追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第54話 選んだ道は

 夕方の風は、昼間より少しだけ冷たく感じる。
 頬を撫でる空気には、湿った土の匂いと、どこか遠くの山々が運んできた冬の予感がした。

「ふぅ……これで終わりっと」

 まるで何事もなかったかのように、日常が続いている。
 既に私は侯爵令嬢ではなく、ただの平民の【セラ】になったかのように。
 洗濯物を干し終えた後、私は一人で井戸のそばに立っていた。
 空は燃えるような茜色に染まり、無骨な砦の石壁をも柔らかな光で包み込んでおり、遠くの練兵場からは、訓練を終えた兵士たちの野太い笑い声が響いていた。
 炊事場からは薪のはぜる音と共に、湯気と香ばしい夕餉の匂いが漂っている。

 ――何もかも、全て終わったのだと、再度感じる事が出来た。

(これが、幸せなのかな……)

 そんな事を考えながら、私は空になった桶を井戸の縁に置き、そっと深く息を吐く。
 肺の奥まで入り込む冷たい空気が、今の自分が生きていることを教えてくれた。
 のんびりと空を眺めていたその時だった。

「こんなところで、何をぼうっとしている」

 低い、低音が背後から降ってきた。振り返らなくても、その声の主が誰であるかはすぐに分かる。
 私の心に、波紋のように小さな安らぎが広がった。

「えっと……将軍様?」

 私はゆっくりと振り向いた。
 そこには将軍様が立っていた。
 分厚い胸板の前で腕を組み、いつものように少しだけ眉間に皺を寄せた険しい顔で、こちらをじっと見下ろしている。

「もうすぐ夕食だ。サーシャがお前を探していたぞ?飯の時間に遅れるとあの小娘がうるさいのは知っているだろう」
「ふふ、すみません。少しだけ、風に当たりたくて」
「……そうか。風は冷たくなってきた。あまり長く外にいて、風邪でも引かれたら面倒だ」

 将軍様の短い返事。ぶっきらぼうな物言い。
 それっきり、二人の間に沈黙が落ちた。
 今となってはこの人と過ごす沈黙は、ただ静かに流れていく穏やかな時間でしかない。
 私は井戸の縁に白く細い指を置きながら、再び空を見上げた。
 一番星が、薄暗くなり始めた空に小さく瞬いている。

「……王都は、落ち着いたそうですね」
「ああ。大きな混乱はねぇよ。アルベルトが手際よく動いている。あいつは見た目によらず、現場の声を拾うのが得意だからな……民を飢えさせたりはしねぇさ」
「フフ、そうですか」

 その言い方に、私は思わず小さく笑みをこぼしてしまった。

「……何がおかしい」
「いえ、本当に信頼されているんだな、と思って」
「信頼というより、腐れ縁だ。昔からあいつの尻拭いばかりさせられてきたからな」

 舌打ちをしながらも不満げな口調。
 それでも、その言葉は本当に信頼しているのだなと理解できるような、そんな感じがした。
 しばらくして、将軍様がぽつりと探るような声で聞いてきた。

「……後悔してるか」
「え?」
「王城を離れたことだ。お前はあそこで、頂点に立つはずだった」

 私は一度目を閉じ、少しだけ考えた。
 王妃という座、王太子妃という、誰もが羨む地位――もし私が別の選択をしていれば、今頃は豪華なドレスを纏い民の喝采を浴びながら別の未来を歩んでいたのかもしれない。
 私は再度、笑った。

「いいえ」

 私は目を開き、はっきりと首を振った。

「後悔なんて、一度もしていません」

 左胸にそっと手を当てる。
 そこにある鼓動は、あの頃よりもずっと力強い。

「私は、自分の足でここへ来ました。自分で選んだんです」

 王城を出ることも、高貴な名を捨て、ただの女として生きることも。
 そして今、この冷たい風の中であなたの傍に立っていることも。
 将軍様は何も言わず、射抜くような鋭い視線で、しばらく私を捉えていた。
 その熱を孕んだ視線に胸の奥が少しだけ落ち着かなくなり、私は視線を泳がせる。
 やがて、彼は重い口をゆっくりと開いた。

「……セラ」

 久しぶりに、その名で呼ばれた。
 セレスティアではなく、セラ。
 この辺境で新しく芽吹いた、私の本当の名前。
 呼ばれるたびに、胸が締め付けられるほど熱くなる。

「……はい?」

 返事をすると、カイ様はふいと視線を逸らした。
 珍しく言葉を探しているような、ひどく落ち着かない様子で顎に手をやっている。

「その……なんだ。いいか、よく聞けよ」
「どうしたのですか? 将軍様がそんな風に言葉を詰まらせるなんて」
「……笑うな。真面目な話なんだ」
「笑っていません……少しだけ、微笑ましいと思っているだけです」
「それを笑っていると言うんだ」

 ぶつぶつと毒づきながら、彼は一度、天を仰いで大きく息を吐き出した。
 そして意を決したように、こちらを真っ向から見据えた。

「……俺は、王になんてならねぇ。そんな窮屈な椅子、真っ平ごめんだ」
「ええ、知っています」
「玉座も、輝かしい王冠も、これっぽっちも興味ねぇ。俺が欲しいのはそんなものじゃない」
「はい」
「だから……その、なんだ」

 そのまままた、言葉が止まる。
 戦場では一瞬の迷いもなく剣を振るい、数多の敵をなぎ倒す英雄が、今は恋に不慣れな少年のように困り果てている。
 私はそんな彼が愛おしくて、少しだけ首を傾げて促した。

「将軍様?」

 彼は眉を深く寄せ、もう逃げ場がないと悟ったように、絞り出すような声で告げた。
 静かに私に近づくと、無防備だった私の手を優しく包み込むように握りしめ。

「……好きだ」

 風が、一瞬だけ止まった気がした。
 夕闇の静寂が辺りを支配し、私の心臓の音だけが耳元で激しく打ち鳴らされる。

「お前が王太子の元婚約者だろうが、どこぞの侯爵令嬢だろうが、そんなことは俺には一切関係ねぇ」

 一歩、また前に近づく。
 土を運ぶ風の匂いに、彼の纏う鉄と革の匂いが混ざりながら。

「セラでも、セレスティアでも……お前はお前だ」

 将軍様の瞳には、一点の曇りもなかった。

「俺は、お前が好きだ……この気持ちに嘘はねぇ」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、視界がじんわりと滲む。

「……でも」

 彼は少しだけ顔をしかめ、私に逃げ道を与えるように言葉を繋いだ。

「これはお前の人生だ。ここに残るか、王都に戻って新しい人生を探すか、それとも……俺の隣に立つか」

 彼は一度言葉を切り、慈しむような、けれど覚悟の決まった声で言った。

「全部、お前が決めろ。俺は、お前の意思を何よりも尊重する……無理に縛りつけるような真似はしねぇ」

 それが、この人なのだ。
 守ると決めた相手を、自分の色に染めようとはしない。
 ただ、その人の尊厳を信じて、選択を委ねてくれる。
 私はしばらく言葉を失い、ただ彼の顔を見つめていた。
 胸が温かくて、同時に締め付けられるように苦しくて、そしてどうしようもなく震えるほどに嬉しかった。
 私はゆっくりと、彼に向けて一歩を踏み出した。
 将軍様は少しだけ驚いたように目を見開く。

「将軍様」
「……なんだ。断るなら、今のうちだぞ」

 私は小さく、けれど幸せに満ちた笑みを浮かべた。

「一つだけ、訂正してもいいですか?」
「……何だ?」

 私は、彼の黒い外套の端を、震える指先でそっとつまんだ。

「これは、私の人生ですから……私の心に従って私が決めます」

 顎を上げ、彼の瞳の奥に宿る熱をまっすぐに見つめ返す。

「私はこの辺境であなたと出会い、そして自分らしさを取り戻す事が出来ました。傷ついた私は、もういないのです」

 あの煌びやかな檻には、もう二度と戻らない。
 誰かの盾や、家名を守るための道具として生きる日々は、もう終わったのだ。

「――私は、ここで生きます」

 一点の迷いもなく、言葉を紡ぐ。

「あなたの隣で。セレスティアではなく、セラとして生きていきたいんです」

 笑顔でそのように言った瞬間、まるで時が止まったような沈黙が流れた。
 将軍様の目が大きく開き、やがてその奥に深い喜びが滲んでいく。

「……それは……本当に、いいのか? 何もない、こんな荒っぽい辺境だぞ?」
「はい。ここには、私が欲しかったものが全部ありますから」

 私がそう答えると、彼はしばらく私を凝視していた。
 やがて、呆れたように、けれどこの上なく愛おしそうに眉を下げて笑った。

「……参ったな。降参だ」
「どうしてですか?」
「嬉しすぎて、どうすればいいか分からねぇ。敵軍に囲まれた時より、ずっと動揺してる」

 その言葉に、私は堪えきれずに声を上げて笑ってしまった。
 茜色から紫へと移り変わる夕焼けの中、砦の鐘が遠くで静かに鳴り渡る。
 これから私は、この場所で一人の女として生きていく。
 私はこの場所で、愛する人の隣で。
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