紫陽花の短編集物語#2
17cmの恋心
第1話 あの日のカサと、スニーカー
土砂降りの帰り道。
傘もなくて校門の下で立ちつくしていた小6の希美(のぞみ)は、制服の袖から雨水をぽたぽた落としていた。
「ねぇ、貸してやろっか?」
突然、背の高い男の子がふたつの傘のうち、片方をスッと差し出した。
びっくりして顔を上げた希美に、その男の子――守(まもる)はにかんだ笑顔を向けた。
「おれ、走って帰るから大丈夫」
そう言って笑ったその人は、当時高校生だった守くん。隣の家に住む“優しくてかっこいいお兄さん”。
傘のあったかさと、雨上がりの夕焼けと、守くんの靴の音。
全部が、希美の胸の奥に、小さな種のように残った。
時は流れて――
中学2年の今、希美は放課後の図書室で週刊誌をそっと開く。
そのページの真ん中には、テレビで見ない日はない俳優・春海 守の笑顔。
「ほんとに、遠く行っちゃったなあ……」
初恋って、もっと軽いものかと思ってた。
時間がたてば、忘れていくものだと思ってた。
でも、あの傘の重みも、名前を呼ばれた声も、まだ心のどこかに残ったまま。
17cm。あのときと今、わたしたちの身長差。
だけど、本当の距離は、もっともっと遠いのかもしれない。
【17cmの恋心】
第2話 好きって、言っちゃだめな気がした
ある日、学校の帰り道。駅前の書店に寄った希美は、思わず足を止めた。
平積みされた雑誌の表紙に、守くんの姿があった。
「春海 守、25歳。今いちばん会いたい男」――そんな文字が、キラキラしたフォントで踊ってる。
でも、希美の中に浮かんだのは、笑顔でもない、演技でもない。
あの日、傘を差し出してくれた横顔だった。
“好き”って……いまだに思ってるなんて、バカみたい。
それでも、手は勝手に雑誌を取っていた。
その夜、ふとテレビをつけると、守くんが出ていた。
「今までで、一番忘れられない出会いは?」というインタビューに、彼はちょっとだけ笑って言った。
「昔、ご近所に住んでた小学生の子がいて……」
希美の心臓がドクンと跳ねた。
「雨の日に傘を貸したことがあったんです。今でも、その子の“ありがとう”が、なんか残ってて」
画面の中の彼は、それ以上何も言わなかった。でも――
“あのときのこと、覚えててくれてる”
それだけで、胸がぎゅっとなった。
そして同時に、現実が押し寄せてくる。
彼は大人で、芸能人で、別の世界にいる人。
だから、好きって、言っちゃだめな気がした。
心の中でそう思いながら、希美はそっとテレビの音量を下げた。
【17cmの恋心】
第3話 スクリーン越しじゃなくて
土曜日の午後、希美はクラスメイトの奈々と、駅前のショッピングモールで雑貨を見ていた。
「ほら見て!これめっちゃ“守くん”っぽくない?」
奈々が笑いながら指さしたのは、シンプルな白いマグカップ。
「なんでも“守くん”に見えるの、やめなよ……」
そう言いながらも、希美の目は自然と、テレビコーナーに向いていた。
大型モニターには、ドラマの告知が流れている。
《春海守主演・新ドラマ『交差点の真ん中で』来週スタート》
インタビューで笑っている守くんの横顔が、大画面に映る。
「……変わったね。すごく、遠くなった気がする」
ふっとつぶやいた声は、自分でも気づかないほど小さかった。
そのとき。
向かいのカフェから、スタッフジャンパーを着た人が慌ただしく飛び出してきた。
「次のテイク、5分後入りまーす!春海さん、スタンバイお願いします!」
一瞬、時間が止まった気がした。
カフェの奥。
そこに立っていたのは――守、だった。
ライトに照らされた横顔。スーツ姿。けれど、ふと目線を外したとき、視線が交差した。
ほんの一瞬。
でも――目が合った。
気のせい? そんなわけない。
だって、彼がゆっくり歩いてこちらに向かってくる。
「……のぞみ?」
名前を呼ばれて、心臓が一回、強く跳ねた。
「え……」
「やっぱり……久しぶり」
スクリーン越しじゃなくて、雑誌でもなくて。
ほんものの声で、ほんものの目で、守がそこにいた。
声が出ないままうなずいた希美に、守がそっと笑った。
「大きくなったね。もう、中学生?」
「うん……」
たったそれだけの会話なのに、時間が逆戻りしていくようだった。
「撮影、あとちょっとで終わるから……よかったら、あとで少しだけ話そうか」
それは夢みたいで――でも、ちゃんと現実だった。
【17cmの恋心】
第4話 17cmの答え
カフェのテラス席。撮影が終わった守は、スタッフに軽く頭を下げたあと、希美の方へゆっくりと歩いてきた。
「待たせちゃったね」
「……ううん、大丈夫」
沈黙が一瞬だけ降りたけど、どこか懐かしい間だった。
「変わってないね、のぞみ」
「そうかな。……背は伸びたよ」
冗談まじりで言うと、守は少し笑った。
「そっか。……何センチになった?」
「えーっと、158」
「じゃあ……」
守が立ち上がって、目線を合わせるように軽く身をかがめた。
「今の俺と、17センチ差だ」
その言葉に、希美の心が跳ねた。
17cm――。ずっと、彼が遠くなってしまった気がしていた“距離”。
「……覚えてるんだ、わたしのこと」
「忘れられるわけないよ。あのときの“ありがとう”、ちゃんと届いてたから」
そう言った守のまなざしは、大人びてるのに、あの雨の日と同じだった。
「……いま、もう“好き”とか言っちゃいけないんだって、自分に言い聞かせてたんだよ。ずっと」
ぽろりと出た本音。言ってしまってから、希美は焦った。けど、守は笑わなかった。
「俺も思ってた。……“届いちゃいけない”って。でもさ、届いてたよ、ちゃんと」
春の風が、ふたりの前髪をそっと揺らした。
「のぞみ。俺、また……話せてよかった」
「あのときより、もっと好きかもしれない」
声が、小さかった。でも、それは自分の言葉だった。
「……ありがと」
その日、心の中の“恋心”が、もう“いまの気持ち”になった気がした。
【17cmの恋心】
第5話 未来に名前をつけるなら
あの日の再会から数日。
希美の中に、あたたかい何かが残っていた。風の匂い、守くんの声、そして目が合ったときの胸の高鳴り。
けれど、日常は変わらず続いていく。中間テスト、部活、友だちとのおしゃべり。守くんとの再会は、夢みたいに日々に溶けていった。
そんなある夜。スマホに知らない番号から着信があった。
「……もしもし?」
『のぞみ? 俺。春海守。』
心臓がひっくり返るかと思った。
「え、なんで番号……?」
『お母さんから。そっちの家、引っ越してからも年賀状だけは送ってたって。』
思わず笑ってしまった。
『あのさ――実は、来月ドラマの最終回の収録があって。それで……』
一瞬、守の声がかすかにためらった。
『観覧席に、のぞみ、来てくれないかな?』
「……わたしで、いいの?」
『うん。俺が、ちゃんと伝えたいことがあるから。』
その日、部屋に飾ってあった“傘”のキーホルダーを、希美は手に取った。
17cmなんて、今のわたしたちには関係ない。
大人も子どもも関係ない。
この気持ちは――いまの私が持っている“いちばん本当の気持ち”だ。
【17cmの恋心】
最終話 そして、となりに。
テレビ局のスタジオ。
ライトがまぶしくて、空気が少しだけ張りつめていた。
観覧席の最前列。希美の手には、守から届いた小さな招待状。
《未来の話をするために、いま会いたい人がいます。》
ドラマのクライマックス。守の演じる主人公が、かつて別れた初恋の相手に言うシーン。
「“好き”って言葉は、今でもあの頃のまんま、俺の中にある。
だから……もう一度、言わせてください。」
テレビなのに、現実のように胸が熱くなった。
収録が終わり、スタッフたちがバラバラと動きはじめたころ。
「のぞみ」
その声に、振り返る。
「ありがとう、来てくれて」
「……お芝居だったのに、泣きそうになった」
「ほんとに伝えたい人を見てたから、かも」
照明が落ちていくスタジオの中で、守は少しだけ迷ったあと――
「ねぇ、のぞみ。
“17cmの恋”って、いつまで恋でいさせるつもり?」
「え?」
「もう、“恋”じゃなくていいと思ってる。
これからは――“となり”に来てくれない?」
言葉の意味をちゃんと受け止めた瞬間、希美はうなずいていた。
昔と同じ笑顔で、でももう少しだけ大人になった声で――
「……うん。“恋”から、始めよう」
【距離じゃなかった。年齢でも、世界の広さでもなかった。
“好き”だと思い続けた気持ちが、いちばん確かなものだった。】
そして今。
彼のとなりを歩く未来に、名前をつけるとしたら――
それは、“17cmの恋心”の、そのつづき。
【17cmの恋心 完結】
土砂降りの帰り道。
傘もなくて校門の下で立ちつくしていた小6の希美(のぞみ)は、制服の袖から雨水をぽたぽた落としていた。
「ねぇ、貸してやろっか?」
突然、背の高い男の子がふたつの傘のうち、片方をスッと差し出した。
びっくりして顔を上げた希美に、その男の子――守(まもる)はにかんだ笑顔を向けた。
「おれ、走って帰るから大丈夫」
そう言って笑ったその人は、当時高校生だった守くん。隣の家に住む“優しくてかっこいいお兄さん”。
傘のあったかさと、雨上がりの夕焼けと、守くんの靴の音。
全部が、希美の胸の奥に、小さな種のように残った。
時は流れて――
中学2年の今、希美は放課後の図書室で週刊誌をそっと開く。
そのページの真ん中には、テレビで見ない日はない俳優・春海 守の笑顔。
「ほんとに、遠く行っちゃったなあ……」
初恋って、もっと軽いものかと思ってた。
時間がたてば、忘れていくものだと思ってた。
でも、あの傘の重みも、名前を呼ばれた声も、まだ心のどこかに残ったまま。
17cm。あのときと今、わたしたちの身長差。
だけど、本当の距離は、もっともっと遠いのかもしれない。
【17cmの恋心】
第2話 好きって、言っちゃだめな気がした
ある日、学校の帰り道。駅前の書店に寄った希美は、思わず足を止めた。
平積みされた雑誌の表紙に、守くんの姿があった。
「春海 守、25歳。今いちばん会いたい男」――そんな文字が、キラキラしたフォントで踊ってる。
でも、希美の中に浮かんだのは、笑顔でもない、演技でもない。
あの日、傘を差し出してくれた横顔だった。
“好き”って……いまだに思ってるなんて、バカみたい。
それでも、手は勝手に雑誌を取っていた。
その夜、ふとテレビをつけると、守くんが出ていた。
「今までで、一番忘れられない出会いは?」というインタビューに、彼はちょっとだけ笑って言った。
「昔、ご近所に住んでた小学生の子がいて……」
希美の心臓がドクンと跳ねた。
「雨の日に傘を貸したことがあったんです。今でも、その子の“ありがとう”が、なんか残ってて」
画面の中の彼は、それ以上何も言わなかった。でも――
“あのときのこと、覚えててくれてる”
それだけで、胸がぎゅっとなった。
そして同時に、現実が押し寄せてくる。
彼は大人で、芸能人で、別の世界にいる人。
だから、好きって、言っちゃだめな気がした。
心の中でそう思いながら、希美はそっとテレビの音量を下げた。
【17cmの恋心】
第3話 スクリーン越しじゃなくて
土曜日の午後、希美はクラスメイトの奈々と、駅前のショッピングモールで雑貨を見ていた。
「ほら見て!これめっちゃ“守くん”っぽくない?」
奈々が笑いながら指さしたのは、シンプルな白いマグカップ。
「なんでも“守くん”に見えるの、やめなよ……」
そう言いながらも、希美の目は自然と、テレビコーナーに向いていた。
大型モニターには、ドラマの告知が流れている。
《春海守主演・新ドラマ『交差点の真ん中で』来週スタート》
インタビューで笑っている守くんの横顔が、大画面に映る。
「……変わったね。すごく、遠くなった気がする」
ふっとつぶやいた声は、自分でも気づかないほど小さかった。
そのとき。
向かいのカフェから、スタッフジャンパーを着た人が慌ただしく飛び出してきた。
「次のテイク、5分後入りまーす!春海さん、スタンバイお願いします!」
一瞬、時間が止まった気がした。
カフェの奥。
そこに立っていたのは――守、だった。
ライトに照らされた横顔。スーツ姿。けれど、ふと目線を外したとき、視線が交差した。
ほんの一瞬。
でも――目が合った。
気のせい? そんなわけない。
だって、彼がゆっくり歩いてこちらに向かってくる。
「……のぞみ?」
名前を呼ばれて、心臓が一回、強く跳ねた。
「え……」
「やっぱり……久しぶり」
スクリーン越しじゃなくて、雑誌でもなくて。
ほんものの声で、ほんものの目で、守がそこにいた。
声が出ないままうなずいた希美に、守がそっと笑った。
「大きくなったね。もう、中学生?」
「うん……」
たったそれだけの会話なのに、時間が逆戻りしていくようだった。
「撮影、あとちょっとで終わるから……よかったら、あとで少しだけ話そうか」
それは夢みたいで――でも、ちゃんと現実だった。
【17cmの恋心】
第4話 17cmの答え
カフェのテラス席。撮影が終わった守は、スタッフに軽く頭を下げたあと、希美の方へゆっくりと歩いてきた。
「待たせちゃったね」
「……ううん、大丈夫」
沈黙が一瞬だけ降りたけど、どこか懐かしい間だった。
「変わってないね、のぞみ」
「そうかな。……背は伸びたよ」
冗談まじりで言うと、守は少し笑った。
「そっか。……何センチになった?」
「えーっと、158」
「じゃあ……」
守が立ち上がって、目線を合わせるように軽く身をかがめた。
「今の俺と、17センチ差だ」
その言葉に、希美の心が跳ねた。
17cm――。ずっと、彼が遠くなってしまった気がしていた“距離”。
「……覚えてるんだ、わたしのこと」
「忘れられるわけないよ。あのときの“ありがとう”、ちゃんと届いてたから」
そう言った守のまなざしは、大人びてるのに、あの雨の日と同じだった。
「……いま、もう“好き”とか言っちゃいけないんだって、自分に言い聞かせてたんだよ。ずっと」
ぽろりと出た本音。言ってしまってから、希美は焦った。けど、守は笑わなかった。
「俺も思ってた。……“届いちゃいけない”って。でもさ、届いてたよ、ちゃんと」
春の風が、ふたりの前髪をそっと揺らした。
「のぞみ。俺、また……話せてよかった」
「あのときより、もっと好きかもしれない」
声が、小さかった。でも、それは自分の言葉だった。
「……ありがと」
その日、心の中の“恋心”が、もう“いまの気持ち”になった気がした。
【17cmの恋心】
第5話 未来に名前をつけるなら
あの日の再会から数日。
希美の中に、あたたかい何かが残っていた。風の匂い、守くんの声、そして目が合ったときの胸の高鳴り。
けれど、日常は変わらず続いていく。中間テスト、部活、友だちとのおしゃべり。守くんとの再会は、夢みたいに日々に溶けていった。
そんなある夜。スマホに知らない番号から着信があった。
「……もしもし?」
『のぞみ? 俺。春海守。』
心臓がひっくり返るかと思った。
「え、なんで番号……?」
『お母さんから。そっちの家、引っ越してからも年賀状だけは送ってたって。』
思わず笑ってしまった。
『あのさ――実は、来月ドラマの最終回の収録があって。それで……』
一瞬、守の声がかすかにためらった。
『観覧席に、のぞみ、来てくれないかな?』
「……わたしで、いいの?」
『うん。俺が、ちゃんと伝えたいことがあるから。』
その日、部屋に飾ってあった“傘”のキーホルダーを、希美は手に取った。
17cmなんて、今のわたしたちには関係ない。
大人も子どもも関係ない。
この気持ちは――いまの私が持っている“いちばん本当の気持ち”だ。
【17cmの恋心】
最終話 そして、となりに。
テレビ局のスタジオ。
ライトがまぶしくて、空気が少しだけ張りつめていた。
観覧席の最前列。希美の手には、守から届いた小さな招待状。
《未来の話をするために、いま会いたい人がいます。》
ドラマのクライマックス。守の演じる主人公が、かつて別れた初恋の相手に言うシーン。
「“好き”って言葉は、今でもあの頃のまんま、俺の中にある。
だから……もう一度、言わせてください。」
テレビなのに、現実のように胸が熱くなった。
収録が終わり、スタッフたちがバラバラと動きはじめたころ。
「のぞみ」
その声に、振り返る。
「ありがとう、来てくれて」
「……お芝居だったのに、泣きそうになった」
「ほんとに伝えたい人を見てたから、かも」
照明が落ちていくスタジオの中で、守は少しだけ迷ったあと――
「ねぇ、のぞみ。
“17cmの恋”って、いつまで恋でいさせるつもり?」
「え?」
「もう、“恋”じゃなくていいと思ってる。
これからは――“となり”に来てくれない?」
言葉の意味をちゃんと受け止めた瞬間、希美はうなずいていた。
昔と同じ笑顔で、でももう少しだけ大人になった声で――
「……うん。“恋”から、始めよう」
【距離じゃなかった。年齢でも、世界の広さでもなかった。
“好き”だと思い続けた気持ちが、いちばん確かなものだった。】
そして今。
彼のとなりを歩く未来に、名前をつけるとしたら――
それは、“17cmの恋心”の、そのつづき。
【17cmの恋心 完結】