してくれることも、利月くんの不器用さを翻訳してくれることも。
ありがたい。
でも、それだけではなかった。
私は返信欄を開いた。
佐伯さんは、陽斗のことも私のこともよく見てくれています。
そこまで打って、止まった。
違う。
これは本当だけど、足りない。
尚さんが今日、男としても一歩踏み込んだこと。
私に「俺だったらもっと楽でした」と言ったこと。
「手くらい繋ぎたかった」と言ったこと。
それを利月くんに言うべきなのか。
言ったら、どうなるのだろう。
利月くんはきっと黙る。
怒るかもしれない。
いや、怒るより先に考え込むと思う。
そして、陽斗の担任である尚さんとの関係や、学校のことや、私の気持ちまで全部並べて、また遠くなるかもしれない。
それが怖かった。
私は一度打った文字を消した。
そして、短く送った。
佐伯さんが陽斗を見てくれていて、私も助かっています。
私もちゃんと陽斗を見ます。
既読はすぐについた。
返事は、少し遅れて来た。
はい。
俺も、気をつけます。
短い。
でも、そのあとにもう一通。
灯理さんは、大丈夫ですか。
胸が揺れた。
大丈夫。
その言葉を見て、私はいつものように「大丈夫です」と打ちそうになった。
でも、今日は止めた。
少し、考えています。
正直に送った。
陽斗のことですか。
すぐに返事が来た。
私は画面を見つめた。
陽斗のこと。
それもある。
でも、それだけではない。
尚さんのことも。
私のずるさも。
利月くんへの気持ちも。
全部が混ざっている。
陽斗のこともです。
それだけ送った。
全部は言えなかった。
少しして、利月くんから返事が来る。
話せる時でいいので、聞かせてください。
その言葉に、胸が少し締めつけられた。
聞かせてください。
そう言ってくれるのに、私は全部を渡せない。
「なんでも聞く」と言われた時ほど、どこまで話していいのか分からなくなる。
私はスマホを伏せた。
冬の夜が、静かに降りていた。
家に帰ると、陽斗はリビングで本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「佐伯先生と話した?」
私はコートを脱ぐ手を止めた。
「なんで」
「今日、佐伯先生がちょっと静かだったから」
子どもは、本当に見ている。
「話したよ。陽斗のこと」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ何」
私はソファに座った。
「陽斗が、少し頑張って普通にしてるって」
陽斗は、ページをめくる手を止めた。
「佐伯先生、そう言ったの?」
「うん」
「先生、見すぎ」
「担任だからね」
「見すぎ」
陽斗は少し不満そうに言った。
でも本気で嫌そうではなかった。
「陽斗」
「なに」
「頑張って普通にしなくていいよ」
陽斗は本を閉じた。
「普通にしてるだけだよ」
「うん」
「でも、ちょっと考える」
「何を?」
陽斗は少しだけ視線を落とした。
「登坂先生が、お母さんの好きな人かもしれないって思うこと」
胸が痛む。
「うん」
「でも、学校では先生だから」
「うん」
「俺、そこ間違えたくない」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
陽斗は、ちゃんと線を引こうとしている。
十一歳の小さな手で、大人たちが曖昧にしてしまいそうな線を。
「ごめんね」
また謝ってしまった。
陽斗は眉を寄せる。
「だから、すぐ謝らない」
「ごめん」
「また謝った」
私は苦笑した。
陽斗は小さく息を吐く。
「俺、嫌じゃないよ」
「うん」
「でも、たまに変な感じになるだけ」
「うん」
「だから、それ言っただけ」
「分かった」
私は頷いた。
「言ってくれてありがとう」
陽斗は少し照れたように目を逸らした。
「別に」
その横顔を見ながら、私は思った。
尚さんが気づいたことは、やっぱり本当だった。
陽斗は、頑張っている。
でも、それをちゃんと言葉にできるなら、まだ大丈夫かもしれない。
私はその言葉を受け止める母でいたい。
夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。
胸が跳ねた。
珍しく、彼の方から。
私は少し迷って、出た。
「はい」
今、大丈夫ですか。
「大丈夫です」
言ってから、少しだけ笑った。
「これは本当に」
それなら、よかったです。
電話の向こうの声は、いつもより少し硬かった。
「どうしました?」
少し沈黙があった。
今日、佐伯と話しましたか。
私は息を止めた。
「はい」
陽斗のことで。
「はい」
それだけですか。
胸が、どくんと鳴った。
利月くんの声は、責めているわけではない。
でも、何かを感じ取っている。
私はすぐには答えられなかった。
すみません。
利月くんが先に謝った。
詰めたいわけじゃないです。
「うん」
でも、佐伯の様子が少し違ったので。
やっぱり。
利月くんも、見ていた。
尚さんがいつもより少し静かだったこと。
いつもの軽さの奥に、何かがあったこと。
「佐伯さんは」
私は言葉を選んだ。
「陽斗のことを、ちゃんと見てくれていました」
はい。
「それから、私にも、ちゃんと見るように言ってくれました」
はい。
そこで終わらせることもできた。
でも、電話の向こうで利月くんが黙って待っている。
その沈黙が、今夜は逃げ道ではなく、場所みたいだった。
私は目を閉じた。
「それから」
声が少し震える。
「佐伯さんも、少しだけ、男の人でした」
言った。
言ってしまった。
電話の向こうが、静かになった。
長い沈黙。
私はスマホを握る手に力を入れた。
「ごめんなさい」
謝らないでください。
利月くんの声は、低かった。
でも、怒ってはいなかった。
佐伯が、何か言ったんですね。
「はい」
灯理さんを困らせることですか。
「困らせるというか」
私は言葉を探した。
「私が、楽な方に逃げていたことを、ちゃんと見ていたんだと思います」
楽な方。
「尚さんとは、目を見て話せるから」
電話の向こうで、利月くんが小さく息を吸った気配がした。
「でも、それは、好きだからじゃなくて」
言いかけて、止まる。
違う。
それも少し違う。
尚さんに全く心が動かなかったわけじゃない。
救われていた。
甘えていた。
必要としていた。
でも、恋の真ん中は利月くんだった。
それを言葉にするのは、こんなにも難しい。
「利月くん」
初めて、電話でそう呼んだ。
少しだけ、彼の呼吸が止まった気がした。
「私は、尚さんに救われています」
はい。
「でも、会いたいのは利月くんです」
電話の向こうが、また静かになった。
今度の沈黙は、少しだけ熱を持っていた。
「楽なのは尚さんです」
私は続けた。
「でも、手を繋ぎたいと思うのは、利月くんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
電話でよかった。
目の前だったら、絶対に言えなかった。
利月くんは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに言った。
佐伯に、嫉妬していいですか。
息が止まった。
「え」
すみません。
今のは、少し違います。
「違わないです」
自分でも驚くくらい、すぐに言った。
電話の向こうで、利月くんが黙る。
私は胸に手を当てた。
「違わないと思います」
……はい。
彼の声が、少しだけ掠れていた。
嫉妬しています。
その一言で、胸の奥が揺れた。
利月くんが、嫉妬。
いつも考えて、遠慮して、陽斗のことも学校のことも先に置く人が。
尚さんに、嫉妬している。
「利月くん」
はい。
「それ、少し嬉しいって言ったら、だめですか」
だめではないです。
「じゃあ、少し嬉しいです」
そうですか。
声が、ほんの少し柔らかくなった。
でもすぐに、利月くんは真面目な声に戻る。
でも、佐伯が陽斗を見てくれていることは、本当にありがたいと思っています。
「はい」
それと、灯理さんが佐伯に救われていることも、否定したくないです。
胸が痛くなる。
「うん」
でも。
彼はそこで一度止まった。
俺は、灯理さんが俺の前で息を止めることも、手を繋ぎたいと思ってくれることも、簡単に譲りたくはないです。
涙が、じわっと滲んだ。
「利月くん」
はい。
「そういうこと、もっと早く言ってください」
すみません。
「謝るところじゃないです」
電話の向こうで、少しだけ笑った気配がした。
その小さな笑い声に、私は救われる。
「尚さんに、言われました」
何をですか。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引くって」
電話の向こうが、静かになる。
「でも、泣かせるなら黙ってないって」
利月くんは、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
佐伯らしいですね。
「怒りました?」
少し。
「尚さんに?」
自分にです。
「自分に?」
佐伯にそう言わせたのは、俺が灯理さんを不安にさせているからだと思うので。
「違います」
違わないところもあります。
利月くんは、こういう時にごまかさない。
「俺は、言葉が遅いです」
「はい」
でも、遅いことを理由に、灯理さんを不安にさせ続けていいわけではないので。
その言葉が、胸に深く届く。
ちゃんとします。
静かな声だった。
でも、その静けさが強かった。
「ちゃんとって?」
次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。
心臓が跳ねた。
それから、佐伯に嫉妬していることも、顔に出さないようにします。
思わず笑ってしまった。
「そこは出してもいいです」
だめです。陽斗が見ます。
「確かに」
二人で少し笑った。
でも、笑いの奥に、確かに何かが変わっていた。
尚さんが一歩踏み込んだことで、利月くんも一歩踏み込んだ。
三角形の線が、少しだけ濃くなった。
痛い。
でも、物語が動いている。
「利月くん」
はい。
「私、ずるいです」
はい。
即答だった。
「そこは否定してほしかったです」
すみません。
「謝るところじゃないです」
でも、ずるいと思います。
胸が少し痛む。
でも、利月くんの声は責めていなかった。
佐伯に救われて、俺に会いたいと言うので。
「うん」
でも、それを言ってくれたので、俺はまだ大丈夫です。
「大丈夫?」
はい。
言えないままにされるより、ずっといいです。
涙がこぼれた。
「ありがとう」
はい。
「次、会えますか」
言ってしまった。
今夜は、言葉が止まらない。
会います。
返事は早かった。
迷いがなかった。
いつがいいですか。
私は目を閉じた。
嬉しくて、泣きそうだった。
「近いうち」
近いうち、だと灯理さんがまた不安になります。
「じゃあ」
私は少し笑った。
「明後日」
分かりました。
「いいんですか」
俺が聞きました。
また、心臓が鳴る。
「はい」
明後日、会いましょう。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを握っていた。
尚さんの言葉が残っている。
利月くんの声も残っている。
陽斗の「ちゃんと考えて」も残っている。
全部が、私の中にある。
どれも軽くない。
窓の外には、冬の月があった。
欠けている。
でも、なくなってはいない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの嫉妬も。
私のずるさも。
見えない場所に押し込めても、なくならない。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、言えない名前の形をしていた。
尚。
利月。
陽斗。
そして、私。
呼ぶたびに胸が痛む名前たちが、
冬の夜の中で静かに光っていた。