銀の羽は、雨音フェチ
第3話 無限の深淵と竹座布団
噂を聞きつけ、羽衣堂には妙な客が増えた。消しゴムの角を最初に使う瞬間が好きな中学生。古本の値札をはがす時だけ生きている気がする公務員。レジ袋を三角に畳む作業に宇宙を見る肉屋。豆腐屋の娘は、絹ごし豆腐の表面を包丁がすべる時の静けさを「無限の深淵」と呼んだ。
羽衣は全員を真顔で受け止めた。
「偏愛に優劣はありません。ただし、他人のレジ袋を勝手に畳むのはやめましょう」
肉屋は反省し、畳む前に許可を取る札を首から下げた。札の字が大きすぎて、かえって怖い。
利輝は接客を手伝ううち、少し柔軟性を身につけた。以前なら「それは変です」と言ったかもしれない。今は「その好き、どこで役に立ちますか」と聞ける。中学生は消しゴムの角を守るために勉強机を片づけるようになり、公務員は古本の値札をきれいにはがす腕を買われ、商店街の値札貼り直しを任された。
ある夕方、過去に縛られた二人が来た。古い写真館の主人と、その元助手の女性。三十年前、互いに恋わずらいだったのに、暗室の鍵をどちらが持つかで口げんかをして、別れたままらしい。
主人は「暗室で現像液を揺らす音」が好きだった。女性は「シャッターを切る前の、相手が息を止める一秒」が好きだった。二人の好きは同じ店で育ったのに、別々の箱に閉じ込められていた。
「遅すぎるめぐり合いですね」と羽衣が言う。
「遅いかどうかは、値段交渉と同じです」と淳乃が返す。「相手が席に着いた瞬間から、まだ始められます」
稜翔は天井を見上げていた。
「未来の記録では、この二人は仲直りしません」
「余計なこと言うな」
「でも僕は感謝を求めません。直したいなら勝手に直してください」
羽衣は竹で編んだ座布団を二枚出した。二人が向かい合って座ると、ぎしっ、ぎしっと音が重なった。利輝はその音に合わせて、二人へ別々に言葉を渡す。
「あなたは、相手の沈黙が嫌いだったんじゃない。息を止めて待ってくれるのが、うれしかったんですね」
「あなたは、現像液の音じゃなくて、隣で同じ暗さを怖がらない人が好きだったんですね」
二人は笑い出した。泣く寸前の顔で、変な咳みたいに笑った。竹座布団のぎしっは、無限の深淵をのぞいたあとの足場みたいに、頼りないのに温かかった。
その夜、利輝は気づいた。自分は羽衣の、知らないものを怖がらず辞書に載せようとする横顔が好きだ。これは恋なのか、横顔フェチなのか。区別がつかず寝不足になり、翌朝、総菜屋のコロッケを二つ買って一つ落とした。
羽衣は全員を真顔で受け止めた。
「偏愛に優劣はありません。ただし、他人のレジ袋を勝手に畳むのはやめましょう」
肉屋は反省し、畳む前に許可を取る札を首から下げた。札の字が大きすぎて、かえって怖い。
利輝は接客を手伝ううち、少し柔軟性を身につけた。以前なら「それは変です」と言ったかもしれない。今は「その好き、どこで役に立ちますか」と聞ける。中学生は消しゴムの角を守るために勉強机を片づけるようになり、公務員は古本の値札をきれいにはがす腕を買われ、商店街の値札貼り直しを任された。
ある夕方、過去に縛られた二人が来た。古い写真館の主人と、その元助手の女性。三十年前、互いに恋わずらいだったのに、暗室の鍵をどちらが持つかで口げんかをして、別れたままらしい。
主人は「暗室で現像液を揺らす音」が好きだった。女性は「シャッターを切る前の、相手が息を止める一秒」が好きだった。二人の好きは同じ店で育ったのに、別々の箱に閉じ込められていた。
「遅すぎるめぐり合いですね」と羽衣が言う。
「遅いかどうかは、値段交渉と同じです」と淳乃が返す。「相手が席に着いた瞬間から、まだ始められます」
稜翔は天井を見上げていた。
「未来の記録では、この二人は仲直りしません」
「余計なこと言うな」
「でも僕は感謝を求めません。直したいなら勝手に直してください」
羽衣は竹で編んだ座布団を二枚出した。二人が向かい合って座ると、ぎしっ、ぎしっと音が重なった。利輝はその音に合わせて、二人へ別々に言葉を渡す。
「あなたは、相手の沈黙が嫌いだったんじゃない。息を止めて待ってくれるのが、うれしかったんですね」
「あなたは、現像液の音じゃなくて、隣で同じ暗さを怖がらない人が好きだったんですね」
二人は笑い出した。泣く寸前の顔で、変な咳みたいに笑った。竹座布団のぎしっは、無限の深淵をのぞいたあとの足場みたいに、頼りないのに温かかった。
その夜、利輝は気づいた。自分は羽衣の、知らないものを怖がらず辞書に載せようとする横顔が好きだ。これは恋なのか、横顔フェチなのか。区別がつかず寝不足になり、翌朝、総菜屋のコロッケを二つ買って一つ落とした。