紫陽花の短編集物語#2
この世界で一番、君だけがすき。
第1話 ふたりの「特別」が重なった日
新学期の朝、菜月は昇降口でひとり、鍵盤ハーモニカの袋を持って立っていた。
ピアノの練習がある日は、陽太がいつも迎えにきてくれるはずなのに、今日はなぜか来ない。
語り≪菜月は高校2年生。陽太とは、菜月の幼馴染です!≫
「……置いてかれた」
小さくつぶやいたその声に反応したのは――
「きみ、菜月さんだよね? 転校してきた遥です」
突然声をかけてきたのは、柔らかく微笑む制服姿の男子。
伸びたまつげと整った顔立ち。明らかに“目立つタイプ”。
「……えっと、あの」
「さっき音楽室でピアノ弾いてたの、きみ?」
菜月が小さくうなずくと、遥の表情がふっと変わった。
「……すごく綺麗だった。なんていうか、心に触れた感じ」
「えっ……」
初対面の相手にそんなこと言われて、菜月は完全にテンパった。
そこへ――。
「おーい、菜月ー!待った?」
今さらやってきた陽太。いつもより少し息を切らしている。
「ごめん、寝癖直してたら遅れた。……で、誰、この人?」
遥と陽太、静かに目が合う。
「僕は遥。今日からこの学校に来た。君は?」
「陽太。菜月とは、幼なじみ。……で?」
「……で?」
火花が、無音で散った気がした。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第2話 鍵盤のとなり、君のとなり
「じゃ、今日はここまで。ピアノ室、自由に使っていいよ」
昼休み、菜月は音楽の先生からそう声をかけられて、廊下でうれしそうにお礼を言った。
ドアを開けると――すでに誰かがピアノの前に座っていた。
「やっぱり、来た」
遥だった。
「菜月さん、昨日のピアノ……本当に忘れられなくて。
ごめん、待ち伏せみたいで」
そう言って笑う彼の視線はまっすぐで、少しずるいくらいにやさしい。
「少しだけ……隣、いいかな?」
「え……うん、いいけど……」
ふたりで弾くピアノの音。
いつもは独りで紡ぐ旋律が、今日はまるで心に触れてくる。
そこへ――ガラッ!
「……なにしてるの?」
陽太が教室のドアを乱暴に開けた。
「なつき、ピアノ室って……ふたりきり?」
「いや、別に……今ちょうど……」
「なんだ、タイミングよかった」
陽太は遥と菜月の間にずずいと割り込んで、ピアノの椅子の隙間に座り込む。
「さっきLINEしたの、見てくれてないからさ。心配だった」
遥の表情が少しだけ曇った。
「……もしかして、おふたりは付き合ってるの?」
「えっ⁉ ち、ちが――」
「違うけど」
陽太の答えは早かった。そしてその直後に、淡々とした顔でこう言った。
「でも、“誰にも渡す気はない”ってことだけは、昔から決めてる」
遥の笑みが一瞬止まる。
菜月はその場の空気がピリッと変わったことに、ようやく気づく。
わたしって、ただのクラスメイト……だよね?
けれど、それぞれのまなざしははっきりと彼女を捉えていた。
“君は、俺だけのヒロインでいてほしい”
“その音が誰にも届かないようにしてしまいたい”
ふたりの想いが、静かに火を灯し始める――。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第3話 片方だけを見るその横顔が、ずるい
放課後。校門を出たところで、菜月は誰かに肩をポンと叩かれた。
「よかった、間に合った」
遥だった。陽太は部活で少し遅れると聞いていた。
「ねえ、今日……一緒に帰らない?」
「えっ」
「あ、だめだった?」
「いや、いいけど……」
遥はふわっと笑って、歩道の端をゆっくりと歩く。通り過ぎる生徒たちの視線が、自然とふたりに集まっていた。
「……なんだか目立つね」
「だよね。ごめん。でも気にしないで。今日くらい、君をひとりじめしたいって思ったんだ」
その言葉に、菜月の心臓がドクンと跳ねた。
遥は途中でコンビニに寄って、ペットボトルの紅茶を買った。それを開けて、言う。
「たとえばさ。菜月さんって、誰かに“特別”だって言われたことある?」
「……ない、かも」
「じゃあ――」
彼はボトルを差し出して、微笑む。
「俺が言うよ。菜月さんは、俺にとって特別。もっと知りたい、って思わせる人」
その瞬間。
後ろから声が飛んだ。
「……へえ。結構距離近いんだな」
振り返ると、息を切らした陽太が立っていた。
「陽太……」
「ってか、連絡くれてもよかったのに。まさか、遥くんと“ふたりで下校中”だったとは」
「えっ、そ、それは……」
「ま、いいけど。でも……」
陽太は遥を見て、すっと目を細めた。
「君、俺の“特別”に、あんまり触れないでくれる?」
遥の笑顔が一瞬止まった。
ふたりの間に流れる空気に、菜月は一歩下がりそうになる。
それでも――自分の手の中に残った紅茶のぬくもりが、遥の言葉を思い出させた。
わたしは、誰かの“特別”なんだろうか。
まだ名前のない、その感情だけが胸の中で静かに育っていく。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第4話 譲れないのは、“たったひとり”だけ
夕方の空気が少し冷たくなり始めたころ。
音楽室の隅。陽太はピアノの椅子に浅く腰かけ、無言で鍵盤を見つめていた。
ドアの開く音。ゆっくりと入ってきたのは――遥。
「……やっぱり、来たんだね」
「そっちこそ。まさか“わざわざ鍵”借りてまで、先回りとは思わなかったけど」
張り付くような静寂の中、ふたりの視線が真っ直ぐ交差する。
「俺、昔からここが好きでさ。菜月のピアノの音、いつもこの位置で聞いてきた」
「知ってるよ。菜月さん、よく“陽太とここで弾いた”って言ってたから」
遥の声は静か。でも瞳は、まるで挑むような色を浮かべていた。
「だからこそ……もう、見ていられないと思った」
「……あ?」
「“彼女の当たり前の場所”が、君のもので染まってることが」
陽太がゆっくり立ち上がる。
「悪いけど。俺にとっては、菜月は“誰よりも先に出会った人”なんだよ」
「それは時間じゃない。“心の近さ”で決まるでしょ」
ピリッ、と空気が張り詰める。
「じゃあ、聞くけど――お前は菜月の涙を、どれだけ見た?」
「……見てない」
「俺はある。見せたくて見せたんじゃない。でも、“何も言わなくても、横にいてくれた”日々があったんだ」
遥は一瞬目を伏せる。けれど、すぐに顔を上げる。
「それでも。俺の前でも、彼女は“ちゃんと笑ってくれてた”」
ふたりとも、一歩も引かない。
ただ真ん中にいるはずの菜月は、この空気をまだ何も知らない。
そして、陽太がふっと笑った。
「……いいじゃん。“どっちが本気か”、これから証明すりゃ」
遥も、ゆっくりとうなずいた。
「それなら、望むところ」
音楽室に、ふたつの呼吸だけが響いていた。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第5話 その手が触れた場所が、熱を持つ
中間テスト前。放課後の図書室には静かな空気が流れていた。
「わかんないとこ、教えてやるから」
陽太はお菓子片手に参考書を持ってきて、隣にドカッと座る。
「……ねえ、ここでお菓子ってだめじゃない?」
「静かに食べればバレないって。俺、ずっとここ使ってるし」
それを遠くから見ていた遥は、ゆっくりと近づいてきた。
「……菜月さん。こっちの席、空いてるよ」
「あっ……うん」
菜月が立ち上がろうとすると――陽太が手を伸ばして、彼女の袖を軽くつかんだ。
「……別にこっちでいいだろ?」
「べつに、とは思えないけど。見てた限り、まともに解けてなかったし」
遥の口調はいつも通りやわらかだけど、目が笑っていない。
「は?ちゃんと教えてたけど?」
「“教えてる”んじゃなくて、“口実に近づいてる”んでしょ」
「はあ⁉ おまえこそ、“距離近すぎ”」
ぱちっ。菜月の中で、何かが弾けた。
「……ねえ、2人とも。私のこと、なんだと思ってるの?」
ふたりが一瞬黙る。
「こっちだって、混乱してるの。突然こんなふうに優しくされても、どうしたらいいか――」
その言葉に、陽太がそっと顔を上げた。
「……ごめん。でも、俺は――ずっと、菜月が好きだよ。“好き”ってこと以外、何も混乱してない」
遥も、ゆっくりと目を閉じたあと、言葉を紡ぐ。
「俺も。音で惹かれたのか、笑顔で惹かれたのか、わかんないくらい全部好き」
菜月の心が、ゆっくりと脈打つ。
ふたりが、私を“好きだ”って言ってる――。
そして、ドアの向こうから“次のテスト予告”のチャイムが鳴る。
その音が、ひとまずの幕を引いた。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第6話 はじめて、“ヒロイン”と呼ばれた日
文化祭の準備が本格的にはじまった。クラスの出し物は演劇。まさかのラブストーリー。
「で、ヒロインは――菜月?」
担任の発表に、ざわつく教室。
「わ、わたし⁉ む、無理だよぉ!」
「でもさ、ピアノもできるし、雰囲気ぴったりじゃん」
生徒たちの声にのまれるように、菜月はうなずいてしまった。
そこから、“ヒロイン争奪戦”は静かに始まった。
舞台練習の日。
陽太が早速、練習台本を持って駆け寄ってきた。
「なつき、練習するなら俺と組まない?」
「え、でも配役まだ決まってないって――」
「いいじゃん。“イメトレ”ってことで。ヒロインに慣れさせてやるよ」
満面の笑み。けど、どこか独占欲の匂いがした。
そのとき――遥が背後から登場。
「だったら僕は、“ヒーロー役”に立候補するよ。ヒロインを守る王子様、ちょうどやってみたかったところ」
陽太がピタリと動きを止めた。
「おまえ、それ本気で言ってんの?」
「当然。“誰かの隣に立つ役”は、ちゃんと選びたいから」
ピリリッ――火花。そして、どこからともなく先生の声。
「ヒーロー役は、陽太・遥でオーディション形式にします」
教室中が沸く。でも菜月だけは、座ったまま動けなかった。
演技って、こんなに本気の空気なの……? いや、これ演技じゃない。ぜんぶ“素”の感情がぶつかってるー。
放課後。廊下の隅で、陽太がぽつりとつぶやいた。
「ヒロインなんて言われなくても、おまえは俺にとって、ずっと“主人公”だったけどな」
――その視線の熱に、胸がドクンと脈打つ。
同じ頃、遥は楽譜室でひとり、菜月のパートだけが書かれた脚本を見つめていた。
「……“主役”って言葉、こんなに羨ましいと思ったの、初めてかも」
【この世界で一番、君だけがすき。】
第7話 その役に、ほんとうの想いをのせるなら
「キスシーン……⁉」
放課後のホームルーム。演出担当の子が台本を読み上げた瞬間、教室がざわめく。
「だってさ、せっかく“恋愛劇”なんだからさ! ヒロインが王子様にキスされる展開、王道でしょ〜!」
「で、その“王子様役”って……」
みんなの視線が、陽太と遥のふたりに集中する。
「当然、オーディションで勝ったほうがやるってことでしょ?」
菜月は顔を真っ赤にして、教壇の影に隠れる。
「ま、待って、それはちょっと……っ」
でもふたりの男子は――顔色ひとつ変えなかった。
翌日。演技練習会。
菜月は、簡易ステージの上に立っていた。その前に立つのは、陽太。
「……じゃ、セリフ合わせ、いくよ」
「うん……」
緊張でぎこちない菜月の手を、陽太がそっと取った。
「“怖がんなって。これは演技だし……俺がちゃんと支えるから”」
「……!」
その視線が、“役”じゃなくて“本気”なのを、菜月だけが知っていた。
「カットー!」
先生の声で止められる。練習中、教室の奥でそれをじっと見つめていた遥が、立ち上がる。
「次、僕でもやっていいかな」
陽太が一瞬だけ睨むような視線を投げたが――遥は、ひるまなかった。
「失礼します」
ステージに上がると、遥はふっと微笑んで、菜月の手を取った。
「“君がそばにいてくれるなら、どんな運命でも怖くない”。“だから……目を閉じて”」
菜月の頬がまた真っ赤になる。距離、ゼロ。なのに、空気はふしぎと柔らかい。
その瞬間、陽太が立ち上がった。
「……あのさ。“誰かを本当に想ってるなら、演技なんかで奪わなくても伝わるだろ”」
遥は笑みを崩さなかった。
「それでも、“演技の先”まで届かせたいと思うほど、好きになったんだよ、俺は」
バチッ。火花、再点火。
菜月はというと――思考停止中。
ちょ、ちょっと待って⁉ これ、演劇部の練習ってレベルじゃなくない⁉
【この世界で一番、君だけがすき。】
第8話 主役のキスが、本気だったらどうする?
文化祭当日。
ステージ袖で、菜月は緊張で小刻みに肩を震わせていた。
「だ、大丈夫かな。私……練習のときもセリフかみそうだったし……」
控室では、陽太と遥がそれぞれ衣装に身を包み、ただ黙々と出番を待っていた。
クラスメイト:「ヒロイン役のとこ、マジ注目だよな~! どっちのキス演技が本命っぽいかで勝負決まりそう!」
――その言葉に、陽太と遥の目が静かに交差する。
菜月(ステージ裏):「ちょ、ちょっと⁉ まさかキスのとこ、カットになってないの⁉」
「……演出さんが、“観客の記憶に残る演劇にしたい”って言ってた」
と、遥がそっと耳打ち。
「俺としても……カットは困るな」
「意味深なこと言わないで〜~〜〜‼‼」
ステージに呼ばれる直前、陽太は小さく声をかけた。
「菜月、ちゃんと俺の目、見ろ。大丈夫。
ずっとそばにいたんだ。お前がヒロインになるなんて、わかってたよ」
それは、“演技”じゃない視線だった。
そして、本番。
観客席は満員。クラスメイトたちも期待でざわめく。
舞台上――菜月の手をとって「ヒロインを救う王子様」を演じるのは、オーディションで選ばれた……遥。
「“君が生きてるだけで、俺はもう戦えるんだ”。“……だから、どうか”」
台本にはなかった――でも遥は静かに、菜月の額にキスを落とした。
ざわめく観客。
息を呑む菜月。
そのとき。袖の奥で、陽太が台本をぐしゃっと握りしめた。
「……やっぱ、黙ってられねぇわ」
舞台裏へと走り出す陽太。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第9話 それはセリフなんかじゃなくて
遥の額キスが起こした、会場のざわめき。
舞台裏で立ち尽くしていた陽太は、その瞬間――走り出した。
「すみません、シーン変更します!」
演出席がざわつく中、陽太は舞台に飛び込む。
遥「……陽太くん?」
陽太はステージ中央の菜月の前で、ぴたりと止まる。
息が荒い。だけどその目は、ちゃんと“演技”の中にあった。
「“待ってろよ。お前が誰に口づけされようと――お前を迎えに来るのは、俺なんだから”」
遥:「……!」
ザワッと客席がどよめく。それでも陽太は止まらない。
「“この役がヒーローでも、俺の世界じゃ、菜月がヒロインなんだから”」
客席は静まり返る。遥がそっと言う。
「……“そのセリフ、台本にないけど”」
陽太はうなずく。
「“悪い。でも、言わなきゃ後悔するって思った”」
それを聞いた遥の視線が、すっとやわらかくなった。そして、自分の役のセリフに戻っていく。
「“それなら……ヒロインの選択は、もうわかってるはずだよな”」
ふたりの視線が、菜月に向く。
ライトの熱。
観客の沈黙。
脚本にないセリフたち。
けれど、菜月の心の中には、たったひとつの言葉が浮かんでいた。
これは――“演技”じゃない。
自分のためだけに投げられた、ずるくて、やさしくて、まっすぐな気持ち。
【この世界で一番、君だけがすき。】
最終話 好きの続きを、生きていく。
文化祭ステージの終演後。拍手喝采の中、幕が降りる直前――
菜月の目には、遥の笑顔と陽太の背中が焼きついていた。
楽屋に戻ると、クラスメイトたちが盛大に盛り上がる中で、遥と陽太の姿だけが見えなかった。
「……どこ行ったのかな」
着替えを済ませ、ひとり校舎の裏にまわると、そこにいたのは――遥。そして陽太。
ふたりとも、制服に着替えて立っていた。そして、同じタイミングで彼女に気づいた。
「菜月さん」
「……なつき」
ふたりの声が、重なる。 沈黙が落ちた後――遥が一歩、前に出た。
「俺さ、転校してきてからあまり感情を表に出さないようにしてたんだ。でも、菜月さんの音を聞いて、気づいた。
“誰かを好きになるって、息ができなくなるくらい自然なことなんだ”って」
「俺はずっと傍にいた。気持ちもずっと前から知ってた。なのに、今みたいにドキドキするなんて思わなかった」
遥:「俺も本気だった。けど、どちらかひとりしか“君の隣”には立てない」
陽太:「菜月の答え、ちゃんと聞かせて」
菜月は、強く指を組んだ。
「……ふたりとも、わたしを“誰か”じゃなく“わたし”として見てくれて、ありがとう」
ゆっくりと、陽太の方へ一歩、足を進める。
「わたしは、陽太といると――日常の中が宝物になる」
陽太の目が、ゆっくりと潤んだ。遥は、静かに口角を上げて、そして――
「そっか。……選ばれなかったとしても、君を好きだった時間に悔いはない」
そのまま、風に髪を揺らして笑った。
「ありがとう、菜月さん。俺、あの演奏――、一生忘れないと思う」
陽太:「遥……」
遥:「あとは託す。ちゃんと、幸せにして」
そう言って、遥は歩き去っていった。背中には未練も悔しさも、でも確かに“想い”が詰まっていた。
ふたりきりになった後、陽太がぽつんと。
「……ほんとに、俺でよかった?」
菜月はうなずいた。
「陽太じゃなきゃ、ダメだった」
陽太は笑って、額をコツンとくっつける。
「よっしゃ。じゃあ、この先の物語は――全部“ふたりきり”で書いてこうぜ」
菜月も、小さく笑った。
“この世界で一番、君だけがすき。”その言葉が、わたしの胸のいちばん深いところで、確かに響いてる
【この世界で一番、君だけがすき。 完結】
新学期の朝、菜月は昇降口でひとり、鍵盤ハーモニカの袋を持って立っていた。
ピアノの練習がある日は、陽太がいつも迎えにきてくれるはずなのに、今日はなぜか来ない。
語り≪菜月は高校2年生。陽太とは、菜月の幼馴染です!≫
「……置いてかれた」
小さくつぶやいたその声に反応したのは――
「きみ、菜月さんだよね? 転校してきた遥です」
突然声をかけてきたのは、柔らかく微笑む制服姿の男子。
伸びたまつげと整った顔立ち。明らかに“目立つタイプ”。
「……えっと、あの」
「さっき音楽室でピアノ弾いてたの、きみ?」
菜月が小さくうなずくと、遥の表情がふっと変わった。
「……すごく綺麗だった。なんていうか、心に触れた感じ」
「えっ……」
初対面の相手にそんなこと言われて、菜月は完全にテンパった。
そこへ――。
「おーい、菜月ー!待った?」
今さらやってきた陽太。いつもより少し息を切らしている。
「ごめん、寝癖直してたら遅れた。……で、誰、この人?」
遥と陽太、静かに目が合う。
「僕は遥。今日からこの学校に来た。君は?」
「陽太。菜月とは、幼なじみ。……で?」
「……で?」
火花が、無音で散った気がした。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第2話 鍵盤のとなり、君のとなり
「じゃ、今日はここまで。ピアノ室、自由に使っていいよ」
昼休み、菜月は音楽の先生からそう声をかけられて、廊下でうれしそうにお礼を言った。
ドアを開けると――すでに誰かがピアノの前に座っていた。
「やっぱり、来た」
遥だった。
「菜月さん、昨日のピアノ……本当に忘れられなくて。
ごめん、待ち伏せみたいで」
そう言って笑う彼の視線はまっすぐで、少しずるいくらいにやさしい。
「少しだけ……隣、いいかな?」
「え……うん、いいけど……」
ふたりで弾くピアノの音。
いつもは独りで紡ぐ旋律が、今日はまるで心に触れてくる。
そこへ――ガラッ!
「……なにしてるの?」
陽太が教室のドアを乱暴に開けた。
「なつき、ピアノ室って……ふたりきり?」
「いや、別に……今ちょうど……」
「なんだ、タイミングよかった」
陽太は遥と菜月の間にずずいと割り込んで、ピアノの椅子の隙間に座り込む。
「さっきLINEしたの、見てくれてないからさ。心配だった」
遥の表情が少しだけ曇った。
「……もしかして、おふたりは付き合ってるの?」
「えっ⁉ ち、ちが――」
「違うけど」
陽太の答えは早かった。そしてその直後に、淡々とした顔でこう言った。
「でも、“誰にも渡す気はない”ってことだけは、昔から決めてる」
遥の笑みが一瞬止まる。
菜月はその場の空気がピリッと変わったことに、ようやく気づく。
わたしって、ただのクラスメイト……だよね?
けれど、それぞれのまなざしははっきりと彼女を捉えていた。
“君は、俺だけのヒロインでいてほしい”
“その音が誰にも届かないようにしてしまいたい”
ふたりの想いが、静かに火を灯し始める――。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第3話 片方だけを見るその横顔が、ずるい
放課後。校門を出たところで、菜月は誰かに肩をポンと叩かれた。
「よかった、間に合った」
遥だった。陽太は部活で少し遅れると聞いていた。
「ねえ、今日……一緒に帰らない?」
「えっ」
「あ、だめだった?」
「いや、いいけど……」
遥はふわっと笑って、歩道の端をゆっくりと歩く。通り過ぎる生徒たちの視線が、自然とふたりに集まっていた。
「……なんだか目立つね」
「だよね。ごめん。でも気にしないで。今日くらい、君をひとりじめしたいって思ったんだ」
その言葉に、菜月の心臓がドクンと跳ねた。
遥は途中でコンビニに寄って、ペットボトルの紅茶を買った。それを開けて、言う。
「たとえばさ。菜月さんって、誰かに“特別”だって言われたことある?」
「……ない、かも」
「じゃあ――」
彼はボトルを差し出して、微笑む。
「俺が言うよ。菜月さんは、俺にとって特別。もっと知りたい、って思わせる人」
その瞬間。
後ろから声が飛んだ。
「……へえ。結構距離近いんだな」
振り返ると、息を切らした陽太が立っていた。
「陽太……」
「ってか、連絡くれてもよかったのに。まさか、遥くんと“ふたりで下校中”だったとは」
「えっ、そ、それは……」
「ま、いいけど。でも……」
陽太は遥を見て、すっと目を細めた。
「君、俺の“特別”に、あんまり触れないでくれる?」
遥の笑顔が一瞬止まった。
ふたりの間に流れる空気に、菜月は一歩下がりそうになる。
それでも――自分の手の中に残った紅茶のぬくもりが、遥の言葉を思い出させた。
わたしは、誰かの“特別”なんだろうか。
まだ名前のない、その感情だけが胸の中で静かに育っていく。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第4話 譲れないのは、“たったひとり”だけ
夕方の空気が少し冷たくなり始めたころ。
音楽室の隅。陽太はピアノの椅子に浅く腰かけ、無言で鍵盤を見つめていた。
ドアの開く音。ゆっくりと入ってきたのは――遥。
「……やっぱり、来たんだね」
「そっちこそ。まさか“わざわざ鍵”借りてまで、先回りとは思わなかったけど」
張り付くような静寂の中、ふたりの視線が真っ直ぐ交差する。
「俺、昔からここが好きでさ。菜月のピアノの音、いつもこの位置で聞いてきた」
「知ってるよ。菜月さん、よく“陽太とここで弾いた”って言ってたから」
遥の声は静か。でも瞳は、まるで挑むような色を浮かべていた。
「だからこそ……もう、見ていられないと思った」
「……あ?」
「“彼女の当たり前の場所”が、君のもので染まってることが」
陽太がゆっくり立ち上がる。
「悪いけど。俺にとっては、菜月は“誰よりも先に出会った人”なんだよ」
「それは時間じゃない。“心の近さ”で決まるでしょ」
ピリッ、と空気が張り詰める。
「じゃあ、聞くけど――お前は菜月の涙を、どれだけ見た?」
「……見てない」
「俺はある。見せたくて見せたんじゃない。でも、“何も言わなくても、横にいてくれた”日々があったんだ」
遥は一瞬目を伏せる。けれど、すぐに顔を上げる。
「それでも。俺の前でも、彼女は“ちゃんと笑ってくれてた”」
ふたりとも、一歩も引かない。
ただ真ん中にいるはずの菜月は、この空気をまだ何も知らない。
そして、陽太がふっと笑った。
「……いいじゃん。“どっちが本気か”、これから証明すりゃ」
遥も、ゆっくりとうなずいた。
「それなら、望むところ」
音楽室に、ふたつの呼吸だけが響いていた。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第5話 その手が触れた場所が、熱を持つ
中間テスト前。放課後の図書室には静かな空気が流れていた。
「わかんないとこ、教えてやるから」
陽太はお菓子片手に参考書を持ってきて、隣にドカッと座る。
「……ねえ、ここでお菓子ってだめじゃない?」
「静かに食べればバレないって。俺、ずっとここ使ってるし」
それを遠くから見ていた遥は、ゆっくりと近づいてきた。
「……菜月さん。こっちの席、空いてるよ」
「あっ……うん」
菜月が立ち上がろうとすると――陽太が手を伸ばして、彼女の袖を軽くつかんだ。
「……別にこっちでいいだろ?」
「べつに、とは思えないけど。見てた限り、まともに解けてなかったし」
遥の口調はいつも通りやわらかだけど、目が笑っていない。
「は?ちゃんと教えてたけど?」
「“教えてる”んじゃなくて、“口実に近づいてる”んでしょ」
「はあ⁉ おまえこそ、“距離近すぎ”」
ぱちっ。菜月の中で、何かが弾けた。
「……ねえ、2人とも。私のこと、なんだと思ってるの?」
ふたりが一瞬黙る。
「こっちだって、混乱してるの。突然こんなふうに優しくされても、どうしたらいいか――」
その言葉に、陽太がそっと顔を上げた。
「……ごめん。でも、俺は――ずっと、菜月が好きだよ。“好き”ってこと以外、何も混乱してない」
遥も、ゆっくりと目を閉じたあと、言葉を紡ぐ。
「俺も。音で惹かれたのか、笑顔で惹かれたのか、わかんないくらい全部好き」
菜月の心が、ゆっくりと脈打つ。
ふたりが、私を“好きだ”って言ってる――。
そして、ドアの向こうから“次のテスト予告”のチャイムが鳴る。
その音が、ひとまずの幕を引いた。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第6話 はじめて、“ヒロイン”と呼ばれた日
文化祭の準備が本格的にはじまった。クラスの出し物は演劇。まさかのラブストーリー。
「で、ヒロインは――菜月?」
担任の発表に、ざわつく教室。
「わ、わたし⁉ む、無理だよぉ!」
「でもさ、ピアノもできるし、雰囲気ぴったりじゃん」
生徒たちの声にのまれるように、菜月はうなずいてしまった。
そこから、“ヒロイン争奪戦”は静かに始まった。
舞台練習の日。
陽太が早速、練習台本を持って駆け寄ってきた。
「なつき、練習するなら俺と組まない?」
「え、でも配役まだ決まってないって――」
「いいじゃん。“イメトレ”ってことで。ヒロインに慣れさせてやるよ」
満面の笑み。けど、どこか独占欲の匂いがした。
そのとき――遥が背後から登場。
「だったら僕は、“ヒーロー役”に立候補するよ。ヒロインを守る王子様、ちょうどやってみたかったところ」
陽太がピタリと動きを止めた。
「おまえ、それ本気で言ってんの?」
「当然。“誰かの隣に立つ役”は、ちゃんと選びたいから」
ピリリッ――火花。そして、どこからともなく先生の声。
「ヒーロー役は、陽太・遥でオーディション形式にします」
教室中が沸く。でも菜月だけは、座ったまま動けなかった。
演技って、こんなに本気の空気なの……? いや、これ演技じゃない。ぜんぶ“素”の感情がぶつかってるー。
放課後。廊下の隅で、陽太がぽつりとつぶやいた。
「ヒロインなんて言われなくても、おまえは俺にとって、ずっと“主人公”だったけどな」
――その視線の熱に、胸がドクンと脈打つ。
同じ頃、遥は楽譜室でひとり、菜月のパートだけが書かれた脚本を見つめていた。
「……“主役”って言葉、こんなに羨ましいと思ったの、初めてかも」
【この世界で一番、君だけがすき。】
第7話 その役に、ほんとうの想いをのせるなら
「キスシーン……⁉」
放課後のホームルーム。演出担当の子が台本を読み上げた瞬間、教室がざわめく。
「だってさ、せっかく“恋愛劇”なんだからさ! ヒロインが王子様にキスされる展開、王道でしょ〜!」
「で、その“王子様役”って……」
みんなの視線が、陽太と遥のふたりに集中する。
「当然、オーディションで勝ったほうがやるってことでしょ?」
菜月は顔を真っ赤にして、教壇の影に隠れる。
「ま、待って、それはちょっと……っ」
でもふたりの男子は――顔色ひとつ変えなかった。
翌日。演技練習会。
菜月は、簡易ステージの上に立っていた。その前に立つのは、陽太。
「……じゃ、セリフ合わせ、いくよ」
「うん……」
緊張でぎこちない菜月の手を、陽太がそっと取った。
「“怖がんなって。これは演技だし……俺がちゃんと支えるから”」
「……!」
その視線が、“役”じゃなくて“本気”なのを、菜月だけが知っていた。
「カットー!」
先生の声で止められる。練習中、教室の奥でそれをじっと見つめていた遥が、立ち上がる。
「次、僕でもやっていいかな」
陽太が一瞬だけ睨むような視線を投げたが――遥は、ひるまなかった。
「失礼します」
ステージに上がると、遥はふっと微笑んで、菜月の手を取った。
「“君がそばにいてくれるなら、どんな運命でも怖くない”。“だから……目を閉じて”」
菜月の頬がまた真っ赤になる。距離、ゼロ。なのに、空気はふしぎと柔らかい。
その瞬間、陽太が立ち上がった。
「……あのさ。“誰かを本当に想ってるなら、演技なんかで奪わなくても伝わるだろ”」
遥は笑みを崩さなかった。
「それでも、“演技の先”まで届かせたいと思うほど、好きになったんだよ、俺は」
バチッ。火花、再点火。
菜月はというと――思考停止中。
ちょ、ちょっと待って⁉ これ、演劇部の練習ってレベルじゃなくない⁉
【この世界で一番、君だけがすき。】
第8話 主役のキスが、本気だったらどうする?
文化祭当日。
ステージ袖で、菜月は緊張で小刻みに肩を震わせていた。
「だ、大丈夫かな。私……練習のときもセリフかみそうだったし……」
控室では、陽太と遥がそれぞれ衣装に身を包み、ただ黙々と出番を待っていた。
クラスメイト:「ヒロイン役のとこ、マジ注目だよな~! どっちのキス演技が本命っぽいかで勝負決まりそう!」
――その言葉に、陽太と遥の目が静かに交差する。
菜月(ステージ裏):「ちょ、ちょっと⁉ まさかキスのとこ、カットになってないの⁉」
「……演出さんが、“観客の記憶に残る演劇にしたい”って言ってた」
と、遥がそっと耳打ち。
「俺としても……カットは困るな」
「意味深なこと言わないで〜~〜〜‼‼」
ステージに呼ばれる直前、陽太は小さく声をかけた。
「菜月、ちゃんと俺の目、見ろ。大丈夫。
ずっとそばにいたんだ。お前がヒロインになるなんて、わかってたよ」
それは、“演技”じゃない視線だった。
そして、本番。
観客席は満員。クラスメイトたちも期待でざわめく。
舞台上――菜月の手をとって「ヒロインを救う王子様」を演じるのは、オーディションで選ばれた……遥。
「“君が生きてるだけで、俺はもう戦えるんだ”。“……だから、どうか”」
台本にはなかった――でも遥は静かに、菜月の額にキスを落とした。
ざわめく観客。
息を呑む菜月。
そのとき。袖の奥で、陽太が台本をぐしゃっと握りしめた。
「……やっぱ、黙ってられねぇわ」
舞台裏へと走り出す陽太。
【この世界で一番、君だけがすき。】
第9話 それはセリフなんかじゃなくて
遥の額キスが起こした、会場のざわめき。
舞台裏で立ち尽くしていた陽太は、その瞬間――走り出した。
「すみません、シーン変更します!」
演出席がざわつく中、陽太は舞台に飛び込む。
遥「……陽太くん?」
陽太はステージ中央の菜月の前で、ぴたりと止まる。
息が荒い。だけどその目は、ちゃんと“演技”の中にあった。
「“待ってろよ。お前が誰に口づけされようと――お前を迎えに来るのは、俺なんだから”」
遥:「……!」
ザワッと客席がどよめく。それでも陽太は止まらない。
「“この役がヒーローでも、俺の世界じゃ、菜月がヒロインなんだから”」
客席は静まり返る。遥がそっと言う。
「……“そのセリフ、台本にないけど”」
陽太はうなずく。
「“悪い。でも、言わなきゃ後悔するって思った”」
それを聞いた遥の視線が、すっとやわらかくなった。そして、自分の役のセリフに戻っていく。
「“それなら……ヒロインの選択は、もうわかってるはずだよな”」
ふたりの視線が、菜月に向く。
ライトの熱。
観客の沈黙。
脚本にないセリフたち。
けれど、菜月の心の中には、たったひとつの言葉が浮かんでいた。
これは――“演技”じゃない。
自分のためだけに投げられた、ずるくて、やさしくて、まっすぐな気持ち。
【この世界で一番、君だけがすき。】
最終話 好きの続きを、生きていく。
文化祭ステージの終演後。拍手喝采の中、幕が降りる直前――
菜月の目には、遥の笑顔と陽太の背中が焼きついていた。
楽屋に戻ると、クラスメイトたちが盛大に盛り上がる中で、遥と陽太の姿だけが見えなかった。
「……どこ行ったのかな」
着替えを済ませ、ひとり校舎の裏にまわると、そこにいたのは――遥。そして陽太。
ふたりとも、制服に着替えて立っていた。そして、同じタイミングで彼女に気づいた。
「菜月さん」
「……なつき」
ふたりの声が、重なる。 沈黙が落ちた後――遥が一歩、前に出た。
「俺さ、転校してきてからあまり感情を表に出さないようにしてたんだ。でも、菜月さんの音を聞いて、気づいた。
“誰かを好きになるって、息ができなくなるくらい自然なことなんだ”って」
「俺はずっと傍にいた。気持ちもずっと前から知ってた。なのに、今みたいにドキドキするなんて思わなかった」
遥:「俺も本気だった。けど、どちらかひとりしか“君の隣”には立てない」
陽太:「菜月の答え、ちゃんと聞かせて」
菜月は、強く指を組んだ。
「……ふたりとも、わたしを“誰か”じゃなく“わたし”として見てくれて、ありがとう」
ゆっくりと、陽太の方へ一歩、足を進める。
「わたしは、陽太といると――日常の中が宝物になる」
陽太の目が、ゆっくりと潤んだ。遥は、静かに口角を上げて、そして――
「そっか。……選ばれなかったとしても、君を好きだった時間に悔いはない」
そのまま、風に髪を揺らして笑った。
「ありがとう、菜月さん。俺、あの演奏――、一生忘れないと思う」
陽太:「遥……」
遥:「あとは託す。ちゃんと、幸せにして」
そう言って、遥は歩き去っていった。背中には未練も悔しさも、でも確かに“想い”が詰まっていた。
ふたりきりになった後、陽太がぽつんと。
「……ほんとに、俺でよかった?」
菜月はうなずいた。
「陽太じゃなきゃ、ダメだった」
陽太は笑って、額をコツンとくっつける。
「よっしゃ。じゃあ、この先の物語は――全部“ふたりきり”で書いてこうぜ」
菜月も、小さく笑った。
“この世界で一番、君だけがすき。”その言葉が、わたしの胸のいちばん深いところで、確かに響いてる
【この世界で一番、君だけがすき。 完結】