記憶障害の男と写真家の恋♡消せない過去
事故の直後、真と稔はすぐさま救急車を呼んだ。
搬送先の病院で辛島貞夫は懸命な治療の末、一命をとりとめた。ふみと愛斗はその知らせを聞き、安堵の涙を流して喜んだ——だがそれも束の間、愛斗は工場での事故とその後の一連の行動に関わり、警察に逮捕された。ふみは駆け寄り、腕を掴んで引き止めようと叫んだが、手錠の音だけが冷たく響き、その願いは叶えられなかった。
それから、長い五年の歳月が流れた。
貞夫のもとには病の影が忍び寄り、認知症は少しずつ悪化していた。日がな一日、彼は同じ言葉を繰り返す。
「今日は愛斗が来てくれるかな……」
「きっと来てくれるといいね」
ふみは柔らかく応えながらも、心の奥では不安が渦巻いていた。今日は愛斗が釈放される日だと、彼女だけは知っていた。けれどもし自分のことを忘れてしまっていたら、もうここへは戻ってきてくれないのでは——そんな思いが胸を締めつけていた。
ある日、ふみは貞夫の穏やかな横顔をデジタルカメラで収めていた。
カシャリ
シャッター音が静かな部屋に響く。ふみがレンズから目を離して前を向くと、そこには見慣れた背中が立っていた。
「……愛斗くん?」
ふみは言葉を失い、次いで堰を切ったように涙があふれた。彼がこうして自分のもとへ帰ってきてくれたことが、ただただ嬉しかった。
愛斗はゆっくりと近づき、一枚の封筒を差し出した。開けると、そこには不起訴処分を証する書類が納まっていた。
「ふみ、もう一度俺とやり直してほしい。俺は昔から、お前じゃなければだめなんだ」
ふみは涙を拭き、かすかに笑みを浮かべて頷く。
「もちろんだよ、私もずっと同じ気持ちだった」
ふみは彼の胸に飛び込み、唇を重ねた。口づけのあと、二人は久しぶりに心から笑い合った。ベッドに横たわる貞夫も、その様子を見て、穏やかに、嬉しそうに笑っていた。愛斗は貞夫の前に背筋を伸ばし、ふみと共に再び歩んでいく決意を真っ直ぐに告げた。
――それからさらに一年の月日が過ぎた。
貞夫は環境の整った老人ホームへ入居し、安心して療養できるようになった。ふみは昔から好きだった写真を仕事にし、写真家として歩み始めた。愛斗も釈放後に腕を磨き、同じく写真家の道を選んだ。二人のもとには新しい命が授かり、今では双子の男女が無事に一歳の誕生日を迎えている。
「ママ、パパ、今日はおじいちゃんに会いに行くんでしょ?」
まだ幼い声が弾む。
「そうだよ、早く支度しようね」
ふみと愛斗、そして双子の子どもたちの四人は、車に乗り込み、貞夫の待つ老人ホームへと向かって走り出した。窓の外には、福岡の柔らかな日差しが降り注いでいた。
ホームの明るい談話室に、車椅子に座る貞夫の姿があった。認知症の進行で記憶は曇りがちだが、窓辺に差す日差しを浴びる横顔は穏やかだ。
「おじいちゃん、こんにちは!」
双子の兄が先に駆け寄り、妹も後を追う。
貞夫はぼんやりと目を瞬かせ、次いでゆっくりと笑みを浮かべる。
「……おや、かわいいお客さんだな。どなたかね?」
「お父さん、私だよ、ふみです」
ふみが隣にしゃがみ込み、愛斗がそっと後ろから立つ。
貞夫の視線がゆっくりと愛斗に届く。
「……愛斗か? 今日も来てくれたんだな」
記憶は断片的でも、彼の名前だけは、いつも心の中に残っていた。
「はい、ただいま戻りました。今日はふみと、二人の子どもも連れてきました」
愛斗が柔らかく答えると、ふみはカメラを構える。
「みんなで笑って、おじいちゃんと一緒に写真撮ろう?」
子どもたちが貞夫の手を取り、にぎやかに話しかける。貞夫は少しずつ目に力を込め、孫たちの顔を見つめ、頬を緩める。
カシャ、カシャ
シャッター音が重なり、談話室に柔らかな笑い声が広がった。
「写真家同士で仕事を始めたんです」
愛斗が近況を話し始め、ふみも「今は子どもたちが最高のモデルなの」と目を細める。
貞夫は時折言葉が途切れながらも、二人の背中を見て、静かに頷き続けた。過去の秘密も痛みも、すっかり遠い彼方に流れ、今はただ、この瞬間だけがここにあった。
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