鯨のうた
「あ、中谷さん。それ、わたしが代わりにやりましょうか?」
頭を抱える中谷さんにわたしが話し掛けると、中谷さんは"その言葉を待ってました"とばかりに「いいんですか?!」と表情をパッと明るくし、目を見開いた。
「わたしは特に予定がないので、残業しても問題ありませんから」
「うわぁ〜!露草さん、ありがとうございます!じゃあ、お願い出来ますか?!」
そう言いながら、早々に書類をわたしに差し出してくる中谷さんは、遠慮の"え"の字なども感じなかった。
「はい。終わったら、竹浪さんのデスクに置いておきますね」
わたしがそう言って、中谷さんの仕事を引き継ぎ、定時の18時になると、中谷さんは颯爽と退社して行った。
(合コンかぁ〜···、そんなにいいものなのかな)
合コン経験のないわたしには、分かり得ない心境だ。
そして、わたし以外の社員が居なくなり、パソコンの機械音だけが聞こえる静かなオフィスに、わたしが打ち込むキーボードの音だけが響く。
残業なんて久しぶりだ。
こんな静かなオフィスで一人残されるのも久しぶり。
何だか新鮮な気持ちになり、仕事が捗った。
すると、定時をとうに過ぎた19時手前。
営業部のオフィスにある人物が入って来た。
「―――うわっ、何だよ。誰かと思えば、千衣かよ」
そう言って、ネクタイを緩め、営業先から戻って来たのは竹浪航だ。
わたしはチラッと航の方を見ると、「あれっ、直帰しなかったんだ」と言った。
「あぁ、中谷に頼んであった資料を確認しとこうと思って」
「···航さぁ、仕事を振るなら、ちゃんと定時に上がれる時間に仕事振りなさいよ。営業事務を何だと思ってるの?営業さんのサポート役であって、奴隷じゃないんだから、無理ある時間に"今日中に"だなんて配慮がなさ過ぎるよ」
わたしがそう指摘すると、航は「はぁ?!お前に関係ねーだろ」と声を荒げた。
しかし、わたしは「関係ない事はないんだよね」と言い、丁度出来上がってホチキスで留めたばかりの資料を航に差し出したのだ。