追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第42話 崩れた王都

 馬の背は容赦なく揺れ続け、夜が明けても休みは与えられなかった。
 手首に巻かれた縄は既に皮膚を擦り、じんわりとした痛みを残している。
 けれど、それよりも胸の奥に広がる重さの方がずっと苦しかった。
 私は、戻っているんだ。望まぬ形で、王都へと。
 夜が白み始めた頃、遠くに城壁の影が見えた。
 王都を囲む巨大な石壁。幼い頃から見慣れたはずの輪郭なのに、どこかくすんで見える。
 空気が重たく感じる、それは朝霧のせいではない。
 近づくにつれ、街道沿いの村々の様子が目に入り、愕然とした。
 畑は荒れ、収穫を終えたはずの麦束が放置されたまま。井戸端に人影は少なく、こちらを見ても、すぐに視線を逸らす。
 警戒というより――諦めの色だ。

「何を見ている」

 馬を操る騎士が、低く言う。

「……変わりましたね」

 私の呟きに、男は鼻で笑う。

「国は常に変わる。お前が居ようが居まいが」

 その言葉は棘のようだった。だが、言い返さない。
 私はただ、目に映る光景を焼きつける。
 城門に着くと、嘗てのような活気はなかった。
 商人の列も、旅人のざわめきも薄い。門番たちの鎧は磨かれているはずなのに、どこか鈍く曇って見え、同時に顔色も冴えない。
 私が通るとき、一人の若い兵が目を見開いた。
 その視線は、驚きと……そして、わずかな戸惑い。

「……まさか」

 小さく漏れた声は、風にかき消された。
 門を抜け、王都の大通りへ入る。
 そこは、嘗て色とりどりの布や香辛料の匂いが溢れ、子どもたちが駆け回り、商人の声が響いていた場所――だったはずだ。

「……どうして?」

 思わず、呟いてしまった。

 世界が一瞬にして変わった。
 露店の数は明らかに減っている。
 並ぶ品は乏しく、質も落ちている。
 小麦の袋は小さく、油壺の量は少ない。
 値札に目が留まり、思わず息を呑んだ。

(……高い)

 以前の倍、いや、それ以上だ。
 買い物籠を抱えた女が、商人に詰め寄っている。

「昨日よりまた上がってるじゃないか!」
「仕入れが倍なんだ、俺だって好きでやってるんじゃない!」

 怒鳴り声に、周囲がぴりつく。
 だが、誰も仲裁に入らない。
 嘗ては巡回兵がすぐに駆けつけ、場を収めていた。
 今は遠巻きに見ているだけだ。目が死んでいる。

(価格統制が、崩れている……)

 胸がざわつく。
 昔、私は商人ギルドの帳簿を何度も精査した。備蓄量と輸送路、税の調整。
 足りなくなる前に手を打つ、それが当たり前だと思っていたからだ。
 けれど今、この市場には【後手】しかない。
 火が出てから水をかけるような政だ。
 馬はさらに進む。
 大通りの端、物乞いの数が増えた。
 痩せた子どもが、通り過ぎる馬をじっと見つめている。
 その目に、好奇心はない。ただ空腹だけがある。
 胸が痛み、私は唇を噛む。

「……兵の数が減っていますね」

 城へ向かう途中、詰所の前を通る。
 整列しているはずの兵はまばらで、姿勢も緩い。鎧の手入れも行き届いていない。
 士気が低い。
 戦場を知らぬ私でも、それくらいは分かる。

「給金の遅れがあるらしい」

 前を行く騎士が、ぼそりと漏らした。
 しまった、というように口を閉ざす。
 だがもう遅い。
 給金の遅れは、兵の心を折る。
 国を守る盾が、錆びついている。
 そして、城門が見えてきた。
 白亜の王城――嘗ては誇りそのものだった。
 陽光を受けて輝き、王国の象徴としてそびえ立っていたはずだ。
 けれど今は――どこか色褪せて見える。
 旗は掲げられている。だが風を受けても、力強さがない。
 馬が止まり、私は無理やり引き下ろされる。
 足が地面に着いた瞬間、懐かしい石畳の感触が伝わった。
 その冷たさが、骨の奥まで染みる。
 城の扉が開く。
 重厚な扉。赤い絨毯。
 記憶が、鮮明に蘇る。
 追放を告げられたあの日の広間。
 視線。沈黙。冷たい宣告。
 けれど今、すれ違う侍女たちの顔には、別の色がある。
 疲労、不安。
 そして――わずかな、希望にも似た揺らぎ。

「……あの方は……?」

 誰かが小さく囁いた。
 すぐに別の者が口を塞ぐ。
 私は歩く。
 縄を解かれぬまま、堂々と。
 俯かない、ここで怯えれば、またあの日に戻る。
 廊下の壁に掛けられた肖像画が、薄暗く見える。燭台の灯りが足りない。
 節約か、それとも管理の手が回っていないのか?
 どちらにせよ、王城は疲れている。
 大広間の前で足が止まる。
 扉が開く直前、胸が強く打った。

(私は、戻ってきた)

 だが、かつての令嬢としてではない。
 追放された女として。
 そして――この国の歪みを目にしてしまった者として。
 扉が開いた。
 そして見えた、高い天井。玉座。
 けれど、その空気は以前とは違う。
 張り詰めた威厳ではなく、どこか焦燥を孕んだ静けさ。
 私はゆっくりと息を吸い、城内を見渡す。
 豪奢なはずの装飾が、妙に空虚に感じる。
 華やかさだけが残り、中身が削げ落ちている。

「……こんなにも、壊れていたの?」

 思わず、声が零れた。
 誰に向けたものでもない。
 ただ、胸の奥から溢れた本音だった。
 王都はまだ立っている。城も崩れてはいない。
 だが、確実にひびが入っている。
 民の生活、兵の士気、そして市場の秩序。
 そして――王家の威光。
 私は目を閉じ、再び開く。
 ここから何が始まるのか、まだ分からない。
 けれど一つだけ、はっきりしている。

 この国は、もう以前の姿ではなく、壊れてしまっているのだと。
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