鬼上司のギャップ沼は落ちたら抜け出せない
「……榎本?」
 声で佐久間さんだと確信する。でもいつもより声が湿って聞こえた。
 佐久間さんは目隠ししている腕を少しずらして私を見ていた。気のせいだろうか。心なしか佐久間さんの目が赤いような。よくよく見たら鼻も赤い。
 すすすっと佐久間さんに近寄ったのは、好奇心に駆られたから。
 もしかして。顔を覗き込もうとしたけれど、佐久間さんはまた腕で顔を隠してしまった。
「こっち見んな」
「うわっ」
 しかももう片方の手で私の目も塞がれた。
 佐久間さんの手は大きく、私の視界が真っ暗になる。同時に腕を引かれて、私はストンとソファに座った。
「……おまえ、読んだ?」
「よ、読みました」
 なにと聞かなくてもわかる。私は目隠しされたまま強くうなずいた。
「朝から泣きすぎて顔ボロボロで、今日はマスクを手放せそうにないです」
「あの展開は、そうなるよな」
 佐久間さんが溜め込んでいた熱を吐き出すようにため息をついた。
「仕事前にここで読んだのは失敗だった」
 今、佐久間さんはどんな顔をしているんだろう。視界から情報が入らなくなると他の感覚が敏感になるようで、私の目を覆う佐久間さんの手の温もりや、節くれだった長い指の感触をやけに意識してしまう。なぜか顔に熱が集まる。
「……佐久間さんも悪滅読んでるんですね」
「誰かさんが毎日その話をしてるから、その影響でな」
 その誰かさんって、もしかしなくても私のこと? 毎日ウザったく話していたから読まざるをえなかったんだろうか。申し訳ない気持ちはあるけれど、こうやって本誌も追うくらいハマってくれたので、布教できて結果オーライ?
 喜べばいいのか反省すればいいのか迷っていると、唐突に視界が明るくなった。数回瞬きして瞳を光に慣らすと、佐久間さんは長い脚を組んでそっぽを向いていた。綺麗な顎のラインと高い鼻筋以外、肝心の顔は見えない。
「やっぱり、佐久間さんも泣きました?」
 気になりすぎて、ずばり聞いてみた。
 はぐらかされるかも。そう思ったのも束の間、佐久間さんは組んでいた足の上で頬杖をついて、観念したような顔で笑った。
「漫画で泣いたのなんて高校生以来だ」
 人差し指で目尻に残っていた涙を拭う佐久間さんを見て、胸がギューッと締め付けられるような感覚がした。
 自分のブラウスの胸元あたりを掴んだ。どうしてこんなにドキドキしているんだろう。
『イケメンの泣き顔好きってことね』という小林さんの言葉が反芻する。そんな変態的な嗜好はないと思っていたけれど、否定できない気がした。
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