楽園


「そういえば、日比野君だったか君の名前は」

「はい! 日比野 咲良です」

私は小さく会釈する。顔を合わせるのはこれで3度目だけれど、ずっと君と呼ばれていたので名前は覚えていないものだと思っていた。

「ちょっと頼まれ事をしてもいいかい」

「私にできることなら、なんでも」

「大丈夫、難しいことじゃないよ。……しかしね君、なんでもするなんて簡単に言うもんじゃないよ。ましてや仕事とはいえ男の家で」

先生はゆっくり立ち上がって、私を見下ろす。随分背が高い。私より20センチは高いのではないか。いや、そんなことよりと私はおろおろとその言葉の意味を頭で反芻する。

「いや、今のはただのお節介で言っただけだ。そう警戒されちゃ困る」

私があまりに縮こまっていたせいか、先生はすっと離れて家の奥に引っ込んだ。それからすぐに、先生は戻ってきた。


「ちょっとしたお使いだ。これと同じものを買ってきてくれないか」


先生は封の空いた漬物を手に持っていた。よく見かける柴漬けのパッケージだ。

「これを……買ってくればいいんですか?」

「そうだ。もうすぐ夏が来るだろう、塩分補給にいつもこれを食べるんだ。逆に言えば、これがないと僕は夏が越せない。君だって嫌だろ、原稿を取りに来て僕の死骸があったら」


捲し立てるように先生は漬物を持って迫ってくる。
正直、怖かった。並々ならぬ漬物へのこだわりがあるのだけは伝わった。

私は、こくこくと頷くと先生は満足気に「なら、次に来る時でいいから、頼んだよ日比野君」

と漬物と一緒に先生は奥へ引っ込んだ。


呆気にとられていた私だったが、受け取った原稿を鞄に仕舞い、奥に引っ込んだ先生に声をかける。

「あの、それじゃあ私、失礼します」

返事は聞こえなかったけれど、まあいいかと思って玄関に向かってると背後から「君、縁側から入ってきたんじゃないのかい?」と先生の声がした。

「うわあっ、びっくりした。そうでした」

そして先生は最後に「漬物頼んだよ」と念を押してきたのだった。
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