硝子の鍵~season2

Key·5 開きかけた扉

キスをした夜から、俺は自分の唇を意識するようになった。

馬鹿みたいだと思う。

けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。

駅前の灯り。
冬の風。
灯理さんの白い息。
触れた唇の、最初の冷たさ。

そして、離れる頃にはそこに残っていた熱。

あれは、本当に一瞬だった。

触れただけ、と言ってもいいくらいのキスだった。

それなのに、俺の中では何かが変わってしまった。

手を繋いだ時とは違う。

額を寄せた時とも違う。

唇に触れた。

その事実だけが、何度も胸の奥で静かに鳴る。

あれから灯理さんとは、何度か短いメッセージを交わした。

『ちゃんと寝ましたか』

『少し寝ました』

『少し、は寝たに入りません』

そんなやり取り。

なんでもない言葉のはずなのに、どれも手放せなかった。

重い話をしない日常。

けれど、日常に戻ったふりをすればするほど、あの夜のキスが輪郭を持つ。

普通じゃない普通。

灯理さんは、そう言った。

また、普通じゃない普通をしてください。

その言葉を思い出すたびに、俺はどうしようもなく彼女に会いたくなった。

会いたい。

触れたい。

もう一度キスをしたい。

その先を、考えなかったと言えば嘘になる。

俺は三十歳の男で、好きな人に触れたあとも綺麗な気持ちだけでいられるほど、できてはいない。

大事にしたいと思う。

同じ胸の中で、欲しいとも思う。

その二つは、いつも同じ場所でぶつかっていた。

その週の終わり、灯理さんからメッセージが届いた。

『少しだけ会えますか』

俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。

会いたいと願っていたのに、彼女から言われると息が止まる。

『もちろんです』

そう返すまでに、何度も文字を消した。

待ち合わせは、駅前だった。

前にキスをした場所に近い。

あの夜と同じように、街灯が水面に細く揺れていた。

灯理さんは、改札の近くで待っていた。

マフラーに少しだけ顔を埋めて、手袋をした指先を胸の前で重ねている。

俺を見つけると、小さく手を上げた。

その仕草だけで、胸の奥が苦しくなる。

「待ちましたか」

「少しだけ」

「すみません」

「謝るところじゃないです」

前にも同じことを言われた。

それに気づいて、二人で少しだけ笑った。

けれど、その笑い方は、前よりもずっと近かった。

近いから、怖かった。

「どこか入りますか」

俺が聞くと、灯理さんは駅前の通りを見た。

店の灯りはまだいくつか残っている。

けれど、どこも混んでいた。

金曜の夜だった。

人の声。
車の音。
店の前で立ち止まる人たち。

普通に会いたいと言ったのに、普通に話せる場所が見つからない。

「寒いですね」

灯理さんがぽつりと言った。

「はい」

俺は彼女の手元を見た。

手袋をしているのに、指先が少し固くなっている。

「少し、温まっていきますか」

言ってから、自分で息を止めた。

灯理さんが顔を上げる。

「どこで?」

聞かれて、答えに詰まった。

近くのカフェは混んでいる。

駅の待合室では、人目がありすぎる。

俺の部屋は、ここから歩いて十分もかからない。

でも、それを言っていいのか分からなかった。

言えば、何かが変わる。

変わると分かっていて、口にしそうになった自分がいた。

「……すみません。今のは」

「利月くんの家?」

灯理さんが、俺より先に言った。

胸の奥が、静かに跳ねた。

「だめです」

反射的に言っていた。

灯理さんが少しだけ目を丸くする。

「どうして」

「俺が、ちゃんと考えられなくなるからです」

言った瞬間、頬が熱くなった。

あまりにも正直すぎた。

灯理さんは目を伏せた。

マフラーの端を、指先で少しだけ握る。

「考えなくてもいいのに」

小さな声だった。

その一言で、冬の空気が変わった。

俺は、しばらく何も言えなかった。

「灯理さん」

「はい」

「意味、分かって言ってますか」

彼女は逃げなかった。

怖そうな顔をしているのに、目を逸らさなかった。

「分かってます」

声は震えていた。

でも、嘘ではなかった。

「行きたいです」

その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性が、音もなく一歩後ろへ下がった。

それでも、最後にもう一度だけ確認した。

「本当に、嫌になったらすぐ言ってください」

灯理さんは、小さく頷いた。

「はい」

「俺も、止まるようにします」

「止まるように?」

「止まれないかもしれないと思ってるから、今言ってます」

灯理さんの目が揺れた。

その揺れを見て、俺は自分がもう十分に危ない場所へ踏み込んでいることを知った。

俺の部屋までの道を、二人で歩いた。

会話は少なかった。

手は繋がなかった。

繋げなかった。

繋いだら、そのままどこか戻れなくなる気がした。

アパートの階段を上がる音が、やけに大きく聞こえた。

鍵を開ける手が少し震える。

灯理さんには見えないようにしたつもりだった。

でも、きっと見えていたと思う。

「どうぞ」

扉を開けて言うと、灯理さんは小さく頭を下げて中に入った。

その瞬間、部屋の空気が変わった。

灯理さんが俺の部屋にいる。

その事実だけで、いつもなら何も感じないものが急に意味を持った。

本棚。
机。
椅子に掛けたカーディガン。
洗い忘れたマグカップ。
整えたはずのベッド。

全部が、自分の内側を見られているようで落ち着かなかった。

「すみません。片づいてなくて」

「片づいてます」

灯理さんは靴をそろえて、部屋を見回した。

「利月くんらしいです」

「俺らしい?」

「静かです」

そう言って、彼女は本棚の前で立ち止まった。

教育書と小説が半分ずつ並んでいる背表紙を、灯理さんの目がゆっくり追う。

職員室で見る登坂先生でもない。

陽斗が知っている先生でもない。

ここにいるのは、ひとりで帰ってきて、ひとりで眠って、ひとりで朝を迎える男だった。

その場所に、灯理さんがいる。

そう思った瞬間、手を伸ばしたい衝動が強くなった。

「お茶、いれます」

「大丈夫です」

「でも」

「座ってください」

灯理さんにそう言われて、俺は動きを止めた。

自分の部屋なのに、彼女の方が落ち着いて見えた。

いや、違う。

落ち着いて見せているだけだ。

灯理さんの指先は、まだ少し震えていた。

「寒いですか」

「少し」

俺は暖房の温度を上げた。

その間にも、灯理さんは部屋の中をゆっくり見ていた。

俺の生活。

俺のひとりの時間。

俺が誰にも見せずにいた場所。

そこに彼女を入れている。

そのことが、ひどく現実だった。

「利月くん」

呼ばれて振り向くと、灯理さんはベッドの端には座らず、少し離れた床に視線を落としていた。

「はい」

「緊張してますか」

「しています」

正直に答えると、灯理さんは小さく笑った。

「利月くんでも?」

「俺でも、です」

そう言うと、彼女の目が少しだけ柔らかくなった。

前にも、同じようなことを言った。

俺でも、です。

あの言葉が、二人の間に小さく残っている。

灯理さんは、ゆっくりソファの端に座った。

俺は少し距離をあけて隣に座る。

部屋の中に、暖房の音だけが残った。

「変な感じです」

灯理さんが言った。

「何がですか」

「利月くんの部屋にいること」

「俺もです」

「私、来たいって言ったのに」

「はい」

「でも、来たら怖いです」

胸の奥が鳴った。

「帰りますか」

そう聞くと、灯理さんは首を横に振った。

「帰りたくないです」

その言葉で、部屋の空気がまた少し変わった。

俺は、右手を握った。

触れたい。

けれど、すぐには触れなかった。

「灯理さん」

「はい」

「手を繋いでもいいですか」

灯理さんは、少しだけ目を伏せてから頷いた。

「はい」

俺は彼女の手に触れた。

手袋を外した指先は、まだ冷たかった。

その手を包むと、灯理さんが小さく息を吐いた。

ただ手を繋いでいるだけなのに、距離が一気になくなる。

ここは駅前ではない。

カフェでもない。

俺の部屋だ。

誰も入ってこない。

誰の目もない。

その事実が、頭の奥を鈍く熱くした。

「灯理さん」

名前を呼ぶ声が、自分でも低く聞こえた。

彼女が顔を上げる。

「キスしてもいいですか」

灯理さんの目が揺れた。

けれど、逃げなかった。

前よりも少しだけ早く、小さく頷く。

「はい」

俺は、彼女の手を離さないまま顔を近づけた。

唇が触れる。

一度目は、短く。

二度目は、少し長く。

三度目は、灯理さんの指が俺のシャツをつかんだから、止まれなかった。

彼女の手が、胸元にある。

それだけで、呼吸が乱れる。

キスが深くなる。

優しくしなければと思うのに、優しいだけではいられなくなっていく。

灯理さんの背中に回した手に、少し力が入った。

身体が近づく。

近すぎるくらいに。

彼女の息が、俺の唇に触れる。

「……灯理さん」

名前を呼んだ声は、もう先生の声ではなかった。

自分でも分かった。

余裕がなかった。

灯理さんの指が、俺のシャツのボタンに触れた。

偶然ではない。

一つだけ外れた襟元に、彼女の指先が迷うように触れる。

その瞬間、理性が足元を滑らせた。

「それ以上されたら」

声が掠れた。

灯理さんが俺を見る。

「されたら?」

そんなふうに聞かないでほしかった。

けれど、その声は震えていた。

彼女も、怖いのだ。

怖いのに、俺から離れない。

「ちゃんと考えられなくなります」

そう言うと、灯理さんは目を伏せた。

それでも、指は離れなかった。

「考えなくてもいいのに」

小さな声だった。

駅前でも、彼女は同じことを言った。

その時、俺は踏みとどまった。

でも、今は部屋の中だった。

俺の部屋で。

俺のベッドが、すぐそこにあった。

その言葉で、俺の中の何かが本当に崩れた。

俺は灯理さんを引き寄せた。

さっきより強く。

彼女の身体が俺の胸に触れる。

灯理さんが小さく息を飲む。

それでも逃げない。

俺のシャツをつかんだまま、こちらを見上げている。

欲しいと思った。

はっきりと。

大事にしたいという言葉では包みきれないくらい、欲しいと思った。

灯理さんも、それを分かっているようだった。

彼女が、ほんの少し身体の向きを変えた。

その先に、俺のベッドがあった。

俺が押したのではない。

引いたのも、誘ったのも、たぶん彼女の方だった。

それでも、その一歩を見た瞬間、俺は都合よく受け取りそうになった。

いけるかもしれない。

そんな言葉が、頭の奥に浮かんだ。

最低だと思うより先に、身体が熱を持った。

俺は三十歳の男で、綺麗な理性だけでできているわけではない。

好きな人が目の前にいて、触れても拒まれなくて、自分の部屋にいて、こんなふうに誘われて。

先を考えない方が嘘だった。

「灯理さん」

「はい」

「嫌なら、ここで止まります」

灯理さんは首を振った。

「嫌じゃないです」

声が震えていた。

「嫌じゃないの」

その言葉を、俺はまた都合よく受け取りそうになった。

ベッドの端に座った灯理さんの隣に、俺も腰を下ろす。

近い。

膝が触れる。

手が触れる。

呼吸が触れる。

灯理さんの指が、また俺のシャツをつかんだ。

今度は、迷いながらも確かに。

俺はその手を止めなかった。

むしろ、自分の手をその上に重ねた。

灯理さんの指が、少し震えている。

その震えすら、愛おしいと思った。

キスをした。

今度は、優しいだけではなかった。

少し急いでいた。

少し苦しくて、少しだけ余裕がなかった。

灯理さんの身体が、俺のベッドに沈む。

沈んだのは身体だけではなかった。

俺の理性も、その柔らかな沈み方につられるように、少しずつ形を失っていく。

彼女の上に落ちる自分の影を見た。

いつもの俺ではない。

先生でもない。

陽斗の知っている登坂先生でもない。

灯理さんを欲しいと思っている、一人の男だった。

灯理さんは、俺のシャツをつかんだまま、目を閉じていた。

頬が赤い。

唇が少し濡れている。

その顔を見た瞬間、もう一度キスをしたくなった。

した。

止まれなかった。

彼女の髪に触れる。

頬に触れる。

肩に触れる。

シャツの襟元が、いつの間にか少し乱れていた。

俺のものか、彼女のものかも分からない。

部屋の灯りが、やけに眩しかった。

「……灯理さん」

耳元で名前を呼んだ。

その時だった。

灯理さんの目から、涙が落ちた。

ひとつ。

それから、もうひとつ。

声もなく、ぽろぽろと。

俺の動きが止まった。

一瞬で、身体中の熱が別のものに変わった。

「灯理さん?」

彼女は首を振った。

「ごめ、なさい」

声が震えていた。

「違うの」

俺は身体を少し起こした。

けれど、完全には離れなかった。

離れたら、彼女を置いていくような気がした。

でも、近すぎれば、閉じ込めてしまう気もした。

「嫌でしたか」

聞いた瞬間、灯理さんはまた首を振った。

強く。

「嫌じゃないの」

涙が落ちる。

「嫌じゃないのに」

その声が、ひどく幼く聞こえた。

大人の泣き方ではなかった。

説明するための涙でも、責めるための涙でもない。

どうしていいか分からなくなった子どもみたいに、ただ涙だけが落ちていた。

「私が、来たいって言ったのに」

灯理さんはそう言った。

「私が、ここまで来たのに」

胸が痛んだ。

その言葉は、俺に向けられているようで、たぶん彼女自身に向けられていた。

来たいと言った自分。

欲しがった自分。

怖くなった自分。

その全部を、彼女は今、自分で責めている。

「謝らないでください」

俺はゆっくり言った。

「ここまで来たから、最後まで行かなきゃいけないわけじゃないです」

灯理さんの涙が、また落ちた。

「私、欲しかったの」

言った瞬間、彼女の顔がさらに赤くなった。

でも、目を逸らさなかった。

「利月くんに、こんなふうに見られたかった」

息が止まった。

嬉しかった。

その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。

同時に、胸が痛かった。

「でも、急に怖くなった」

「はい」

「怖いのに、離れたくなかった」

俺は、彼女の手を取った。

シャツを握りしめていた指を、ほどくのではなく、その上から包む。

「俺も、途中で止まれなくなりそうでした」

声が低くなった。

正直に言うことが、少し怖かった。

「本当に」

灯理さんが涙で濡れた目で俺を見る。

「利月くんでも?」

「俺でも、です」

その言葉に、灯理さんはまた泣いた。

俺は、自分の中の欲が消えたわけではないことを知っていた。

消えていない。

まだ、彼女が欲しい。

でも、だからこそ進めない。

この涙を、許可にしてはいけない。

彼女が自分から来たいと言ったことを、俺の都合のいい理由にしてはいけない。

「今日は、ここまでにします」

俺が言うと、灯理さんが顔を上げた。

「嫌になった?」

「なっていません」

「面倒くさいって思った?」

「思っていません」

「でも、止めるの?」

「止めます」

声は掠れていた。

けれど、はっきりと言った。

「泣いている灯理さんを越えてまで、進みたくありません」

灯理さんは、唇を噛んだ。

「私が来たいって言ったのに?」

「来てくれたことは、嬉しかったです」

俺は彼女の目を見た。

「本当に、嬉しかったです」

彼女の目が揺れる。

「でも、ここまで来たから最後まで行かなきゃいけないわけじゃない」

灯理さんは、何も言わなかった。

ただ、俺の手を握り返した。

「したくないの?」

小さな声だった。

言ったあと、灯理さんは自分で驚いたように目を伏せた。

俺も息が止まった。

「したいです」

返事は、思っていたより早く出た。

嘘にはしたくなかった。

「でも、今日はしません」

「どうして」

「明日の灯理さんが、今日の灯理さんを責めそうだからです」

彼女は否定しなかった。

その沈黙が、答えだった。

「俺も、たぶん自分を責めます」

「私を?」

「自分をです」

俺は、彼女の指を握った。

「あなたが泣いたところを、見なかったふりをした自分を」

静かな沈黙が落ちた。

暖房の音だけが、部屋に残る。

灯理さんの涙は、まだ完全には止まっていなかった。

俺はゆっくり身体を離し、彼女の隣に座り直した。

ベッドの上で、少しだけ距離をあけて。

近いのに、これ以上は近づかない。

その距離が、苦しかった。

でも、必要だった。

灯理さんは、はだけかけた俺のシャツを見て、少しだけ目を伏せた。

「ごめんなさい」

「謝らないでください」

「でも、乱したの、私だし」

思わず息が詰まった。

こんな時に、そんなことを言わないでほしかった。

また触れたくなる。

また、全部を忘れそうになる。

「灯理さん」

「はい」

「そういうことを言われると、困ります」

灯理さんは涙の残る顔で、少しだけ笑った。

「困らせたかったのかもしれない」

その一言で、胸の奥がまた熱くなる。

俺は目を閉じた。

「本当に、困ります」

「うん」

「でも」

「はい」

「嫌じゃないです」

そう言うと、灯理さんは泣きながら笑った。

「ずるい」

「聞きます」

「今日は、ずるいの私かもしれない」

「それも聞きます」

灯理さんは、少しだけ身体を寄せた。

「帰らないで」

「ここ、俺の部屋です」

そう言ってから、自分でも間の抜けた返しだと思った。

灯理さんが、涙の残る顔で少しだけ笑った。

「そうでした」

「でも、帰りません」

「うん」

「灯理さんを、急かしません」

「うん」

「でも、手は繋いでいます」

灯理さんは、ゆっくり頷いた。

「手だけ」

「はい」

「今日は、手だけ」

「はい」

俺たちは、俺のベッドの端に並んで座った。

灯理さんはまだ少し泣いていた。

俺は、その隣で手だけを繋いでいた。

唇には、まだ彼女の熱が残っている。

腕には、彼女を抱き寄せた感覚が残っている。

シャツには、彼女がつかんだ皺が残っていた。

それを直す気にはなれなかった。

今夜、俺は途中まで理性を失くした。

灯理さんは、それを見た。

そして、泣いた。

怖かったのだと思う。

けれど、嫌だったわけではない。

それが余計に苦しかった。

抱かなかった。

でも、何もなかった夜ではない。

むしろ、何かが確かに始まってしまった夜だった。

灯理さんが自分から俺の部屋に来たこと。
俺がそれを嬉しいと思ったこと。
欲に負けかけたこと。
彼女が少女みたいに泣いたこと。
そして、その涙を越えないと決めたこと。

全部が、手の中で震えていた。

しばらくして、灯理さんが小さく言った。

「帰ります」

胸の奥が、少し沈んだ。

でも、引き止めてはいけないと思った。

「送ります」

「大丈夫です」

「送ります」

今度は、はっきり言った。

灯理さんが俺を見る。

「ここまで来て、何もしないで帰すのに、ひとりでは帰しません」

言ってから、また正直すぎたと思った。

灯理さんは、少しだけ困ったように笑った。

「利月くん、そういうところ」

「はい」

「ずるいです」

「聞きます」

俺は立ち上がり、乱れたシャツの襟元を直した。

灯理さんがそれを見て、少しだけ目を伏せる。

その仕草だけで、また胸の奥が熱くなる。

本当に、困る。

でも、その困り方ごと、大事にしたかった。

部屋を出る前、灯理さんは一度だけ振り返った。

俺の部屋を、静かに見た。

「利月くんの部屋、やっぱり静かですね」

「そうですか」

「はい」

灯理さんは少しだけ笑った。

「でも、今日から少し、違う場所に見えます」

その言葉に、胸が詰まった。

俺にとっても、もう違う場所だった。

灯理さんが来た部屋。

灯理さんが泣いた部屋。

俺が欲に負けかけて、それでも止まった部屋。

その全部が、ここに残る。

硝子の鍵は、開きかけた扉の前で止まっていた。

その扉を開ける日は、いつか来るのかもしれない。

でも、今夜ではない。

今夜は、彼女が自分を責めないように。

俺が彼女の涙を、言い訳にしないように。

ただ、手だけを繋いでいた。
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本当は、十歳も年上だった。 それでも私は、登坂利月の前では、ただの“灯理”でいたかった。 同じ歳だと思われたまま始まった恋。 隠した年齢、隠した肩書き、言えなかった本当の私。 硝子みたいに脆い嘘の先で、 私はもう一度、誰かを好きになってしまった。

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