追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路
第51話 落日【王妃視点】
城壁が崩落したという報が入った時に、私の心は驚くほど凪いでいた。
地響きと共に伝わってきた振動は、玉座の間の冷たい石床を通じて私の足首を震わせたが、それを不快に思うことすらなかった。
窓の外では、かつて栄華を誇った王都の空が、どす黒い煙に汚されている。
遠くで響く悲鳴も、兵たちの絶望に満ちた怒号も、今の私には遠い異国の雷鳴のようにしか聞こえない。
パタパタと虚しく響く侍女たちの逃げ惑う足音や鳴り止まぬ警鐘。
それら全てが幕の下りる舞台の雑音に過ぎなかった。
――終わったのだ。
その事実を、私は冷徹なまでに理解していた。
広大な玉座の間は、もはや静寂に支配されている。
忠誠を誓ったはずの近衛兵も、手足となって動いた侍女も、すでにその多くが持ち場を離れた。
責める気にはなれない。
忠誠とは、常に輝ける勝者へと流れる水のようなものだ。
それが人の本質であり、この世の理なのだから。
レオンハルトは、今頃どこかで無様な叫びを上げているだろう。
兵を出せ、門を閉じろ、王家の威信を見せろ……あの子は最後まで、張りぼての【王太子】という殻に閉じこもり、そして現実から目を背け続けるに違いない。
エリスは……あの娘なら、今頃ドレスの裾を振り乱して隠し通路を探しているはずだ。
泥を啜ってでも生き延びる強かさだけは認めていたが、それももはや、私には関係のないこと。
だが、私は――この国の王妃なのだ。責任を取らなければならない。
重厚な扉が、一切の躊躇なく開かれる。
整然とした軍靴の音と鎧の擦れる音は静かで、無駄な虚飾がない。
それは略奪に駆り立てられた野蛮な侵略者の歩みではなく、圧倒的な秩序を帯びた軍勢の進軍だった。
やがて、埃の舞う玉座の間に姿を現したのは一人の若き男だった。
隣国の若き国王、アルベルト。
彼の背後には数名の将が控えているが、誰一人として無闇に剣を抜こうとはしない。
その統制の取れた立ち振る舞いこそが、我が国の軍が敗北した理由を雄弁に物語っていた。
「――王妃殿下」
彼はわずかに首を傾け、一礼した。
形式上の礼ではあるが、そこには確かな敬意が含まれている。
「無益な流血は、ここで終わらせたい」
「……」
低く、よく通る声が聞こえてきた。
「王都はすでに我が軍が制圧いたしました。城門も、兵站も、すべて管理下にある……これ以上の抵抗はただ無辜の民の命を散らすだけに過ぎない」
淡々と告げられる宣告。それは、慈悲ではなく、合理的な事実の提示だった。
「降伏を、お受けいただきたいのです」
短い言葉が、広い広間に残響となって消えていく。
私は玉座に深く腰掛けたまま、眼下の若き王をじっと見つめ返した。
「……王家に、敗北の施しを受けよと?」
「施しではない。秩序の再編だ」
アルベルトは即座に言い放つ。
「王家の血は保護する。我らとて、無用な処刑を望んではいないのです。あなたがたを【象徴】として生かす道もあります……いかがでしょう?」
合理的だ。
感情に流されず、国という巨大な歯車をどう回すかだけを見据えている。その迷いのない瞳――ふと、私の脳裏に一人の娘の姿がよぎる。
セレスティア・アルセイン。
あの娘も、同じ目をしていた。
私情を殺し、常に【公】としての最善を模索していた、あの忌々しいほどに澄んだ瞳。
「……あなたは、王家を断つつもりか?」
「腐った部分は断つ。だが、民は守らなければならない。友との約束なので」
迷いのない返答に、胸の奥がわずかに疼いた。
民――私は王家の威厳を守ることだけに心血を注いできた。
格式を、血統を、古き良き伝統を。
だが、その足元で喘ぐ民の姿を、一度でも真実見つめたことがあっただろうか。
……いや。見ていたつもりだった。
国を安泰に導くために、セレスティアを排した。
王家の安定のために、従順なエリスを選んだのだ。
全てはこの国を守るためだったはずだ。
――本当に?
アルベルトが静かに言葉を重ねる。
「王妃殿下、あなたは賢い……無意味な抵抗がこの美しい城を灰にするだけだと理解しておられるはずだ」
賢い、か。これほどの皮肉があるだろうか?
私はゆっくりと立ち上がった。
絹の裾が石床を滑る。壁に並ぶ歴代の王たちの肖像画が、無言で私を見下ろしている。
「この国は、弱くなった……私が、弱くしてしまったのかもしれないな」
アルベルトの目がわずかに細まる。
私は机の引き出しに手を伸ばし、そこに隠されていた短剣を抜き放った。
王妃に護身のため与えられた冷たく重い銀の刃。
「だが、王家が敵の軍門に下り、物乞いのように命を繋ぐ姿を歴史に残すわけにはいきません」
「それが、あなたの選択か」
「ええ。王家の誇りは、私で終わらせる」
一瞬、セレスティアの顔が浮かぶ。
あの娘は、泥にまみれても【生きる】道を選んだ。
ならば私は、汚れなきまま【終わる】道を選ぼう。
「……あの女の方が、王妃に相応しかったかもしれぬな」
初めて口にした、セレスティアに対しての敗北した言葉。
だが、すぐにそれを打ち消すように自らの胸へと刃を向けた。
「だが、私は間違っていない。私は、私なりに王家を愛していたのだから」
「――王妃っ!」
痛みは、驚くほど一瞬だった。
視界が急激に揺れ、天井に描かれた王家の紋章が滲んでいく。
アルベルトの声と、駆け寄る足音が聞こえるが、もう私の意識を繋ぎ止めることはできない。
最後に、私は微笑んだ。
誇りだけは、誰にも奪わせない。
だが、薄れゆく意識の端で、ふと思った。
私が守りたかったこの【誇り】という名の殻が破れた後、あの娘は一体、どのような道を築いていくのだろうか?
(ああ……見てみたかった気もするな)
セレスティア。
お前の選んだ、その【生】の先にある景色を、見てみたかったのかもしれない。
笑顔で私に挨拶をし、隣に息子であるレオンハルトと共に居る姿を。
地響きと共に伝わってきた振動は、玉座の間の冷たい石床を通じて私の足首を震わせたが、それを不快に思うことすらなかった。
窓の外では、かつて栄華を誇った王都の空が、どす黒い煙に汚されている。
遠くで響く悲鳴も、兵たちの絶望に満ちた怒号も、今の私には遠い異国の雷鳴のようにしか聞こえない。
パタパタと虚しく響く侍女たちの逃げ惑う足音や鳴り止まぬ警鐘。
それら全てが幕の下りる舞台の雑音に過ぎなかった。
――終わったのだ。
その事実を、私は冷徹なまでに理解していた。
広大な玉座の間は、もはや静寂に支配されている。
忠誠を誓ったはずの近衛兵も、手足となって動いた侍女も、すでにその多くが持ち場を離れた。
責める気にはなれない。
忠誠とは、常に輝ける勝者へと流れる水のようなものだ。
それが人の本質であり、この世の理なのだから。
レオンハルトは、今頃どこかで無様な叫びを上げているだろう。
兵を出せ、門を閉じろ、王家の威信を見せろ……あの子は最後まで、張りぼての【王太子】という殻に閉じこもり、そして現実から目を背け続けるに違いない。
エリスは……あの娘なら、今頃ドレスの裾を振り乱して隠し通路を探しているはずだ。
泥を啜ってでも生き延びる強かさだけは認めていたが、それももはや、私には関係のないこと。
だが、私は――この国の王妃なのだ。責任を取らなければならない。
重厚な扉が、一切の躊躇なく開かれる。
整然とした軍靴の音と鎧の擦れる音は静かで、無駄な虚飾がない。
それは略奪に駆り立てられた野蛮な侵略者の歩みではなく、圧倒的な秩序を帯びた軍勢の進軍だった。
やがて、埃の舞う玉座の間に姿を現したのは一人の若き男だった。
隣国の若き国王、アルベルト。
彼の背後には数名の将が控えているが、誰一人として無闇に剣を抜こうとはしない。
その統制の取れた立ち振る舞いこそが、我が国の軍が敗北した理由を雄弁に物語っていた。
「――王妃殿下」
彼はわずかに首を傾け、一礼した。
形式上の礼ではあるが、そこには確かな敬意が含まれている。
「無益な流血は、ここで終わらせたい」
「……」
低く、よく通る声が聞こえてきた。
「王都はすでに我が軍が制圧いたしました。城門も、兵站も、すべて管理下にある……これ以上の抵抗はただ無辜の民の命を散らすだけに過ぎない」
淡々と告げられる宣告。それは、慈悲ではなく、合理的な事実の提示だった。
「降伏を、お受けいただきたいのです」
短い言葉が、広い広間に残響となって消えていく。
私は玉座に深く腰掛けたまま、眼下の若き王をじっと見つめ返した。
「……王家に、敗北の施しを受けよと?」
「施しではない。秩序の再編だ」
アルベルトは即座に言い放つ。
「王家の血は保護する。我らとて、無用な処刑を望んではいないのです。あなたがたを【象徴】として生かす道もあります……いかがでしょう?」
合理的だ。
感情に流されず、国という巨大な歯車をどう回すかだけを見据えている。その迷いのない瞳――ふと、私の脳裏に一人の娘の姿がよぎる。
セレスティア・アルセイン。
あの娘も、同じ目をしていた。
私情を殺し、常に【公】としての最善を模索していた、あの忌々しいほどに澄んだ瞳。
「……あなたは、王家を断つつもりか?」
「腐った部分は断つ。だが、民は守らなければならない。友との約束なので」
迷いのない返答に、胸の奥がわずかに疼いた。
民――私は王家の威厳を守ることだけに心血を注いできた。
格式を、血統を、古き良き伝統を。
だが、その足元で喘ぐ民の姿を、一度でも真実見つめたことがあっただろうか。
……いや。見ていたつもりだった。
国を安泰に導くために、セレスティアを排した。
王家の安定のために、従順なエリスを選んだのだ。
全てはこの国を守るためだったはずだ。
――本当に?
アルベルトが静かに言葉を重ねる。
「王妃殿下、あなたは賢い……無意味な抵抗がこの美しい城を灰にするだけだと理解しておられるはずだ」
賢い、か。これほどの皮肉があるだろうか?
私はゆっくりと立ち上がった。
絹の裾が石床を滑る。壁に並ぶ歴代の王たちの肖像画が、無言で私を見下ろしている。
「この国は、弱くなった……私が、弱くしてしまったのかもしれないな」
アルベルトの目がわずかに細まる。
私は机の引き出しに手を伸ばし、そこに隠されていた短剣を抜き放った。
王妃に護身のため与えられた冷たく重い銀の刃。
「だが、王家が敵の軍門に下り、物乞いのように命を繋ぐ姿を歴史に残すわけにはいきません」
「それが、あなたの選択か」
「ええ。王家の誇りは、私で終わらせる」
一瞬、セレスティアの顔が浮かぶ。
あの娘は、泥にまみれても【生きる】道を選んだ。
ならば私は、汚れなきまま【終わる】道を選ぼう。
「……あの女の方が、王妃に相応しかったかもしれぬな」
初めて口にした、セレスティアに対しての敗北した言葉。
だが、すぐにそれを打ち消すように自らの胸へと刃を向けた。
「だが、私は間違っていない。私は、私なりに王家を愛していたのだから」
「――王妃っ!」
痛みは、驚くほど一瞬だった。
視界が急激に揺れ、天井に描かれた王家の紋章が滲んでいく。
アルベルトの声と、駆け寄る足音が聞こえるが、もう私の意識を繋ぎ止めることはできない。
最後に、私は微笑んだ。
誇りだけは、誰にも奪わせない。
だが、薄れゆく意識の端で、ふと思った。
私が守りたかったこの【誇り】という名の殻が破れた後、あの娘は一体、どのような道を築いていくのだろうか?
(ああ……見てみたかった気もするな)
セレスティア。
お前の選んだ、その【生】の先にある景色を、見てみたかったのかもしれない。
笑顔で私に挨拶をし、隣に息子であるレオンハルトと共に居る姿を。