紫陽花の短編集物語#2

線香花火が落ちるまでに

第1話 君にだけ聞こえる音

中学3年の7月。
期末テストの帰り道、優依(ゆい)は蒸し暑さに負けて、塾からの帰り道をほんの少し遠回りした。
歩道橋の下。照明もなくて暗いその場所に、小さな光が揺れていた。
「……線香花火?」
優依が思わず声を出すと、しゃがんでいた誰かが顔を上げた。
暗がりの中、かすかに見えたのは、同じ制服を着た男の子だった。
「ごめん、びっくりさせた?」
その声は、どこか静かで落ち着いていて、でも年上のようにも感じた。
「ここ、塾の帰りにいつも通ってるんだ。……君、うちの塾?」
「うん。……でも、クラス違うかも」
「そっか。じゃあ――よかったらちょっとだけ、付き合ってくれる?」
少年は、線香花火をもう一本取り出して、差し出した。
「毎晩、この時間だけ誰かと話すって決めてるんだ。線香花火が落ちるまでの間だけ」
優依は、どこか不思議なその空気に、断ることができなかった。
火花が小さくぱちぱちと弾けて、ゆっくりと落ちていく。
「名前、教えてもいい?」
「……優依。君は?」
「空。そらって書く。そのまま、そらって読む」
不思議な名前。不思議な時間。
でも、誰にも話せなかった期末テストのこととか、親の小さな口ゲンカのこととか、ふと口からこぼれてしまった。
空は、うん、うんって静かに聞いてくれた。
火花が、地面に落ちて、消えた。
「じゃあ、今日はここまで。また明日?」
そう言って、空はにこりと笑った。
その笑顔に、夏の夜風が通り抜けた。
【線香花火が落ちるまでに】








第2話 秘密には色がある

「今日も来たね」
次の日も、そのまた次の日も、優依は塾帰りに歩道橋の下へ向かうようになった。
空は、毎晩ちゃんとそこにいた。
小さなろうそくと、線香花火をいくつか。座る場所のすぐ横には、お気に入りらしいボロボロの文庫本。
「ねえ、毎晩ここにいるの?」
「うん。夏のあいだだけ、って決めてる」
「なんで?」
「んー、“終わりがある方が、思い出になる”って誰かが言ってたから」
なんだか変わった子だな――と、最初は思っていた。
でも、空と話す時間は静かで心地よくて、学校では話せないようなことも自然に口にできた。
「あのさ、空くんって、どこの学校?」
「近くだよ、まぁ。でもあんまり有名じゃない学校」
「ふーん」
それだけの会話なのに、なぜかひっかかる。
近くの中学なら、塾で顔を見たことがあっても良いはずなのに。
でも、そんな不思議をかき消すように、線香花火がはじけた。
小さな火花がぱちぱちと揺れて、優依の頬を淡く照らす。
「きれいだね。色が、燃えるみたい」
「うん。……秘密って、こういう色してる気がする」
「え?」
「静かで、ちょっとさびしくて。でも、誰かが見てくれたら、ちゃんと光る」
その言葉がやけに印象に残って、優依は家に帰ってからも思い出していた。
この人、なんだろう。ただの塾の知り合い……以上のなにかを、わたし、感じはじめてる。
線香花火が落ちて終わるように、毎日の会話はあっという間。
でも、会えない昼間の時間がどんどん長く感じていった
【線香花火が落ちるまでに】








第3話 火種の名前を、まだ知らない

風が少し強くなった夜。優依は駅からの帰り道、線香花火が湿っていないか心配になって歩道橋を急いだ。
「……よかった。今日もいる」
「うん。……ずっと待ってた」
空の声は、少し小さく聞こえた。
風で火が消えないように、ろうそくの炎を手で囲みながら、彼は静かに笑った。
いつもと同じ場所。でも、今日はなぜか少しだけ違う気配があった。
「ねぇ、空くんってさ、本当にこの近くの中学なの?」
「えっ?」
「だって……塾で同じクラスの子たちに聞いても、誰も君のこと知らなくて」
空は一瞬だけ目を伏せた。
「……そっか。まあ、ちょっと変わった事情があってさ」
「事情?」
「んー……まだ言えるほど、ちゃんと話せる自信がなくてさ」
その声は、いつもよりほんの少しだけ震えていた。
「でも、こうして毎晩会ってる時間、俺にとってすごく大事なんだ。
だから、黙ってるのがズルいなら、ごめん」
ズルいなんて思ってなかった。むしろ、その言い方に優依の胸がきゅっとした。
「……わたしも、塾で友だちうまくいかなくてさ、
この場所がすこしだけ“ほんとうの自分”でいられる場所だったよ」
空は、ゆっくり優依を見て笑った。
「じゃあ、似てるかもね。俺たち」
線香花火に火がつく。
火花の揺れは、さっきまでより少し明るく見えた。
この人のこと、もっと知りたい。まだ名前のつかない感情が、心に灯っている。
火種は、まだ小さい。けれど、確かに灯っている。
【線香花火が落ちるまでに】








第4話 終わるって、知ってたのに

七夕の夜。
優依が歩道橋に着いたとき、空はもう線香花火に火をつけていた。
「今日は早いね」
「うん。なんとなく……早く会いたかったんだ」
空の声はどこかいつもより近くて、それだけで胸が少しあたたかくなる。
優依は、そっとカバンから小さな短冊を取り出した。
「ほら、学校で書いたやつ。“いい夏になりますように”って書いたけど……ほんとは、君に会うのが楽しみでさ」
空は驚いた顔をしたあと、少し照れたように笑った。
「俺も。……こうして話せるの、うれしいよ。だけど……夏って、終わるんだよね。ちゃんと、容赦なく」
「うん。でも、それがあるから今が大事なんだと思う」
ふたりで手に持った線香花火が、ぱちぱちと音を立てた。
しばらく黙って見つめる時間。
そして、空がぽつりと言った。
「線香花火って、最後だけ輝くんだよ。“玉”って呼ばれる丸い部分が落ちる寸前に、いちばん光る」
「……うん」
「俺もね、“最後だけちゃんと光れたらいい”って思ってたことがある」
その言葉が心に残った。
【最後?どうして、“最後”って言うの?】
聞きたかったけれど、問いかけることができなかった。
風が吹いて、火花がふわっと揺れた。
「優依って、願いごと叶ったことある?」
「……わかんない。でも、誰かと同じ願いだったら、叶うって信じたい」
空はそれを聞いて、そっと頷いた。
その夜、帰り道の空はやけに深くて、星がやさしくまたたいていた。
優依の中にあった“不安”の火種は、まだ言葉にならないまま揺れていた。
【線香花火が落ちるまでに】








第5話 君の世界に、触れた日

塾が終わったあと、優依はまっすぐ歩道橋へ向かわなかった。
今日こそ、空のことを知りたい。ちゃんと、自分の足で。
制服のまま、スマホで地図を頼りに空が言っていた中学校を探して歩いた。
けれど、どこにも彼の名前はなかった。
「……どういうこと?」
学校の掲示にあった生徒会名簿にも、卒業アルバムにも、“空”という名前はなかった。
夕暮れ。
いつもの場所に行くと、空はそこにいた。
「今日、来ないかと思った」
「……学校、行ってきた。君が言ってたとこ」
空は、何も言わなかった。
「どうして……?」
沈黙のあと、線香花火にそっと火をつけながら、空が言った。
「……ねぇ、優依。君が笑ってくれた日、俺ほんとに嬉しかったんだ」
「空くん……」
「ほんとはね、俺、もうこの町にはいないんだ。1年前に……事故で、ここで――」
優依の心臓が、一瞬止まったような気がした。
「でも、どうして……今、ここに?」
「わかんない。でも、君がここで落ち込んでたとき、ふと見えたんだ。
“ああ、この子の話を聞いてあげたい”って思った」
「……夢、じゃないの?」
「かも。でも、君に会えてよかった。ちゃんと、生きてる人と話すって、温かいね」
優依は、ただうなずくしかできなかった。
火花が小さく揺れて、ふたりの手を照らしていた。
【このひと、ほんとうに、世界にいないの……?
でも、こんなに、ちゃんとここにいるのに――】
空がそっと笑う。その目が、少しだけ寂しかった。
「あと一晩だけ。…明日の夜、またここで、最後の線香花火。
そしたら、俺は――ちゃんと、行くから」
【線香花火が落ちるまでに】




第6話 さよならの手前で

歩道橋の下に、空の姿はもうなかった。
ろうそくの灯りだけが、小さくゆらいでいた。
「……空くん?」
静寂。夜の音しか聞こえない。
ポケットの中の線香花火を、優依はそっと取り出した。
ひとりで火をつけるのは、初めてだった。
ぱち、ぱち、
細く光る火花が、闇の中でじっと揺れた。
そのとき――
「優依」
ふわりと風が吹いて、声が重なった。
振り返ると、そこに空がいた。白いシャツ。細く光る笑顔。
まるで、今にも消えてしまいそうなのに、ちゃんと“ここ”にいた。
「最後、約束通り来たよ」
「……うん。わたしも、最後まで灯したくて」
空は優しく笑った。
「ひとつだけお願いがあるんだ。
線香花火が落ちるまで、手、つないでてもいい?」
優依はそっと手を伸ばした。
指先が触れたとたん、心の奥まであたたかくなった。
ふたりは黙って、落ちる火花を見つめた。
「空くん。わたし――この夏のこと、ずっと覚えてる」
「そう言ってくれて、よかった」
「大丈夫。これから、いろんな季節をちゃんと生きていくから。
空くんの分まで、ちゃんと」
空が微笑む。それは、どんな言葉よりも透明な“ありがとう”だった。
ぱち、ぱち……火花が最後のひとしずくを落とす瞬間。
「――さよなら、じゃないよね?」
優依の問いに、空はうなずいた。
「うん。“またね”だよ」
次の瞬間、風が吹いて――空の姿はもう、そこになかった。でも、手の中には確かに残っていた。
ぬくもりの気配と、火花の跡のように灯った“思い出”。
優依は空を見送った場所に、そっと短冊を結んだ。“あなたに出会えて、よかった。”とかいた、短冊を。
【線香花火が落ちるまでに 完結】
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