エリート外交官の完璧なる偽装結婚 ……のはずが旦那様は私を溺愛しているみたいです?!
 靴を履き終え、靴べらを戻した滉太郎さんが私に向き直った。私も情けない顔をさらさないよう笑顔を作る。

「今日は八時くらいには帰れるかな」

「私も今日は七時くらいに帰ると思うので、待ってますね」

「うん、ありがとう」

 滉太郎さんが手を広げる。これはハグの合図。

 二ヶ月前くらいから「夫婦としてもう少し距離を縮めるべきだと思う」という滉太郎さんの提言によって始まったのが、この行ってきますのハグだ。

 偽装夫婦を完璧に演じるために余念がない滉太郎さんは、毎日この儀式を欠かさない。私は少し困ってる。だって好きな人とハグをして、平常心でいられるはずがないのだ。私が自然にこの儀式を行えたことは一度もない。

 今日も滉太郎さんの前で固まる私を見て、滉太郎さんがクスリと笑みを浮かべる。そのままふわりと抱きしめられた。まるで自分が綿あめにでもなったかのよう。

 恥ずかしくて顔の表情筋が不自然に持ち上がる。ニヤついていると思われたくなくて、唇を引き結ぶと余計に変な表情になった気がする。

「行ってきます、仁奈」

 耳元で囁くのはやめてほしい。さらなる刺激で私の心臓は破裂寸前だ。

 火照った顔を見せないように俯きながら、「いってらっしゃい」と告げる。ボソリとしか言えなかった。声の大きさを調節する余裕もない。だってこれを言ってしまったら……。

 頬に滉太郎さんの唇が触れる。行ってきますのキスまでがこの儀式の流れ。心臓は毎回この瞬間にとどめを刺される。

 爽やかな笑顔で滉太郎さんが家を出て行く。玄関ドアが閉まると、私は滉太郎さんにキスされた左頬に触れた。

 私がこの儀式に慣れる日なんてくるわけない。

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