硝子の鍵
Key·30 硝子の鍵
冬の夜は、音を少し遠くする。
車の走る音も、駅前の人の声も、コンビニの自動ドアが開く音も、全部どこか薄い膜の向こうにあるみたいだった。
私は、待ち合わせ場所の橋の手前に立っていた。
前に、利月くんと歩いた川沿い。
前に、私がつまずいて、彼が手を取ってくれた場所。
あの時の手の温度を、私はまだ覚えている。
覚えているというより、忘れようがなかった。
理由があった手だった。
転びそうだったから。
危なかったから。
支えてくれたから。
でも、今夜は違う。
利月くんは言った。
次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。
その言葉を思い出すだけで、手袋の中の指先が熱くなる。
私は川の水面を見下ろした。
街灯の光が、細く揺れている。
会いたい。
そう思うのに、会う直前になると逃げたくなる。
好きという気持ちは、もっと明るくて、もっと軽くて、もっと扱いやすいものだと思っていた。
でも利月くんへの気持ちは、少し違う。
嬉しいのに怖い。
近づきたいのに、近づいたら自分が何を言ってしまうか分からない。
目を見たいのに、見たら全部ばれてしまいそうになる。
私は、恋をしている。
たぶん。
いや、もう、たぶんではない。
「灯理さん」
声がした。
振り返ると、利月くんが立っていた。
黒いコート。
少しだけ乱れた前髪。
息が白い。
彼は、私を見ていた。
先生の顔ではなく、
陽斗の担任としての顔でもなく、
ただ、私に会いに来た人の顔で。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶ひとつで、胸が鳴る。
重症だと思う。
利月くんは、私の少し前で立ち止まった。
「待たせましたか」
「少しだけ」
本当は、十分くらい早く来ていた。
でもそれを言うのは恥ずかしかった。
「寒かったですか」
「少しだけ」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「でも」
「また謝る」
利月くんは少しだけ困った顔をした。
その顔に、私は小さく笑ってしまう。
前より、少しだけ笑える。
前より、少しだけ目を見られる。
それだけで、夜の空気がやわらかくなった。
「歩きますか」
利月くんが言った。
「はい」
私たちは並んで歩き出した。
手はまだ繋いでいない。
でも、二人の間には確かにその約束があった。
手ひとつ分の距離。
近いようで遠い。
遠いようで、もう戻れないくらい近い。
川沿いの遊歩道は、前より人が少なかった。
冬の木々は葉を落として、枝だけになっている。
その向こうに、街の光がちらちら見えた。
「陽斗は」
利月くんが静かに聞いた。
「今日は早めに寝るって言ってました」
「そうですか」
「でも、たぶん起きてます」
利月くんが少し笑った。
「心配しているんですね」
「してますね」
「灯理さんのことをよく見ています」
「見すぎです」
「母親がそれを言いますか」
「言います」
私がそう答えると、利月くんはまた少し笑った。
その小さな笑い声が、胸に入ってくる。
「陽斗には、今日会うことを言いました」
「はい」
「それから」
私は少しだけ言葉に詰まった。
「手を繋ぐかもしれないことも」
利月くんの足が、ほんの少し遅くなった。
「そこまで」
「嘘、つきたくなくて」
「陽斗は、何て」
「学校ではなしって」
利月くんは真面目に頷いた。
「もちろんです」
「図書室もなしって」
「はい」
「廊下もなしって」
「しません」
あまりに真剣に返すから、私は笑ってしまった。
「そんな顔で言わなくても」
「大事なことなので」
「そうだけど」
「陽斗にとっては、学校の登坂でもあるので」
その言葉に、胸が少しだけ静かになる。
利月くんは、ちゃんと見ている。
私だけじゃなくて、陽斗のことも。
自分がどんな立場で、どんな線の上に立っているのかも。
それが嬉しい。
それが、少し苦しくもある。
彼は優しい。
でも、その優しさが、時々距離になる。
私は、利月くんの横顔を見た。
「利月くん」
名前で呼ぶと、彼はすぐにこちらを見た。
まだ慣れない。
私も、たぶん彼も。
「はい」
「今日、ちゃんと会えてよかったです」
言ってから、自分で照れた。
でも、取り消さなかった。
利月くんは少し黙った。
そして、静かに言った。
「俺もです」
たったそれだけ。
でも、その声がまっすぐだった。
橋の近くまで来た時、利月くんが足を止めた。
前に私がつまずいた段差の手前。
私は、あ、と小さく思った。
利月くんも覚えていた。
あの場所を。
あの手を。
あの、一瞬だけ理由があった距離を。
「灯理さん」
「はい」
彼は、ゆっくり私の方を向いた。
「ここから、手を繋いでもいいですか」
胸が大きく鳴った。
ちゃんと聞かれた。
理由を借りずに。
寒さのせいにせずに。
段差のせいにせずに。
私の手を取りたいから、と言うかわりに。
「はい」
声が小さくなった。
でも、ちゃんと届いたと思う。
利月くんは手袋を外した。
私も、片方だけ外す。
冬の空気が指先に触れて、少し冷たい。
彼の手が差し出される。
大きくて、少し硬そうな手。
黒板に字を書く手。
本を持つ手。
陽斗のノートをめくる手。
前に、私を支えてくれた手。
私は、その手に自分の手を重ねた。
利月くんの指が、私の指を包む。
あたたかい。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「ちゃんと繋ぎました」
利月くんが、真面目に言った。
私は笑ってしまった。
「報告するんですか」
「はい」
「誰に?」
「灯理さんに」
「私、今ここにいます」
「はい。なので、言いました」
おかしくて、でも泣きそうになる。
利月くんは、こういう人だ。
不器用で、真面目で、少しずれていて。
でも、嘘をつかない。
手を繋いだまま、私たちは歩いた。
前とは違った。
前は、転ばないように掴まれていた。
今夜は、離さないように繋がれていた。
ただそれだけの違いが、こんなにも胸を満たす。
私は、手の温度に気を取られながら歩いた。
指先から、心臓まで、細い糸が伸びているみたいだった。
「佐伯さんと」
ふいに、利月くんが言った。
私の手が、ほんの少しだけ反応した。
利月くんは気づいたと思う。
でも、手は離れなかった。
「話しましたか」
「はい」
「陽斗のことで」
「それもあります」
正直に言った。
利月くんは、前を見たまま頷いた。
「それ以外も?」
私は少し迷った。
尚さんの言葉が、夜の底から浮かんでくる。
俺も、手くらい繋ぎたかったです。
それを、全部そのまま渡すことはできない。
尚さんの痛みは、尚さんのものだ。
でも、何もなかったことにもできない。
「尚さんは」
私は言葉を選んだ。
「私のことも、陽斗のことも、よく見てくれています」
「はい」
「それに、救われているところもあります」
「はい」
利月くんの声は静かだった。
「でも」
私は繋いだ手を少しだけ握った。
「会いたいと思うのは、利月くんです」
その言葉を言った瞬間、夜の空気が少し止まった気がした。
利月くんも、足を止めた。
私も止まる。
川の音だけが、細く流れている。
「灯理さん」
「はい」
「佐伯に嫉妬しています」
はっきり言われた。
胸が跳ねた。
「はい」
「でも、佐伯が陽斗を見てくれていることも、灯理さんを支えていることも、否定したくないです」
「うん」
「だから、少し難しいです」
「うん」
利月くんは、繋いだ手を見た。
「でも、譲りたくないです」
息が止まる。
「何を?」
聞かなくても分かっていた。
でも、聞きたかった。
彼は少しだけ困ったように、私を見た。
「灯理さんが、俺の前で緊張することも」
「はい」
「目を逸らすことも」
「はい」
「それでも、会いたいと言ってくれることも」
胸が熱くなる。
「手を繋ぎたいと思ってくれることも」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「譲りたくないです」
涙が出そうになった。
私は、彼の手を握り返した。
「私、ずるいです」
「はい」
即答だった。
「そこは否定してほしいです」
「できません」
「ひどい」
「でも」
利月くんは、少しだけ私に近づいた。
「ずるいことを隠さないでくれるなら、俺はそこから考えられます」
「考える?」
「はい」
「考えて、どうするんですか」
彼は少し迷って、言った。
「ちゃんと好きでいます」
その言葉で、全部止まった。
ちゃんと好きでいます。
好きです、よりも不器用で。
愛してます、よりも慎重で。
でも、今の利月くんにはいちばん近い言葉だった。
私は何も言えなかった。
喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
利月くんは慌てたように少し目を伏せた。
「すみません。変な言い方をしました」
「変じゃないです」
「でも」
「変じゃない」
私は、もう一度言った。
「すごく、利月くんらしい」
彼は、少しだけ困った顔をした。
その顔が好きだと思った。
私は、利月くんを好きだ。
尚さんに救われても。
陽斗を気にしても。
自分の過去が痛んでも。
今、この手を離したくないと思う相手は、この人だった。
「私も」
声が震えた。
「ちゃんと好きでいたいです」
利月くんの目が、静かに揺れた。
その揺れを見た瞬間、私は目を逸らしそうになった。
でも、逸らさなかった。
今日は、逸らしたくなかった。
少しの沈黙。
冬の空気の中で、二人の息だけが白く重なる。
利月くんは、繋いでいない方の手を少しだけ上げて、でも途中で止めた。
「触れてもいいですか」
その一言に、胸がほどけた。
この人は、いつもそうだ。
近づく前に、ちゃんと聞く。
それがもどかしくて、でも、だから安心する。
「はい」
私が答えると、利月くんはゆっくり手を伸ばした。
頬に触れるのかと思った。
でも、彼の手は私の肩にそっと触れただけだった。
強く抱きしめるわけでもない。
奪うわけでもない。
ただ、ここにいることを確かめるみたいに。
そして、彼は少しだけ身をかがめた。
近い。
近すぎる。
心臓が、音を立てている。
「灯理さん」
「はい」
「キスは、まだしません」
耳まで熱くなった。
「言わなくていいです」
「言わないと、俺が間違えそうなので」
「間違えそうなんですか」
聞いてしまってから、後悔した。
利月くんは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
その声が低くて、私は息を止めた。
冬の夜が、急に熱を持った。
でも、利月くんはそれ以上近づかなかった。
代わりに、そっと額を寄せた。
私のおでこに、彼のおでこが触れる。
ほんの少し。
軽く。
でも、手を繋いだ時よりも、もっと近い。
視界が、利月くんだけになる。
彼の息が近い。
まつ毛が見える。
声にならない沈黙が、二人の間に落ちる。
「近いです」
私が小さく言うと、
「はい」
利月くんも小さく答えた。
「離れますか」
「……離れなくていいです」
言った瞬間、彼の手が少しだけ私の肩を包んだ。
額をくっつけたまま、私たちはしばらく動かなかった。
キスではない。
抱擁でもない。
でも、たぶん、それよりも今の私たちには深かった。
逃げられないほど近いのに、
壊れないように大切にされている。
私は目を閉じた。
利月くんの温度が、額から胸の奥まで降りてくる。
「利月くん」
「はい」
「私、こわいです」
「はい」
「好きになるの、こわい」
「はい」
「陽斗のこともあるし、尚さんのこともあるし、私自身のことも、まだちゃんと分からない」
「はい」
「でも」
声が震えた。
「離れたくないです」
額が触れたまま、利月くんが小さく息を吸ったのが分かった。
「俺もです」
その一言は、静かだった。
でも、強かった。
「俺も、離れたくないです」
涙が落ちた。
利月くんはそれに気づいて、少しだけ額を離した。
でも、手は離さなかった。
「泣かせましたか」
「泣きました」
「俺が?」
「利月くんが」
彼は困った顔をした。
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
私は涙を拭った。
「嬉しくて泣く時もあります」
利月くんは、少し驚いたように私を見た。
「そうなんですか」
「あります」
「覚えておきます」
また真面目に言うから、泣きながら笑ってしまった。
「何を覚えるんですか」
「灯理さんは、嬉しくても泣く」
「面倒くさいですね」
「面倒ではないです」
「本当に?」
「はい」
彼は、繋いだ手に少し力を込めた。
「大事です」
その言葉に、また泣きそうになる。
大事。
好きより、少し広い言葉。
恋より、少し深い言葉。
利月くんの口から出ると、それは約束みたいに聞こえた。
私たちは、橋の上でしばらく並んで川を見た。
もう額は離れている。
でも、さっき触れた場所がまだ熱い。
おでこに、透明な鍵を置かれたみたいだった。
「第一章みたいですね」
私はふと、そんなことを言った。
「第一章?」
利月くんが不思議そうに私を見る。
「うん。物語の」
「ここで終わるんですか」
「終わらないです」
私は首を振った。
「でも、ひとつ終わった気がする」
利月くんは少し考えた。
「始まった、ではなく?」
「始まったから、終わったんです」
「難しいです」
「私も分かってないです」
二人で笑った。
でも、本当にそうだった。
利月くんに出会ってから、私はずっと扉の前にいた。
開けたいのに、怖くて。
触れたいのに、割れそうで。
名前をつけたいのに、つけたら戻れなくなりそうで。
その扉が、今夜少しだけ開いた。
大きくではない。
ほんの少し。
でも、向こう側から、確かに風が吹いた。
「灯理さん」
「はい」
「次も、会ってくれますか」
「はい」
返事は、すぐに出た。
利月くんは、少しだけ表情をやわらげた。
「次は、最初から手を繋いでもいいですか」
顔が熱くなる。
「毎回聞くんですか」
「必要なら」
「必要じゃない時もあります」
「では」
利月くんは少し迷って、言った。
「繋ぎたい時は、言います」
「はい」
「灯理さんも」
「私も?」
「繋ぎたい時は、言ってください」
そんなこと言えるだろうか。
でも、今夜の私は少しだけ強かった。
「言えるようにします」
「はい」
「たぶん」
「はい」
利月くんが小さく笑った。
駅までの帰り道、私たちは手を繋いだままだった。
途中で、陽斗からメッセージが来た。
帰ってきてる?
私は笑って、利月くんに見せた。
「陽斗です」
「心配していますね」
「ですね」
私は返信した。
今から帰るよ。ちゃんと温かいもの飲んだ。
本当は飲んでいない。
でも、このあと駅で温かいココアでも買えば嘘にはならない。
すぐに返事が来た。
よし。
利月くんが画面を見て、ふっと笑った。
「陽斗らしいです」
「先生にも言いそう」
「言われそうです」
「利月くん、ちゃんと食べてますかって」
「それは俺が灯理さんに言う側です」
「二人して私を見張る」
「必要なので」
「ひどい」
「大事なので」
また、それ。
大事。
その言葉が、今夜は何度も私の中で鳴った。
駅の明かりが近づく。
もうすぐ離れる。
手を離さなければいけない。
そう思った瞬間、胸が少し寂しくなった。
改札の少し手前で、利月くんが立ち止まる。
私も止まった。
手は、まだ繋がっている。
「今日は、ありがとうございました」
利月くんが言った。
「こちらこそ」
「ちゃんと繋げて、よかったです」
「はい」
「額も」
「それは言わなくていいです」
「すみません」
「でも」
私は小さく息を吸った。
「嬉しかったです」
利月くんの目が、やわらかく揺れた。
「俺もです」
もう一度、額が触れそうな距離になった。
でも、今度は触れなかった。
その寸前で止まる。
それで十分だった。
第1章の終わりに、キスはいらない。
言葉にしきれない温度と、繋いだ手と、触れた額。
それだけで、私はもう戻れない。
「帰ります」
「はい」
「また」
「また」
私は手を離した。
離した瞬間、指先が少し寒くなる。
でも、不安ではなかった。
さっきまで繋いでいた温度は、ちゃんと残っていた。
改札を通って振り返ると、利月くんはまだそこにいた。
私を見ていた。
私は小さく手を振った。
彼も、少しだけ手を上げた。
たったそれだけで、胸がいっぱいになる。
電車に乗って、窓の外を見た。
街の光が流れていく。
おでこに、まだ彼の温度が残っている気がした。
手のひらにも。
胸の奥にも。
スマホが震える。
利月くんからだった。
今日、灯理さんに会えてよかったです。
少しして、もう一通。
次も、ちゃんと会いたいです。
私は画面を見つめた。
涙が出そうになって、でも今度は笑った。
返事を打つ。
私も。
次も、ちゃんと会いたいです。
送信。
既読がついた。
返事はすぐには来なかった。
でも、それでよかった。
もう、返事の早さだけで自分の価値を測りたくなかった。
私は窓に映る自分を見た。
少し泣いた顔。
少し笑っている顔。
恋をしている顔。
第1章が終わる。
出会って、迷って、逃げて、近づいて。
そして今夜、私は利月くんと手を繋いだ。
額をくっつけた。
キスはまだ。
でも、もう十分だった。
硝子の鍵は、静かに鳴った。
割れそうで、透明で、触れるのが怖かった鍵。
その鍵を、私はようやく手の中に持った。
扉の向こうには、まだ知らない痛みがある。
教室の影も。
尚さんの優しさも。
陽斗の揺れも。
私自身の戻れない場所も。
きっと、全部が待っている。
でも今夜だけは、まだそこへ行かなくていい。
今夜はただ、
利月くんの額の温度と、
繋いだ手の記憶だけを抱いて帰る。
第一章は、ここで静かに幕を下ろす。
そして私は知っている。
物語は、終わったのではない。
やっと、始まったのだ。
第一章「硝子の鍵」完結
第二章「硝子の鍵~season2」でお会いしましょう。
読んで頂きありがとうございました!
車の走る音も、駅前の人の声も、コンビニの自動ドアが開く音も、全部どこか薄い膜の向こうにあるみたいだった。
私は、待ち合わせ場所の橋の手前に立っていた。
前に、利月くんと歩いた川沿い。
前に、私がつまずいて、彼が手を取ってくれた場所。
あの時の手の温度を、私はまだ覚えている。
覚えているというより、忘れようがなかった。
理由があった手だった。
転びそうだったから。
危なかったから。
支えてくれたから。
でも、今夜は違う。
利月くんは言った。
次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。
その言葉を思い出すだけで、手袋の中の指先が熱くなる。
私は川の水面を見下ろした。
街灯の光が、細く揺れている。
会いたい。
そう思うのに、会う直前になると逃げたくなる。
好きという気持ちは、もっと明るくて、もっと軽くて、もっと扱いやすいものだと思っていた。
でも利月くんへの気持ちは、少し違う。
嬉しいのに怖い。
近づきたいのに、近づいたら自分が何を言ってしまうか分からない。
目を見たいのに、見たら全部ばれてしまいそうになる。
私は、恋をしている。
たぶん。
いや、もう、たぶんではない。
「灯理さん」
声がした。
振り返ると、利月くんが立っていた。
黒いコート。
少しだけ乱れた前髪。
息が白い。
彼は、私を見ていた。
先生の顔ではなく、
陽斗の担任としての顔でもなく、
ただ、私に会いに来た人の顔で。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶ひとつで、胸が鳴る。
重症だと思う。
利月くんは、私の少し前で立ち止まった。
「待たせましたか」
「少しだけ」
本当は、十分くらい早く来ていた。
でもそれを言うのは恥ずかしかった。
「寒かったですか」
「少しだけ」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「でも」
「また謝る」
利月くんは少しだけ困った顔をした。
その顔に、私は小さく笑ってしまう。
前より、少しだけ笑える。
前より、少しだけ目を見られる。
それだけで、夜の空気がやわらかくなった。
「歩きますか」
利月くんが言った。
「はい」
私たちは並んで歩き出した。
手はまだ繋いでいない。
でも、二人の間には確かにその約束があった。
手ひとつ分の距離。
近いようで遠い。
遠いようで、もう戻れないくらい近い。
川沿いの遊歩道は、前より人が少なかった。
冬の木々は葉を落として、枝だけになっている。
その向こうに、街の光がちらちら見えた。
「陽斗は」
利月くんが静かに聞いた。
「今日は早めに寝るって言ってました」
「そうですか」
「でも、たぶん起きてます」
利月くんが少し笑った。
「心配しているんですね」
「してますね」
「灯理さんのことをよく見ています」
「見すぎです」
「母親がそれを言いますか」
「言います」
私がそう答えると、利月くんはまた少し笑った。
その小さな笑い声が、胸に入ってくる。
「陽斗には、今日会うことを言いました」
「はい」
「それから」
私は少しだけ言葉に詰まった。
「手を繋ぐかもしれないことも」
利月くんの足が、ほんの少し遅くなった。
「そこまで」
「嘘、つきたくなくて」
「陽斗は、何て」
「学校ではなしって」
利月くんは真面目に頷いた。
「もちろんです」
「図書室もなしって」
「はい」
「廊下もなしって」
「しません」
あまりに真剣に返すから、私は笑ってしまった。
「そんな顔で言わなくても」
「大事なことなので」
「そうだけど」
「陽斗にとっては、学校の登坂でもあるので」
その言葉に、胸が少しだけ静かになる。
利月くんは、ちゃんと見ている。
私だけじゃなくて、陽斗のことも。
自分がどんな立場で、どんな線の上に立っているのかも。
それが嬉しい。
それが、少し苦しくもある。
彼は優しい。
でも、その優しさが、時々距離になる。
私は、利月くんの横顔を見た。
「利月くん」
名前で呼ぶと、彼はすぐにこちらを見た。
まだ慣れない。
私も、たぶん彼も。
「はい」
「今日、ちゃんと会えてよかったです」
言ってから、自分で照れた。
でも、取り消さなかった。
利月くんは少し黙った。
そして、静かに言った。
「俺もです」
たったそれだけ。
でも、その声がまっすぐだった。
橋の近くまで来た時、利月くんが足を止めた。
前に私がつまずいた段差の手前。
私は、あ、と小さく思った。
利月くんも覚えていた。
あの場所を。
あの手を。
あの、一瞬だけ理由があった距離を。
「灯理さん」
「はい」
彼は、ゆっくり私の方を向いた。
「ここから、手を繋いでもいいですか」
胸が大きく鳴った。
ちゃんと聞かれた。
理由を借りずに。
寒さのせいにせずに。
段差のせいにせずに。
私の手を取りたいから、と言うかわりに。
「はい」
声が小さくなった。
でも、ちゃんと届いたと思う。
利月くんは手袋を外した。
私も、片方だけ外す。
冬の空気が指先に触れて、少し冷たい。
彼の手が差し出される。
大きくて、少し硬そうな手。
黒板に字を書く手。
本を持つ手。
陽斗のノートをめくる手。
前に、私を支えてくれた手。
私は、その手に自分の手を重ねた。
利月くんの指が、私の指を包む。
あたたかい。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「ちゃんと繋ぎました」
利月くんが、真面目に言った。
私は笑ってしまった。
「報告するんですか」
「はい」
「誰に?」
「灯理さんに」
「私、今ここにいます」
「はい。なので、言いました」
おかしくて、でも泣きそうになる。
利月くんは、こういう人だ。
不器用で、真面目で、少しずれていて。
でも、嘘をつかない。
手を繋いだまま、私たちは歩いた。
前とは違った。
前は、転ばないように掴まれていた。
今夜は、離さないように繋がれていた。
ただそれだけの違いが、こんなにも胸を満たす。
私は、手の温度に気を取られながら歩いた。
指先から、心臓まで、細い糸が伸びているみたいだった。
「佐伯さんと」
ふいに、利月くんが言った。
私の手が、ほんの少しだけ反応した。
利月くんは気づいたと思う。
でも、手は離れなかった。
「話しましたか」
「はい」
「陽斗のことで」
「それもあります」
正直に言った。
利月くんは、前を見たまま頷いた。
「それ以外も?」
私は少し迷った。
尚さんの言葉が、夜の底から浮かんでくる。
俺も、手くらい繋ぎたかったです。
それを、全部そのまま渡すことはできない。
尚さんの痛みは、尚さんのものだ。
でも、何もなかったことにもできない。
「尚さんは」
私は言葉を選んだ。
「私のことも、陽斗のことも、よく見てくれています」
「はい」
「それに、救われているところもあります」
「はい」
利月くんの声は静かだった。
「でも」
私は繋いだ手を少しだけ握った。
「会いたいと思うのは、利月くんです」
その言葉を言った瞬間、夜の空気が少し止まった気がした。
利月くんも、足を止めた。
私も止まる。
川の音だけが、細く流れている。
「灯理さん」
「はい」
「佐伯に嫉妬しています」
はっきり言われた。
胸が跳ねた。
「はい」
「でも、佐伯が陽斗を見てくれていることも、灯理さんを支えていることも、否定したくないです」
「うん」
「だから、少し難しいです」
「うん」
利月くんは、繋いだ手を見た。
「でも、譲りたくないです」
息が止まる。
「何を?」
聞かなくても分かっていた。
でも、聞きたかった。
彼は少しだけ困ったように、私を見た。
「灯理さんが、俺の前で緊張することも」
「はい」
「目を逸らすことも」
「はい」
「それでも、会いたいと言ってくれることも」
胸が熱くなる。
「手を繋ぎたいと思ってくれることも」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「譲りたくないです」
涙が出そうになった。
私は、彼の手を握り返した。
「私、ずるいです」
「はい」
即答だった。
「そこは否定してほしいです」
「できません」
「ひどい」
「でも」
利月くんは、少しだけ私に近づいた。
「ずるいことを隠さないでくれるなら、俺はそこから考えられます」
「考える?」
「はい」
「考えて、どうするんですか」
彼は少し迷って、言った。
「ちゃんと好きでいます」
その言葉で、全部止まった。
ちゃんと好きでいます。
好きです、よりも不器用で。
愛してます、よりも慎重で。
でも、今の利月くんにはいちばん近い言葉だった。
私は何も言えなかった。
喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
利月くんは慌てたように少し目を伏せた。
「すみません。変な言い方をしました」
「変じゃないです」
「でも」
「変じゃない」
私は、もう一度言った。
「すごく、利月くんらしい」
彼は、少しだけ困った顔をした。
その顔が好きだと思った。
私は、利月くんを好きだ。
尚さんに救われても。
陽斗を気にしても。
自分の過去が痛んでも。
今、この手を離したくないと思う相手は、この人だった。
「私も」
声が震えた。
「ちゃんと好きでいたいです」
利月くんの目が、静かに揺れた。
その揺れを見た瞬間、私は目を逸らしそうになった。
でも、逸らさなかった。
今日は、逸らしたくなかった。
少しの沈黙。
冬の空気の中で、二人の息だけが白く重なる。
利月くんは、繋いでいない方の手を少しだけ上げて、でも途中で止めた。
「触れてもいいですか」
その一言に、胸がほどけた。
この人は、いつもそうだ。
近づく前に、ちゃんと聞く。
それがもどかしくて、でも、だから安心する。
「はい」
私が答えると、利月くんはゆっくり手を伸ばした。
頬に触れるのかと思った。
でも、彼の手は私の肩にそっと触れただけだった。
強く抱きしめるわけでもない。
奪うわけでもない。
ただ、ここにいることを確かめるみたいに。
そして、彼は少しだけ身をかがめた。
近い。
近すぎる。
心臓が、音を立てている。
「灯理さん」
「はい」
「キスは、まだしません」
耳まで熱くなった。
「言わなくていいです」
「言わないと、俺が間違えそうなので」
「間違えそうなんですか」
聞いてしまってから、後悔した。
利月くんは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
その声が低くて、私は息を止めた。
冬の夜が、急に熱を持った。
でも、利月くんはそれ以上近づかなかった。
代わりに、そっと額を寄せた。
私のおでこに、彼のおでこが触れる。
ほんの少し。
軽く。
でも、手を繋いだ時よりも、もっと近い。
視界が、利月くんだけになる。
彼の息が近い。
まつ毛が見える。
声にならない沈黙が、二人の間に落ちる。
「近いです」
私が小さく言うと、
「はい」
利月くんも小さく答えた。
「離れますか」
「……離れなくていいです」
言った瞬間、彼の手が少しだけ私の肩を包んだ。
額をくっつけたまま、私たちはしばらく動かなかった。
キスではない。
抱擁でもない。
でも、たぶん、それよりも今の私たちには深かった。
逃げられないほど近いのに、
壊れないように大切にされている。
私は目を閉じた。
利月くんの温度が、額から胸の奥まで降りてくる。
「利月くん」
「はい」
「私、こわいです」
「はい」
「好きになるの、こわい」
「はい」
「陽斗のこともあるし、尚さんのこともあるし、私自身のことも、まだちゃんと分からない」
「はい」
「でも」
声が震えた。
「離れたくないです」
額が触れたまま、利月くんが小さく息を吸ったのが分かった。
「俺もです」
その一言は、静かだった。
でも、強かった。
「俺も、離れたくないです」
涙が落ちた。
利月くんはそれに気づいて、少しだけ額を離した。
でも、手は離さなかった。
「泣かせましたか」
「泣きました」
「俺が?」
「利月くんが」
彼は困った顔をした。
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
私は涙を拭った。
「嬉しくて泣く時もあります」
利月くんは、少し驚いたように私を見た。
「そうなんですか」
「あります」
「覚えておきます」
また真面目に言うから、泣きながら笑ってしまった。
「何を覚えるんですか」
「灯理さんは、嬉しくても泣く」
「面倒くさいですね」
「面倒ではないです」
「本当に?」
「はい」
彼は、繋いだ手に少し力を込めた。
「大事です」
その言葉に、また泣きそうになる。
大事。
好きより、少し広い言葉。
恋より、少し深い言葉。
利月くんの口から出ると、それは約束みたいに聞こえた。
私たちは、橋の上でしばらく並んで川を見た。
もう額は離れている。
でも、さっき触れた場所がまだ熱い。
おでこに、透明な鍵を置かれたみたいだった。
「第一章みたいですね」
私はふと、そんなことを言った。
「第一章?」
利月くんが不思議そうに私を見る。
「うん。物語の」
「ここで終わるんですか」
「終わらないです」
私は首を振った。
「でも、ひとつ終わった気がする」
利月くんは少し考えた。
「始まった、ではなく?」
「始まったから、終わったんです」
「難しいです」
「私も分かってないです」
二人で笑った。
でも、本当にそうだった。
利月くんに出会ってから、私はずっと扉の前にいた。
開けたいのに、怖くて。
触れたいのに、割れそうで。
名前をつけたいのに、つけたら戻れなくなりそうで。
その扉が、今夜少しだけ開いた。
大きくではない。
ほんの少し。
でも、向こう側から、確かに風が吹いた。
「灯理さん」
「はい」
「次も、会ってくれますか」
「はい」
返事は、すぐに出た。
利月くんは、少しだけ表情をやわらげた。
「次は、最初から手を繋いでもいいですか」
顔が熱くなる。
「毎回聞くんですか」
「必要なら」
「必要じゃない時もあります」
「では」
利月くんは少し迷って、言った。
「繋ぎたい時は、言います」
「はい」
「灯理さんも」
「私も?」
「繋ぎたい時は、言ってください」
そんなこと言えるだろうか。
でも、今夜の私は少しだけ強かった。
「言えるようにします」
「はい」
「たぶん」
「はい」
利月くんが小さく笑った。
駅までの帰り道、私たちは手を繋いだままだった。
途中で、陽斗からメッセージが来た。
帰ってきてる?
私は笑って、利月くんに見せた。
「陽斗です」
「心配していますね」
「ですね」
私は返信した。
今から帰るよ。ちゃんと温かいもの飲んだ。
本当は飲んでいない。
でも、このあと駅で温かいココアでも買えば嘘にはならない。
すぐに返事が来た。
よし。
利月くんが画面を見て、ふっと笑った。
「陽斗らしいです」
「先生にも言いそう」
「言われそうです」
「利月くん、ちゃんと食べてますかって」
「それは俺が灯理さんに言う側です」
「二人して私を見張る」
「必要なので」
「ひどい」
「大事なので」
また、それ。
大事。
その言葉が、今夜は何度も私の中で鳴った。
駅の明かりが近づく。
もうすぐ離れる。
手を離さなければいけない。
そう思った瞬間、胸が少し寂しくなった。
改札の少し手前で、利月くんが立ち止まる。
私も止まった。
手は、まだ繋がっている。
「今日は、ありがとうございました」
利月くんが言った。
「こちらこそ」
「ちゃんと繋げて、よかったです」
「はい」
「額も」
「それは言わなくていいです」
「すみません」
「でも」
私は小さく息を吸った。
「嬉しかったです」
利月くんの目が、やわらかく揺れた。
「俺もです」
もう一度、額が触れそうな距離になった。
でも、今度は触れなかった。
その寸前で止まる。
それで十分だった。
第1章の終わりに、キスはいらない。
言葉にしきれない温度と、繋いだ手と、触れた額。
それだけで、私はもう戻れない。
「帰ります」
「はい」
「また」
「また」
私は手を離した。
離した瞬間、指先が少し寒くなる。
でも、不安ではなかった。
さっきまで繋いでいた温度は、ちゃんと残っていた。
改札を通って振り返ると、利月くんはまだそこにいた。
私を見ていた。
私は小さく手を振った。
彼も、少しだけ手を上げた。
たったそれだけで、胸がいっぱいになる。
電車に乗って、窓の外を見た。
街の光が流れていく。
おでこに、まだ彼の温度が残っている気がした。
手のひらにも。
胸の奥にも。
スマホが震える。
利月くんからだった。
今日、灯理さんに会えてよかったです。
少しして、もう一通。
次も、ちゃんと会いたいです。
私は画面を見つめた。
涙が出そうになって、でも今度は笑った。
返事を打つ。
私も。
次も、ちゃんと会いたいです。
送信。
既読がついた。
返事はすぐには来なかった。
でも、それでよかった。
もう、返事の早さだけで自分の価値を測りたくなかった。
私は窓に映る自分を見た。
少し泣いた顔。
少し笑っている顔。
恋をしている顔。
第1章が終わる。
出会って、迷って、逃げて、近づいて。
そして今夜、私は利月くんと手を繋いだ。
額をくっつけた。
キスはまだ。
でも、もう十分だった。
硝子の鍵は、静かに鳴った。
割れそうで、透明で、触れるのが怖かった鍵。
その鍵を、私はようやく手の中に持った。
扉の向こうには、まだ知らない痛みがある。
教室の影も。
尚さんの優しさも。
陽斗の揺れも。
私自身の戻れない場所も。
きっと、全部が待っている。
でも今夜だけは、まだそこへ行かなくていい。
今夜はただ、
利月くんの額の温度と、
繋いだ手の記憶だけを抱いて帰る。
第一章は、ここで静かに幕を下ろす。
そして私は知っている。
物語は、終わったのではない。
やっと、始まったのだ。
第一章「硝子の鍵」完結
第二章「硝子の鍵~season2」でお会いしましょう。
読んで頂きありがとうございました!
