『神の手を持つ社長は、隠れ限界オタクを鍵盤の上で転がす』
第三章:特等席の業務命令
「大塚主任、いえ、今日からは結衣。……返事は?」
私の手を包み込む蓮さんの大きな手から、じわりと熱が伝わってくる。
その美しい指先が、今度は私の指の隙間にそっと滑り込み、ぴったりと熱を絡ませてきた。バーの鍵盤の上で、複雑な和音(コード)を抑えるときのような、迷いのない、けれどひどく強引な指の動き。
(う、嘘でしょ……オフィスで恋人繋ぎ……っ!?)
「あ、あの、社長……! 配置換えは分かりましたけれど、公私ともにというのは、その……」
「嫌かい? 毎日、俺の手を一番近くで見られる仕事なのに」
蓮さんは意地悪く眉を下げてみせる。その表情すら、計算され尽くしたように美しい。
完璧な営業部主任として鳴らした私のプライドは、彼の「神の手」による至近距離の誘惑の前に、見る影もなく消え去っていた。そもそも、恋愛経験ゼロの隠れフェチオタクに、こんなハイスペック社長の直球攻めを捌けるわけがないのだ。
「嫌、では……ないですけれど……」
「よし、交渉成立だね」
満足そうに微笑んだ蓮さんは、ようやく私の手を解放すると、デスクの上にある内線電話のボタンをスマートな指先で叩いた。
「秘書課? 営業部の大塚主任を、本日付で私の直属秘書として異動させる。手続きを急いでくれ。――ああ、それから、彼女のデスクを私の執務室内に用意してほしい」
(執務室の中!?)
こうして、私の「完璧なオフィスライフ」は、文字通り一晩で激変することになったのだった。
翌日から、私の新しい職場は社長室――の片隅に新設された、特等席のデスクになった。
表向きは「社長直轄の重要案件をサポートするための大抜擢」ということになっており、営業部の後輩たちからは「さすが大塚先輩! 社長直々に指名されるなんて憧れます!」とキラキラした目で見送られた。
(みんな、騙されないで……。私は仕事をしに来たんじゃない、社長の『手』に監禁されに来たのよ……!)
心の中でそう叫びつつも、私は秘書としての職務を完璧にこなそうと、背筋を伸ばしてパソコンに向かう。デキる女の仮面は、簡単には捨てられない。
けれど、本当の試練はそこからだった。
「結衣、この書類のチェックをお願い」
蓮さんがデスク越しに書類を差し出す。その瞬間、私のペンを持つ手が止まる。
差し出された書類を持つ、蓮さんの左手の親指。第一関節のしなやかな反り、そして白く滑らかな爪の形。
ただ書類を渡されるだけなのに、私の心臓はいちいち跳ね上がる。
「……結衣? 顔が赤いよ。熱でもあるのかい?」
蓮さんはそう言うと、デスクを回って私のすぐ後ろに立った。
そして、すっと私の額に【あの手】をかざした。
(ひゃ、あ……っ!)
大きくて、少し冷んやりとした手のひらが私の額に触れる。
その瞬間、私の脳裏には、あの隠れ家バーで彼が奏でていたJAZZの、涼しげで切ないイントロの旋律がフラッシュバックした。鍵盤の上を流れるように滑っていたあの指先が、今は私の髪を優しくかき分け、おでこを愛おしそうに撫でている。
「熱はなさそうだね。……それとも、俺の手に、またトドメを刺されちゃった?」
耳元で、あの気だるげでエモーショナルな低音ボイスが囁く。
「な、社長、仕事中、ですから……っ! 秘書課の人がいつ入ってくるか……」
「大丈夫だよ。ノックなしでは誰も入れないように言ってあるから。今は、俺と君だけの時間だ」
蓮さんはクスリと笑うと、私のデスクに両手を突いて、私を椅子の背もたれとの間に閉じ込めるような姿勢になった。
目の前には、世界一美しい一ノ瀬社長の顔。そして、私の視線のすぐ先には、デスクを捉える彼の【十本の指】。
体重を支えるために、手の甲にクッキリと男らしい筋が浮かび上がっている。バーの演奏で、激しいフォルテッシモを刻んでいたときと同じ、力強くて、雄弁な手の表情。
(ああ、もうダメ……視線のやり場が、萌え死ぬ……!)
「結衣、約束したよね。俺以外の男の手は見ないって」
「み、見てません……!」
「本当に? 今日、営業部の元後輩の男と資料の受け渡しをするとき、一瞬、彼の手元を見ていただろう」
(ええっ、そんなところまで見られてたの!?)
蓮さんの綺麗な瞳が、ほんの少しだけ独占欲を孕んで細められる。
夜のバーで、気まぐれにアドリブのテンポを速めるJAZZピアニストのように、彼は私の反応を楽しんでいるのだ。
「お仕置き、必要かな」
蓮さんはそう言うと、デスクから手を離し、私の顎をそのしなやかな指先で、すっと持ち上げた。
親指と人差し指で、優しく、けれど拒絶を許さない力加減で固定される。
理想の神の手が、私の肌に直接触れている。その指先の温もりと、圧倒的な美しさに魅了されて、私の思考は完全にホワイトアウトした。
「今夜もバーで、君のためにJAZZを弾くよ。……だから、その前に、俺の手の感触、もっと体に覚え込ませて?」
顔が近づいてくる。
彼の長い指先が、私の首筋へと滑り落ち、優しく、エモーショナルに愛撫を刻んでゆく。
まるで、私という存在を丸ごと、お気に入りのピアノの鍵盤のように扱い、極上のメロディを奏でるかのように。
恋愛経験ゼロの私は、ただその神の手の動きに翻弄され、熱い吐息を漏らすことしかできなかった。
仕事も、恋も、完璧に装うなんて、最初から不可能だったのだ。
私はもう、この美しい指先が奏でる、溺愛のアドリブから、一生逃れられない――。
(第四章・最終章へ続く)
私の手を包み込む蓮さんの大きな手から、じわりと熱が伝わってくる。
その美しい指先が、今度は私の指の隙間にそっと滑り込み、ぴったりと熱を絡ませてきた。バーの鍵盤の上で、複雑な和音(コード)を抑えるときのような、迷いのない、けれどひどく強引な指の動き。
(う、嘘でしょ……オフィスで恋人繋ぎ……っ!?)
「あ、あの、社長……! 配置換えは分かりましたけれど、公私ともにというのは、その……」
「嫌かい? 毎日、俺の手を一番近くで見られる仕事なのに」
蓮さんは意地悪く眉を下げてみせる。その表情すら、計算され尽くしたように美しい。
完璧な営業部主任として鳴らした私のプライドは、彼の「神の手」による至近距離の誘惑の前に、見る影もなく消え去っていた。そもそも、恋愛経験ゼロの隠れフェチオタクに、こんなハイスペック社長の直球攻めを捌けるわけがないのだ。
「嫌、では……ないですけれど……」
「よし、交渉成立だね」
満足そうに微笑んだ蓮さんは、ようやく私の手を解放すると、デスクの上にある内線電話のボタンをスマートな指先で叩いた。
「秘書課? 営業部の大塚主任を、本日付で私の直属秘書として異動させる。手続きを急いでくれ。――ああ、それから、彼女のデスクを私の執務室内に用意してほしい」
(執務室の中!?)
こうして、私の「完璧なオフィスライフ」は、文字通り一晩で激変することになったのだった。
翌日から、私の新しい職場は社長室――の片隅に新設された、特等席のデスクになった。
表向きは「社長直轄の重要案件をサポートするための大抜擢」ということになっており、営業部の後輩たちからは「さすが大塚先輩! 社長直々に指名されるなんて憧れます!」とキラキラした目で見送られた。
(みんな、騙されないで……。私は仕事をしに来たんじゃない、社長の『手』に監禁されに来たのよ……!)
心の中でそう叫びつつも、私は秘書としての職務を完璧にこなそうと、背筋を伸ばしてパソコンに向かう。デキる女の仮面は、簡単には捨てられない。
けれど、本当の試練はそこからだった。
「結衣、この書類のチェックをお願い」
蓮さんがデスク越しに書類を差し出す。その瞬間、私のペンを持つ手が止まる。
差し出された書類を持つ、蓮さんの左手の親指。第一関節のしなやかな反り、そして白く滑らかな爪の形。
ただ書類を渡されるだけなのに、私の心臓はいちいち跳ね上がる。
「……結衣? 顔が赤いよ。熱でもあるのかい?」
蓮さんはそう言うと、デスクを回って私のすぐ後ろに立った。
そして、すっと私の額に【あの手】をかざした。
(ひゃ、あ……っ!)
大きくて、少し冷んやりとした手のひらが私の額に触れる。
その瞬間、私の脳裏には、あの隠れ家バーで彼が奏でていたJAZZの、涼しげで切ないイントロの旋律がフラッシュバックした。鍵盤の上を流れるように滑っていたあの指先が、今は私の髪を優しくかき分け、おでこを愛おしそうに撫でている。
「熱はなさそうだね。……それとも、俺の手に、またトドメを刺されちゃった?」
耳元で、あの気だるげでエモーショナルな低音ボイスが囁く。
「な、社長、仕事中、ですから……っ! 秘書課の人がいつ入ってくるか……」
「大丈夫だよ。ノックなしでは誰も入れないように言ってあるから。今は、俺と君だけの時間だ」
蓮さんはクスリと笑うと、私のデスクに両手を突いて、私を椅子の背もたれとの間に閉じ込めるような姿勢になった。
目の前には、世界一美しい一ノ瀬社長の顔。そして、私の視線のすぐ先には、デスクを捉える彼の【十本の指】。
体重を支えるために、手の甲にクッキリと男らしい筋が浮かび上がっている。バーの演奏で、激しいフォルテッシモを刻んでいたときと同じ、力強くて、雄弁な手の表情。
(ああ、もうダメ……視線のやり場が、萌え死ぬ……!)
「結衣、約束したよね。俺以外の男の手は見ないって」
「み、見てません……!」
「本当に? 今日、営業部の元後輩の男と資料の受け渡しをするとき、一瞬、彼の手元を見ていただろう」
(ええっ、そんなところまで見られてたの!?)
蓮さんの綺麗な瞳が、ほんの少しだけ独占欲を孕んで細められる。
夜のバーで、気まぐれにアドリブのテンポを速めるJAZZピアニストのように、彼は私の反応を楽しんでいるのだ。
「お仕置き、必要かな」
蓮さんはそう言うと、デスクから手を離し、私の顎をそのしなやかな指先で、すっと持ち上げた。
親指と人差し指で、優しく、けれど拒絶を許さない力加減で固定される。
理想の神の手が、私の肌に直接触れている。その指先の温もりと、圧倒的な美しさに魅了されて、私の思考は完全にホワイトアウトした。
「今夜もバーで、君のためにJAZZを弾くよ。……だから、その前に、俺の手の感触、もっと体に覚え込ませて?」
顔が近づいてくる。
彼の長い指先が、私の首筋へと滑り落ち、優しく、エモーショナルに愛撫を刻んでゆく。
まるで、私という存在を丸ごと、お気に入りのピアノの鍵盤のように扱い、極上のメロディを奏でるかのように。
恋愛経験ゼロの私は、ただその神の手の動きに翻弄され、熱い吐息を漏らすことしかできなかった。
仕事も、恋も、完璧に装うなんて、最初から不可能だったのだ。
私はもう、この美しい指先が奏でる、溺愛のアドリブから、一生逃れられない――。
(第四章・最終章へ続く)