鯨のうた

人混みの中、ずっと立ち止まっているわけにもいかず、歩き始めるわたしたち。

しかし、会話はなかった。
お互い何から話したら良いのか、分からないような状態だった。

最寄り駅から歩いて10分も経たない内に会社の正面玄関に辿り着いた。

入口横に立つ警備員さんに挨拶をして、中へと入る。
すると―――

「―――あなたが、露草さん?」

突然目の前に現れた一人の女性。

栗色の長い髪の毛に長い睫毛、大ぶりのピアスを耳につけ、ロングコートの隙間からは膝上丈のミニスカートが顔を覗かせていた。

今まで後ろ姿や遠目からしか見たことがなかったけれど、その女性は紛れもなく中原専務の娘さんである梨花さんだった。

「り、梨花さん···!」

わたしの隣で驚いている様子の優作さん。

(やっぱりこの人が···)

「···はい、そうですけど」

わたしが無表情でそう答えると、梨花さんは不敵な笑みを浮かべ、わたしの頭の先から爪先までを観察しているようだった。

「ふーん、なんだぁ。大した女じゃないわね」

まるで勝ち誇ったような表情でそう言う梨花さんは、わたしを見て鼻で笑った。

「あなた、いつまで優作さんに付き纏ってるつもりなの?パパからも言われたでしょ?優作さんはね、わたしの婚約者になるのよ。あなたみたいな、どこにでもいるような女は、そこらへんの平凡な社員と付き合っていればいいでしょ?優作さんの恋人だって聞いたから、どんな女なのかと思ってたけど、美人でもなければ華もないし、不釣り合いにも程があるわよ〜!」

梨花さんの言葉を聞き、わたしの心は音を立てながら閉ざされていく。

(あぁ···、やっぱりそうなんだ。やっぱり優作さんは···)

やはり世の中というものは、残酷だ。
自分の思い通りになんていかないし、抗えないものだってある。

上の立場の人間には、どう頑張ったって敵わない。

わたしは今にも泣き出しそうだった。
でも、今は泣きたくない。
この女の前では、泣きたくない―――

涙を堪え、震えそうな声を抑え、わたしは最後に何か言い返してやろうと思った。

すると―――

「梨花さん···」

わたしの横で優作さんの低い声が響いた。
その声は、いつもの優しく穏やかな優作さんの声とは違った。

それは、わたしが今まで聞いた事もないような、怒りに満ちたような荒々しい声だった。
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