追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第16話 彼の傍にいる資格

 朝靄の立ち込める中庭で、木桶を抱えながらふと見上げた空はどこまでも高く、澄んでいた。
 ……この辺境の地に来て、何日が過ぎたのだろう。
 街の喧騒も、貴族の陰謀も、王城の重い空気もここにはない。あるのは、静けさと働く者たちの汗と、土と……そして。

 カイ・ヴァレンティア将軍――あの人の背中だった。

 彼は、戦の英雄だ。何人もの命を救い、無数の危機を乗り越え、この地を守ってきた男。
 けれど、その姿に驕りも威圧もない。
 兵舎では自ら雑務をこなし、誰にでも対等に接し、兵士一人一人の名前を忘れない。
 屋敷の者たちにも無理を言わず、過剰な命令もしない。

「……すごい人、なんだわ」

 ぽつりと、独り言が漏れた。
 手を止めてはいけないとわかっていたのに、つい、目で追ってしまう。
 遠くで兵士たちに声をかけ、笑い合う姿。
 威厳よりも、信頼で周囲を動かす人。
 ああいう人を――本当の意味で、“統べるにふさわしい人”と言うのだろう。

「ねぇセラ!」

 洗濯場の帰り道、サーシャが私に声をかけた。
 突然彼女が声をかけてきたことに驚いてしまい、視線を向ける。

「今日の食事、炊き出しに行くんだって。将軍様が急に外で食べようとか言い出したらしくて」
「炊き出し……ですか?」
「そうそう。兵士だけじゃなくて、近隣の子供たちも呼ぶって。多分、補給隊の余りをうまく使うつもりだと思う」
「ああ……なるほど」

 食糧の調整、衛生の確保、そして労働と栄養のバランス。
 貧困地域では、その一手が命を救うこともある。

(そういうところまで……)

 カイという人は、軍の将でありながら、軍だけを見ていない。
 民を、地を、未来を、見ている。
 王都で、誰かがしていたフリだけの民のため、ではなく。本当に、静かに、人々の暮らしのために手を伸ばしている。

 その日、私は厨房の補佐として、炊き出しの支度に加わった。

「セラ、その塩加減でいいよ。味見してくれた?」
「はい、少し……」
「ちょっと濃いけど、兵士にはちょうどいいわ。やるじゃない」

 サーシャに褒められ、少しだけ頬が熱くなる。
 最近サーシャは私に対して褒めてくれる。
 このように、褒められることがこんなにも嬉しいなんて……いつぶりだっただろう。
 昔は、既にそれが【当たり前】の反応ばかりだったから。
 食事を運ぶ中、私の前を通ったカイが、ふと立ち止まった。

「ああ、ありがとう。よく手伝ってくれたな」
「……いえ、当然のことをしたまでです」

 自然に、そう答えていた。
 でも、彼はその言葉に目を細めた。

「そういう【当然】ができない奴も多いんだ。お前は誇っていいぞ?」
「っ!」

 将軍様のその言葉が、胸の奥に、静かに染み込んでいく。

 嘗て、私は当然を誰よりも背負っていた。王太子の婚約者として、将来を約束された王妃として。侯爵令嬢として。王国を守る者として。
 けれど、今の私は、何者でもない。
 名も家も失い、平民たる自分自身だ。
 それでも、今の私にもできることがある。
 人に必要とされる瞬間がある。
 それを、教えてくれたのはこの地で、目の前の将軍様が助けてくれて、ここにおいてくれたからこそ。

(……あの人の隣に立つには、まだまだ足りない)

 もっと強くならなければ。
 誰にも頼らず、生きていけるように。
 誰かの力になるために。
 そして、過去の自分を受け入れられるように。

(……でも、きっと私は)

 今日、誰かに「ありがとう」と言われた。
 名前も知らない子供に「おいしい」と笑われた。
 サーシャと笑い合って、将軍様に褒められた。

 私は、少しだけ自分を許してもいい気がした。
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