硝子の鍵~season2
Key·4 普通じゃない普通
普通に会いたいです。
送ったあとで、自分がいちばん普通から遠いことを言ったのだと気づいた。
灯理さんと、普通に会う。
その言葉の中には、たぶん何も普通ではないものが詰まっている。
手を繋いだ夜がある。
戻れない教室の話がある。
陽斗のまなざしがある。
佐伯の忠告がある。
そして、俺の中には、まだ言葉にしきれない欲がある。
会いたい。
声を聞きたい。
もう一度、あの手に触れたい。
それを普通と呼ぶには、あまりにも胸の奥が騒がしかった。
待ち合わせは、駅の近くにした。
灯理さんが来やすい場所。
人通りがあって、けれど長く立ち止まっていても不自然ではない場所。
そう考えて選んだつもりだった。
けれど、本当は俺が逃げ道を残したかったのかもしれない。
近づきすぎないように。
二人きりになりすぎないように。
自分がまた、触れたいと思ってしまった時のために。
冬の夕方は早く暗くなる。
駅前の街灯が、まだ完全には夜になりきらない空の下で、少しだけ頼りなく光っていた。
俺は、何度も時計を見た。
約束の時間まで、まだ十分ある。
早く着きすぎた。
分かっているのに、帰るわけにもいかない。
手袋をした右手を、無意識に握る。
あの夜、灯理さんの手を繋いだ方の手。
馬鹿みたいだ。
そう思った時、改札の方から小さく名前を呼ばれた。
「利月くん」
振り向くと、灯理さんが立っていた。
白い息を吐きながら、少しだけ肩をすくめている。
髪が、冬の風で頬にかかっていた。
その髪を指で押さえる仕草を見ただけで、胸の奥が静かに熱くなる。
「待ちましたか」
「いえ。今来たところです」
嘘だった。
灯理さんは少し目を細めた。
「嘘ですね」
「……十分くらいです」
「十分は待ってます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
そう言って、灯理さんは小さく笑った。
その笑顔が、少しだけぎこちなかった。
俺もきっと、同じような顔をしていたと思う。
「寒くないですか」
「寒いです」
「じゃあ、どこか入りますか」
「はい」
それだけの会話なのに、ひとつひとつ慎重になる。
近づきすぎないように。
でも、遠くなりすぎないように。
駅前の小さなカフェに入った。
夕方の店内は、仕事帰りの人や学生でほどほどに混んでいた。
二人で向かい合う席に座る。
灯理さんは、温かいミルクティーを選んだ。
俺はコーヒーにしようとして、やめた。
「コーヒーじゃないんですか」
灯理さんがメニュー越しに聞いた。
「今日は、やめておきます」
「どうして」
「苦いものを飲むと、余計に考えそうなので」
灯理さんは一瞬だけきょとんとして、それから笑った。
「利月くん、真面目に変なこと言いますよね」
「変ですか」
「はい。けっこう」
「気をつけます」
「気をつけなくていいです」
その言い方が優しくて、胸の奥が少しだけ緩んだ。
普通に話す。
それは、難しいと思っていた。
実際、難しかった。
けれど、まったくできないわけではなかった。
陽斗の星座のしおりの話。
恐竜博士が星を見るようになった話。
佐伯が相変わらず人の顔ばかり見る話。
灯理さんは、陽斗の話になると目元を柔らかくした。
でも、その柔らかさの中に、時々ほんの少しだけ影が差す。
母親の顔。
俺が好きな人の顔。
その二つが、同じ人の中にある。
それを見ていると、胸が痛くなる。
「陽斗、何か言ってましたか」
灯理さんが聞いた。
「俺にですか」
「はい」
「星を見る恐竜博士になるそうです」
「何それ」
灯理さんが笑った。
今度は、さっきより少し自然な笑い方だった。
「陽斗らしい」
「はい」
「昔から、恐竜と宇宙が好きで」
そう言いかけて、灯理さんは少しだけ言葉を止めた。
昔から。
その言葉の奥に、俺の知らない時間がある。
陽斗がもっと小さかった頃。
灯理さんが一人で抱えてきた時間。
俺がいない時間。
そこに嫉妬するのは違うと分かっている。
でも、少しだけ苦しくなる。
俺は、彼女の今にしか触れられない。
それでも、今の彼女の中には、全部の過去がある。
「灯理さん」
名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。
「はい」
「今日は、難しい話はしないつもりでした」
「はい」
「でも、普通の話をしていても、普通じゃなくなるんですね」
灯理さんは、少しだけ目を伏せた。
「普通って、難しいですね」
「はい」
「でも」
彼女はカップを両手で包みながら、小さく続けた。
「難しい話をしないで会うのも、少し怖かったです」
「どうしてですか」
「痛い話がある時は、痛いって言えます」
灯理さんは、カップの中のミルクティーを見つめた。
「でも、普通に会って、普通に笑って、それでも利月くんのことを好きだと思ったら」
そこで言葉が止まった。
胸が、大きく鳴った。
店内の音が遠くなる。
「思ったら?」
聞いていいのか迷いながら、聞いてしまった。
灯理さんは、少しだけ困ったように笑った。
「逃げ道がなくなる気がしました」
その言葉は、甘いのに痛かった。
好きだと思うことが、逃げ道をなくす。
その感覚が、少し分かる気がした。
俺も同じだった。
先生だから。
陽斗がいるから。
佐伯が見ているから。
そんな理由を並べれば、いくらでも立ち止まることはできる。
でも、灯理さんとこうして向かい合って、普通に笑ってしまうと、理由より先に気持ちが立ってしまう。
好きだ。
ただ、それだけが静かに残ってしまう。
「俺も、怖いです」
そう言うと、灯理さんが顔を上げた。
「利月くんも?」
「はい」
「何が怖いですか」
「普通に会って、普通に話して、それでももっと会いたくなることです」
灯理さんの目が揺れた。
「手を繋いだだけで、あんなに考えたのに」
俺は自分の右手を見た。
「今日会ったら、また次を考えてしまう」
言ってから、少し後悔した。
正直すぎたかもしれない。
でも、灯理さんは嫌な顔をしなかった。
ただ、少しだけ頬を赤くして、カップに目を落とした。
「それは」
「はい」
「私も、少し思いました」
声が小さかった。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
カフェを出る頃には、外はすっかり夜になっていた。
駅前の灯りが、濡れてもいない歩道にぼんやり滲んで見える。
人はまだ多い。
けれど、さっきよりも世界が少し静かに感じた。
「送ります」
「駅までで大丈夫です」
「駅まで送ります」
「同じです」
「同じですね」
灯理さんが笑った。
その横顔を見ながら、俺はどうしようもなく手を繋ぎたいと思った。
でも、すぐには言えなかった。
手を繋ぐことは、もう一度許されたらいいものではない。
一度繋いだから、次も当たり前になるわけではない。
そう思っていると、灯理さんがふいに足を止めた。
「利月くん」
「はい」
「今日は、聞かないんですか」
「何をですか」
聞き返してから、すぐに分かった。
灯理さんは、少しだけ目を逸らした。
「手」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
俺は息を吸った。
「繋いでもいいですか」
灯理さんは、目を逸らしたまま小さく頷いた。
「はい」
手袋越しに、彼女の手を取った。
それだけなのに、身体の中の温度が変わる。
あの夜と同じ右手。
でも、同じではない。
今日は、彼女から言ってくれた。
聞かないんですか、と。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
駅までの短い道を、手を繋いで歩いた。
会話は少なかった。
けれど、沈黙は怖くなかった。
むしろ、言葉にしないものが手の中に集まっていくようだった。
改札の手前で、灯理さんが立ち止まった。
もう帰らなければならない。
分かっている。
分かっているのに、手を離せなかった。
灯理さんも、すぐには離さなかった。
「利月くん」
「はい」
「今日、普通でしたか」
俺は少し考えた。
「普通ではなかったです」
灯理さんが小さく笑う。
「ですよね」
「でも」
彼女の手を、ほんの少しだけ握り返した。
「普通じゃなくてよかったです」
灯理さんの笑顔が、少しだけ崩れた。
泣きそうにも見えた。
でも、涙は落ちなかった。
「そういうこと言うから」
「はい」
「ずるいです」
「聞きます」
いつものように返したつもりだった。
けれど、その夜は、いつもより彼女の顔が近かった。
駅前の灯り。
冬の風。
繋いだままの手。
離れなければならない場所で、離れられない時間。
俺は、その距離を見てしまった。
唇までの距離。
あの夜、越えなかった距離。
「灯理さん」
声が、自分でも分かるくらい低くなった。
彼女が俺を見る。
「はい」
聞くべきか、迷った。
でも、聞かずに触れることはできなかった。
俺は、彼女の手を離さないまま言った。
「今日は、キスしてもいいですか」
灯理さんの目が、大きく揺れた。
時間が止まったようだった。
駅のアナウンスが、どこか遠くで鳴っている。
人が通り過ぎる。
それでも、その一瞬だけは、俺たちの周りだけが静かだった。
「聞くんですか」
灯理さんが、小さく言った。
「聞きます」
「聞かれたら、余計に恥ずかしいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
でも、その笑い方は震えていた。
「聞かない方がいいですか」
俺が言うと、灯理さんは首を横に振った。
「聞いてくれる方が、利月くんらしいです」
胸が苦しくなった。
「いいですか」
もう一度聞いた。
灯理さんは、今度はちゃんと俺を見た。
そして、小さく頷いた。
「はい」
その一言で、世界の音が変わった気がした。
俺は、繋いでいた手を少しだけ引いた。
灯理さんが一歩近づく。
近い。
あの夜よりも、近い。
彼女の息が白く揺れる。
俺は、空いている方の手で、彼女の髪に触れた。
頬にかかっていた髪を、そっと耳の方へ避ける。
その指先が震えているのが、自分でも分かった。
灯理さんは逃げなかった。
目を閉じる前に、一瞬だけ俺を見た。
その目が、怖いと言っているようにも、待っていると言っているようにも見えた。
俺は、ゆっくり顔を近づけた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
冬の空気よりも、少しだけ冷たい唇だった。
けれど、離れる頃には、そこに確かに熱が残っていた。
触れただけのキス。
それでも、俺の中では何かが静かに崩れた。
壊したくないと思っていた。
でも、触れたいと思っていた。
その二つが、同じ場所にあることを、俺は初めて知った。
顔を離すと、灯理さんは目を伏せたままだった。
頬が赤い。
俺は、何か言おうとして、言葉を失った。
「短いですね」
灯理さんがぽつりと言った。
息が止まった。
「……すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
彼女は小さく笑った。
その笑い方が、痛いくらい愛おしかった。
「長かったら、たぶん私、帰れなくなります」
その言葉で、胸の奥が熱くなる。
俺は、繋いだ手に力を込めた。
「俺もです」
正直に言った。
灯理さんが、少しだけ驚いた顔をした。
「利月くんでも?」
「俺でも、です」
そう言うと、彼女はまた目を伏せた。
「ずるい」
「聞きます」
「今日は、そればっかり」
「はい」
「でも」
灯理さんは、繋いだ手を少しだけ握り返した。
「嫌じゃないです」
胸が詰まった。
その一言だけで、十分だった。
十分すぎた。
もう一度キスをしたいと思った。
今度は、さっきよりも長く。
彼女の手を引いて、どこにも帰したくないと思った。
そんな自分に気づいて、息を止める。
俺は三十歳の男で、綺麗な理性だけでできているわけではない。
好きな人が目の前にいて、触れても拒まれなくて、嫌じゃないと言われて。
それで何も考えない方が嘘だった。
けれど、今夜はここまでだ。
ここで止まることを、自分に言い聞かせた。
「灯理さん」
「はい」
「今日は、ここで帰します」
彼女が少しだけ目を上げた。
「帰します?」
「帰ってください、と言うと、俺が言いたくないので」
灯理さんは、一瞬だけ驚いて、それから笑った。
「利月くん、たまに正直すぎます」
「気をつけます」
「気をつけなくていいです」
その言葉が、胸に残った。
改札の前で、ようやく手を離した。
離れた瞬間、冷たい空気が指の間に入ってくる。
灯理さんは改札を通る前に、振り返った。
「利月くん」
「はい」
「普通じゃなかったですね」
「はい」
「でも」
彼女は少しだけ笑った。
「また、普通じゃない普通をしてください」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
分かった瞬間、胸の奥が熱くなる。
「はい」
俺は頷いた。
「また、会ってください」
灯理さんは、今度は逃げずに頷いた。
「はい」
改札の向こうへ消えていく背中を、俺はしばらく見送った。
唇に、まだ彼女の熱が残っていた。
右手にも。
胸の奥にも。
俺たちは、普通に会うことはできなかった。
でも、それでよかった。
普通じゃないまま、少しずつ近づいていく。
その先に何があるのか、まだ分からない。
陽斗のこと。
佐伯のこと。
灯理さんの戻れない教室。
俺の中にある欲と臆病さ。
何ひとつ消えたわけではない。
それでも今夜、俺たちは確かにひとつ進んだ。
硝子の鍵は、初めて唇の温度を知った。
まだ開けきれない扉の前で、
それでも確かに、鍵は少しだけ回り始めていた。
送ったあとで、自分がいちばん普通から遠いことを言ったのだと気づいた。
灯理さんと、普通に会う。
その言葉の中には、たぶん何も普通ではないものが詰まっている。
手を繋いだ夜がある。
戻れない教室の話がある。
陽斗のまなざしがある。
佐伯の忠告がある。
そして、俺の中には、まだ言葉にしきれない欲がある。
会いたい。
声を聞きたい。
もう一度、あの手に触れたい。
それを普通と呼ぶには、あまりにも胸の奥が騒がしかった。
待ち合わせは、駅の近くにした。
灯理さんが来やすい場所。
人通りがあって、けれど長く立ち止まっていても不自然ではない場所。
そう考えて選んだつもりだった。
けれど、本当は俺が逃げ道を残したかったのかもしれない。
近づきすぎないように。
二人きりになりすぎないように。
自分がまた、触れたいと思ってしまった時のために。
冬の夕方は早く暗くなる。
駅前の街灯が、まだ完全には夜になりきらない空の下で、少しだけ頼りなく光っていた。
俺は、何度も時計を見た。
約束の時間まで、まだ十分ある。
早く着きすぎた。
分かっているのに、帰るわけにもいかない。
手袋をした右手を、無意識に握る。
あの夜、灯理さんの手を繋いだ方の手。
馬鹿みたいだ。
そう思った時、改札の方から小さく名前を呼ばれた。
「利月くん」
振り向くと、灯理さんが立っていた。
白い息を吐きながら、少しだけ肩をすくめている。
髪が、冬の風で頬にかかっていた。
その髪を指で押さえる仕草を見ただけで、胸の奥が静かに熱くなる。
「待ちましたか」
「いえ。今来たところです」
嘘だった。
灯理さんは少し目を細めた。
「嘘ですね」
「……十分くらいです」
「十分は待ってます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
そう言って、灯理さんは小さく笑った。
その笑顔が、少しだけぎこちなかった。
俺もきっと、同じような顔をしていたと思う。
「寒くないですか」
「寒いです」
「じゃあ、どこか入りますか」
「はい」
それだけの会話なのに、ひとつひとつ慎重になる。
近づきすぎないように。
でも、遠くなりすぎないように。
駅前の小さなカフェに入った。
夕方の店内は、仕事帰りの人や学生でほどほどに混んでいた。
二人で向かい合う席に座る。
灯理さんは、温かいミルクティーを選んだ。
俺はコーヒーにしようとして、やめた。
「コーヒーじゃないんですか」
灯理さんがメニュー越しに聞いた。
「今日は、やめておきます」
「どうして」
「苦いものを飲むと、余計に考えそうなので」
灯理さんは一瞬だけきょとんとして、それから笑った。
「利月くん、真面目に変なこと言いますよね」
「変ですか」
「はい。けっこう」
「気をつけます」
「気をつけなくていいです」
その言い方が優しくて、胸の奥が少しだけ緩んだ。
普通に話す。
それは、難しいと思っていた。
実際、難しかった。
けれど、まったくできないわけではなかった。
陽斗の星座のしおりの話。
恐竜博士が星を見るようになった話。
佐伯が相変わらず人の顔ばかり見る話。
灯理さんは、陽斗の話になると目元を柔らかくした。
でも、その柔らかさの中に、時々ほんの少しだけ影が差す。
母親の顔。
俺が好きな人の顔。
その二つが、同じ人の中にある。
それを見ていると、胸が痛くなる。
「陽斗、何か言ってましたか」
灯理さんが聞いた。
「俺にですか」
「はい」
「星を見る恐竜博士になるそうです」
「何それ」
灯理さんが笑った。
今度は、さっきより少し自然な笑い方だった。
「陽斗らしい」
「はい」
「昔から、恐竜と宇宙が好きで」
そう言いかけて、灯理さんは少しだけ言葉を止めた。
昔から。
その言葉の奥に、俺の知らない時間がある。
陽斗がもっと小さかった頃。
灯理さんが一人で抱えてきた時間。
俺がいない時間。
そこに嫉妬するのは違うと分かっている。
でも、少しだけ苦しくなる。
俺は、彼女の今にしか触れられない。
それでも、今の彼女の中には、全部の過去がある。
「灯理さん」
名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。
「はい」
「今日は、難しい話はしないつもりでした」
「はい」
「でも、普通の話をしていても、普通じゃなくなるんですね」
灯理さんは、少しだけ目を伏せた。
「普通って、難しいですね」
「はい」
「でも」
彼女はカップを両手で包みながら、小さく続けた。
「難しい話をしないで会うのも、少し怖かったです」
「どうしてですか」
「痛い話がある時は、痛いって言えます」
灯理さんは、カップの中のミルクティーを見つめた。
「でも、普通に会って、普通に笑って、それでも利月くんのことを好きだと思ったら」
そこで言葉が止まった。
胸が、大きく鳴った。
店内の音が遠くなる。
「思ったら?」
聞いていいのか迷いながら、聞いてしまった。
灯理さんは、少しだけ困ったように笑った。
「逃げ道がなくなる気がしました」
その言葉は、甘いのに痛かった。
好きだと思うことが、逃げ道をなくす。
その感覚が、少し分かる気がした。
俺も同じだった。
先生だから。
陽斗がいるから。
佐伯が見ているから。
そんな理由を並べれば、いくらでも立ち止まることはできる。
でも、灯理さんとこうして向かい合って、普通に笑ってしまうと、理由より先に気持ちが立ってしまう。
好きだ。
ただ、それだけが静かに残ってしまう。
「俺も、怖いです」
そう言うと、灯理さんが顔を上げた。
「利月くんも?」
「はい」
「何が怖いですか」
「普通に会って、普通に話して、それでももっと会いたくなることです」
灯理さんの目が揺れた。
「手を繋いだだけで、あんなに考えたのに」
俺は自分の右手を見た。
「今日会ったら、また次を考えてしまう」
言ってから、少し後悔した。
正直すぎたかもしれない。
でも、灯理さんは嫌な顔をしなかった。
ただ、少しだけ頬を赤くして、カップに目を落とした。
「それは」
「はい」
「私も、少し思いました」
声が小さかった。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
カフェを出る頃には、外はすっかり夜になっていた。
駅前の灯りが、濡れてもいない歩道にぼんやり滲んで見える。
人はまだ多い。
けれど、さっきよりも世界が少し静かに感じた。
「送ります」
「駅までで大丈夫です」
「駅まで送ります」
「同じです」
「同じですね」
灯理さんが笑った。
その横顔を見ながら、俺はどうしようもなく手を繋ぎたいと思った。
でも、すぐには言えなかった。
手を繋ぐことは、もう一度許されたらいいものではない。
一度繋いだから、次も当たり前になるわけではない。
そう思っていると、灯理さんがふいに足を止めた。
「利月くん」
「はい」
「今日は、聞かないんですか」
「何をですか」
聞き返してから、すぐに分かった。
灯理さんは、少しだけ目を逸らした。
「手」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
俺は息を吸った。
「繋いでもいいですか」
灯理さんは、目を逸らしたまま小さく頷いた。
「はい」
手袋越しに、彼女の手を取った。
それだけなのに、身体の中の温度が変わる。
あの夜と同じ右手。
でも、同じではない。
今日は、彼女から言ってくれた。
聞かないんですか、と。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
駅までの短い道を、手を繋いで歩いた。
会話は少なかった。
けれど、沈黙は怖くなかった。
むしろ、言葉にしないものが手の中に集まっていくようだった。
改札の手前で、灯理さんが立ち止まった。
もう帰らなければならない。
分かっている。
分かっているのに、手を離せなかった。
灯理さんも、すぐには離さなかった。
「利月くん」
「はい」
「今日、普通でしたか」
俺は少し考えた。
「普通ではなかったです」
灯理さんが小さく笑う。
「ですよね」
「でも」
彼女の手を、ほんの少しだけ握り返した。
「普通じゃなくてよかったです」
灯理さんの笑顔が、少しだけ崩れた。
泣きそうにも見えた。
でも、涙は落ちなかった。
「そういうこと言うから」
「はい」
「ずるいです」
「聞きます」
いつものように返したつもりだった。
けれど、その夜は、いつもより彼女の顔が近かった。
駅前の灯り。
冬の風。
繋いだままの手。
離れなければならない場所で、離れられない時間。
俺は、その距離を見てしまった。
唇までの距離。
あの夜、越えなかった距離。
「灯理さん」
声が、自分でも分かるくらい低くなった。
彼女が俺を見る。
「はい」
聞くべきか、迷った。
でも、聞かずに触れることはできなかった。
俺は、彼女の手を離さないまま言った。
「今日は、キスしてもいいですか」
灯理さんの目が、大きく揺れた。
時間が止まったようだった。
駅のアナウンスが、どこか遠くで鳴っている。
人が通り過ぎる。
それでも、その一瞬だけは、俺たちの周りだけが静かだった。
「聞くんですか」
灯理さんが、小さく言った。
「聞きます」
「聞かれたら、余計に恥ずかしいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
でも、その笑い方は震えていた。
「聞かない方がいいですか」
俺が言うと、灯理さんは首を横に振った。
「聞いてくれる方が、利月くんらしいです」
胸が苦しくなった。
「いいですか」
もう一度聞いた。
灯理さんは、今度はちゃんと俺を見た。
そして、小さく頷いた。
「はい」
その一言で、世界の音が変わった気がした。
俺は、繋いでいた手を少しだけ引いた。
灯理さんが一歩近づく。
近い。
あの夜よりも、近い。
彼女の息が白く揺れる。
俺は、空いている方の手で、彼女の髪に触れた。
頬にかかっていた髪を、そっと耳の方へ避ける。
その指先が震えているのが、自分でも分かった。
灯理さんは逃げなかった。
目を閉じる前に、一瞬だけ俺を見た。
その目が、怖いと言っているようにも、待っていると言っているようにも見えた。
俺は、ゆっくり顔を近づけた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
冬の空気よりも、少しだけ冷たい唇だった。
けれど、離れる頃には、そこに確かに熱が残っていた。
触れただけのキス。
それでも、俺の中では何かが静かに崩れた。
壊したくないと思っていた。
でも、触れたいと思っていた。
その二つが、同じ場所にあることを、俺は初めて知った。
顔を離すと、灯理さんは目を伏せたままだった。
頬が赤い。
俺は、何か言おうとして、言葉を失った。
「短いですね」
灯理さんがぽつりと言った。
息が止まった。
「……すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
彼女は小さく笑った。
その笑い方が、痛いくらい愛おしかった。
「長かったら、たぶん私、帰れなくなります」
その言葉で、胸の奥が熱くなる。
俺は、繋いだ手に力を込めた。
「俺もです」
正直に言った。
灯理さんが、少しだけ驚いた顔をした。
「利月くんでも?」
「俺でも、です」
そう言うと、彼女はまた目を伏せた。
「ずるい」
「聞きます」
「今日は、そればっかり」
「はい」
「でも」
灯理さんは、繋いだ手を少しだけ握り返した。
「嫌じゃないです」
胸が詰まった。
その一言だけで、十分だった。
十分すぎた。
もう一度キスをしたいと思った。
今度は、さっきよりも長く。
彼女の手を引いて、どこにも帰したくないと思った。
そんな自分に気づいて、息を止める。
俺は三十歳の男で、綺麗な理性だけでできているわけではない。
好きな人が目の前にいて、触れても拒まれなくて、嫌じゃないと言われて。
それで何も考えない方が嘘だった。
けれど、今夜はここまでだ。
ここで止まることを、自分に言い聞かせた。
「灯理さん」
「はい」
「今日は、ここで帰します」
彼女が少しだけ目を上げた。
「帰します?」
「帰ってください、と言うと、俺が言いたくないので」
灯理さんは、一瞬だけ驚いて、それから笑った。
「利月くん、たまに正直すぎます」
「気をつけます」
「気をつけなくていいです」
その言葉が、胸に残った。
改札の前で、ようやく手を離した。
離れた瞬間、冷たい空気が指の間に入ってくる。
灯理さんは改札を通る前に、振り返った。
「利月くん」
「はい」
「普通じゃなかったですね」
「はい」
「でも」
彼女は少しだけ笑った。
「また、普通じゃない普通をしてください」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
分かった瞬間、胸の奥が熱くなる。
「はい」
俺は頷いた。
「また、会ってください」
灯理さんは、今度は逃げずに頷いた。
「はい」
改札の向こうへ消えていく背中を、俺はしばらく見送った。
唇に、まだ彼女の熱が残っていた。
右手にも。
胸の奥にも。
俺たちは、普通に会うことはできなかった。
でも、それでよかった。
普通じゃないまま、少しずつ近づいていく。
その先に何があるのか、まだ分からない。
陽斗のこと。
佐伯のこと。
灯理さんの戻れない教室。
俺の中にある欲と臆病さ。
何ひとつ消えたわけではない。
それでも今夜、俺たちは確かにひとつ進んだ。
硝子の鍵は、初めて唇の温度を知った。
まだ開けきれない扉の前で、
それでも確かに、鍵は少しだけ回り始めていた。