鯨のうた
「ここ、来てみたかったんだ。来るなら千衣と来るって決めてたんだよ」
「え、なんでわたし?」
「何と無く、水族館好きそうだったから···」
「何と無くかよ」
そう言ってわたしが苦笑すると、航はそんなわたしを真っ直ぐな瞳で見つめてきた。
そして、繋いでいた手を離したと思えば、両手を広げ、わたしが避ける隙さえ無く、航はわたしの事を抱き締めてきた。
「えっ、ちょっと、航···!」
「何だよ、抱き締めるくらい、いいだろ」
「周りの人たちに見られちゃうよ···」
「大丈夫だよ、俺たちしかいないし」
そうは言っても、航の腕の中は落ち着かず、変に緊張して身体が強張ってしまっているのを感じた。
すると、航はゆっくりと腕を緩め、それからわたしの顔を見下ろした。
こんな近くで···こんな鼻が触れてしまいそうな距離で―――
わたしがそれに戸惑っていると、航との距離が更に近くなるのを感じ、わたしは思わず固く目を閉じてしまう。
その途端、わたしの唇には柔らかい何かが触れた。
一瞬何が起こったのか頭の中がフリーズしてしまい分からなかったが、我に返りそれが航の唇である事に気付くと、わたしは慌てて航の胸を押し返した。
「やめてっ···!」
航と距離を取り、わたしは自分の口元を手のひらで覆い隠す。
航は押し返された事に驚いていたが、わたしはそれ以上に驚いているのだ。
「な、何するのよ」
「いやぁ、つい···」
「つい?ついじゃないでしょ?!何考えてるのよ!」
「だって、俺は千衣が好きだから···」
「わたしは航を好きだなんて思った事なんて無い!それなのにキスって···」
わたしの胸は興奮でドキドキしていた。
しかし、このドキドキはときめきのドキドキではない。
恋をしている時のドキドキとは違う、怒りや拒否反応からくるドキドキだとわたしは感じた。
それはまるで、わたしの心と身体が航の事を『この人は違う』と言っているようだった。