紫陽花の短編集物語#2

おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった

第1話 「ただいま」って言えない家に来た日

最初の夜、梨歩は声を出さなかった。
母が隣で笑ってても、新しい家の匂いがしても、
目の前の男の人――隆一郎には、視線すら向けなかった。
「おかえり」って声が背中越しに聞こえたけど、
梨歩の口からは「ただいま」がどうしても出なかった。
学校では「新しいお父さんできたんでしょ」と言われ、
でも彼を「お父さん」って呼ぶ気にはなれなかった。
ある日、弁当を忘れてランドセルのなかが空っぽだった。
誰にも言わずに過ごそうとした昼休み――
教室に入ってきたのは隆一郎だった。
「よかった、間に合った」
弁当箱は、梨歩が好きな卵焼きの匂いがした。
受け取っても、お礼は言えなかった。
でも、頬の奥がすこし熱くなっていた。

それから少しずつ、梨歩は気づいていく。
夜ごはんを食べるとき、そっと味見してから出してくれること。
母が出張でいない夜、ホットミルクに小さなクッキーを添えてくれること。
言葉より前に、気持ちだけがいつのまにか染み込んでいった。
【おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった】














第2話 卵焼きのかたち

ある朝、梨歩はふと目覚めた。窓の外は薄く曇っていて、雨が降りそうな気配がした。
キッチンからはカタン、と何かの音。時計を見ると、まだ6時を少し回ったところだった。
静かにドアを開けてのぞくと、隆一郎がエプロンを着けて、卵を割っているところだった。
「……まだ寝てていいのに」
梨歩の声に、彼はちょっと驚いた顔をしたあと、やさしく笑った。
「今日は、初めてのお弁当作戦だからな」
「作戦?」
「“梅干し危機から梨歩を守る”作戦だ。ほら、昨日言ってただろ、あのすっぱいやつ入ってたらイヤだって」
梨歩は、思わず小さく笑ってしまった。自分でも笑ったことにびっくりして、あわてて表情を戻す。
「……言ったけど、べつに気にしなくていいのに」
「気にするよ。大事なことだからな」
そう言って彼は、フライパンの上で卵焼きを巻きながら、ちょっとだけ得意げだった。
その日のお弁当には、甘めの卵焼きと、きゅうりの浅漬け、そして海苔の下に小さなメッセージカードが入っていた。
「今日も、がんばれますように」
たったそれだけの言葉なのに、梨歩の胸の奥にすっと染みこんできた。
言葉にできないものが、確かにそこにあった。
(“ただいま”が、口の中にひっかからなくなる日は来るのかな・・・)
梨歩はそっと、弁当箱のふたを閉じた。
【おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった】















第3話 空っぽじゃないカバン

放課後の図書室は、静かすぎてページをめくる音さえ響く。
梨歩はひとり、本の背表紙を指でなぞっていた。でも、探しているのは本じゃなかった。
“今日は、ママが帰ってくる日。”
ずっと楽しみにしてたはずなのに、胸のあたりがざわざわしていた。
帰り道、急に雲行きがあやしくなって、細かい雨が降り出した。
傘は持ってなかった。足早に家に向かう。
玄関の前で、梨歩は立ち止まった。カチャリ、とドアの向こうで音がした。
「おかえり」
その声は、母じゃなかった。
「雨、濡れた?」と隆一郎が言った。タオルと、梨歩の好きなミントの香りの柔軟剤がふわりと混じった。
黙ったまま、受け取って髪を拭く。
そのとき、リビングのテーブルの上に、小さな紙袋が置かれているのに気づいた。
「なに、それ」
「新しい筆箱。前の、チャック壊れてただろ」
梨歩は紙袋をそっと開けた。中には紺色の布の筆箱と、名前入りの小さなタグがついていた。
「……なんで、こんな」
「カバンの中、空っぽにしとくのも寂しいだろ」
梨歩の心に、ぽつり、音がした。
それはまるで、雨粒がやわらかい土を叩いたときの音みたいだった。
この人は、わたしの“空っぽ”を、ちゃんと見てくれているって思った梨歩。
梨歩は筆箱をそっとランドセルに入れた。次は、自分で何かを入れて返したい、そんな気がした。
【おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった】












第4話 聞こえなかった声

夕方、母が久しぶりに早く帰ってきた。
「梨歩~、今日は外でごはん食べよっか!」
少しはしゃいだ声に、梨歩は思わず顔を上げた。リビングには、化粧の香りといつものヒールの音。
けれど、その隣に立っていた隆一郎を見て、梨歩はほんの少し、視線をそらした。
車に乗り、行きつけのファミリーレストランへ向かう道。母はずっと話していた。職場のこと、週末の予定、そして「梨歩も、もう馴れた?」という言葉。
「うん」とだけ答えた梨歩の声は、窓ガラスのほうに吸い込まれていった。
隣で運転していた隆一郎は何も言わなかった。でも、信号待ちのとき、小さく聞こえた。
「今日、漢字の小テストだったよな。どうだった?」
その問いに、梨歩は少し驚いて隆一郎を見た。
「……まあまあ」
「そっか。じゃあ“よくがんばりました”シール買わなきゃな」
くだらない冗談。でも、それが変にうれしかった。
その夜、母が電話をしながら部屋に入って行ったあと、梨歩はリビングに戻った。テーブルの上には、食後のアイスが2つ。母の分はなかった。
「……ママは?」
「まだ仕事の話してる。先に食べていいよ」
梨歩は少し迷ってから、アイスを手に取った。
「……なんで2つあるの?」
「ひとつは、“今日まあまあだった”お祝い。もうひとつは、俺の分。実は今日、仕事で小さいミスしたんだ」
「ミスしたのに、アイス食べるの?」
「そう。がっかりした日も、ちゃんと終わらせるために」
梨歩は、それを聞いて少し笑った。
その夜、布団に入っても、なんとなく心の奥にぽつんと残った言葉があった。
『がっかりした日も、ちゃんと終わらせる』
それは、今の自分に必要な言葉だった。
【おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった】







第5話 ことばの重さ

教室でプリントを配られたとき、梨歩はふと手が止まった。
「家庭科の時間、“ありがとう”って言われた経験を一つ書きましょう」
白い紙を前に、鉛筆の先がさまよっていた。
思い出せないわけじゃない。ただ、それを書くにはまだ、なにかが胸の奥につかえていた。
放課後、カバンを開けると、連絡帳に母の字で“会議のため帰宅遅れます”とあった。
“またか”という気持ちと、“別にいいけど”が混ざって、梨歩は少しだけため息をついた。
その夜、夕飯のあと――
「梨歩、お風呂わかしてあるぞ」
隆一郎の声がキッチンから聞こえた。
梨歩は立ち上がると、ふと手にしていたプリントを持って彼のほうへ向かった。
「これ……見せたいんじゃなくて……ちょっと、聞きたいこと」
「ん?」
「“ありがとう”って……ちゃんと、伝えるのって、むずかしい?」
隆一郎は一瞬黙って、食器を拭く手を止めた。
「うん。難しいよ。特に……ちゃんと伝えたい人には」
その言葉に、梨歩は少しだけほっとしたような顔をした。
「でも、伝えたいと思ってるなら、それだけでも、すごいよ」
その夜、梨歩はプリントにこう書いた。
「今日もがんばれって言ってくれてうれしかった。でも、その日“ありがとう”って言えなかった。だけど、ほんとうは伝えたかったです」
作文を読み返してから、梨歩はふと、あることを思い出した。
お風呂のふたに、さくらんぼの入浴剤が浮かんでいた。
それは、梨歩が前に“すき”って言った香りだった。
言えなかったことは、ちゃんとどこかに残ってる。
そう思えるだけで、胸が少しあたたかくなる気がした。
【おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった】








最終話 たったひとこと

中学三年生。卒業アルバム用の写真を撮る日。
教室では、みんなが笑ったりふざけたり、少しだけ浮き足立っていた。
梨歩は、窓の外を見ていた。桜のつぼみが、もうほとんど咲きかけている。
そのとき、担任の先生が声をかけてきた。
「そうだ、今日ご家族の写真も撮るって話してたよね。お母さんと、来られるって聞いてる?」
「……ママは仕事だって」
梨歩は少しだけうつむいた。でも、ポケットの中には、昨日届いたメモがあった。
“明日は、ちょっと早く帰れるかも。できたら写真、いっしょに写りたいな。”
その「できたら」に、まだ少し迷いがあった。
その日の午後、写真撮影が始まった。
「家族写真、撮りますー!」という声に、周りの子たちが親を呼ぶなか、梨歩は教室の隅で立っていた。
そのとき、階段のほうから、急ぎ足の音。
「……間に合った」
息を少し弾ませて、隆一郎が立っていた。
「えっ……なんで」
「母さん、どうしても抜けられなかったって。代わりになっちゃうけど……」
その言葉の途中で、梨歩は小さく首を振った。
「ううん。……来てくれて、ありがとう」
それは、梨歩の口から初めて出た“ありがとう”だった。
強がりじゃない、照れ隠しでもない、まっすぐな気持ちの言葉。
隆一郎は、一瞬だけ目を細めて、そっと笑った。
写真のシャッター音が、静かな廊下に響いた。
その帰り道、「桜、咲きそうだな」と彼が言った。
「うん」と梨歩はうなずいた。
そして、家の前に着いたとき――
「……ただいま」
自分でも驚くほど、自然に言えた。
玄関の扉が開いて、いつもの匂いがした。
「おかえり」
その声に、梨歩はそっと笑った。
【おかえりって言ってくれたのは、あの人だけだった 完結】
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