浮気相手の子を「育てろ」と押しつけられたので、罪のない少女は丁重に育てつつ、夫だけを優雅に制裁することにしました
母娘の絆と友人との別れ
スノーフレークの結婚式を見届けたその翌月、私はリーゼに子爵家を出ることを告げた。
「お義母様。本当に、神殿へ行ってしまわれるのですか」
リーゼの瞳が潤んでいた。女子爵として家を背負い、滅多なことでは涙を見せなくなっていたこの子がだ。
「ええ。決めたの」
私はできる限り穏やかに答えた。
「誤解しないでね、リーゼ。私は追い出されるのでも、逃げるのでもないわ。自分で選んだの。残りの人生をどこでどう過ごすかをね。それを女が自分の意思で選べるというのは、とても贅沢なことなのよ」
婿のことには触れなかった。けれど、聡いリーゼはわかっている。自分の選んだ夫がこれまで私にどんな目を向けてきたか。
それが私の決意の、ひとつの理由であることも。
「あの人が……夫が、お義母様に失礼な態度を。私、何度も注意したのです。でも」
「いいのよ」
私はリーゼの手を取った。
かつて、孤児院から来たばかりの冷えて小さかったその手は、今は家を統べる女主人の、しっかりとした手になっていた。
「あなたの夫が私を悪く思うのには、理由があるじゃない? あの人はアルヴィスの……私の古い友人の甥なのだもの」
しかしリーゼの顔は晴れない。だからこそ申し訳ないのだという顔だ。
「彼の目には、私はきっとこう映っているのでしょうね。『大好きな叔父をたぶらかした悪女』『子も産めなかったくせに、いつまでも家に居座るみっともない女』って。……ふふ。あながち間違ってもいないわ」
「そんな! お義母様はそんな方では」
「ええ。だから、あなたにだけは、本当のことを話しておくわ。あなたも気づいていたと思うけど」
私はリーゼにだけ、しっかり事実を自分の言葉で打ち明けていくことを決めていた。
アルヴィスとの間にあったものは、世間が囃すような爛れたものでは決してなかったことをだ。
たまにリーゼも伴って訪れていた、あの郊外の湖の見える店でお茶を飲み、本や最近あった出来事の話をする。ただそれだけの間柄だったこと。
私が彼に求めたのは愛人の男ではなく——夫に庶子を押し付けられ、軋みかけた自分の自尊心のためだけだったことを、だ。
「社交界に私のよくない噂が出回ってるけど、あなたの夫が絡んでるみたいね。事実無根すぎて誤解を解いて回る気もないけど……」
「や、やはり……申し訳ございません……っ」
「いいのよ。ただ、私の実家の兄や両親は静観してるけど、母方の公爵のお祖父様、まだまだ健在でね。私、孫の中で唯一の女子だったから、いまだにすごく甘くて」
リーゼが息を呑む。
そう。私が報復せずとも、祖父が婿に何らかの制裁を加えることは充分に考えられる。
でも婿は、私の祖父のことを知らないのだ。だからあんな態度が取れる。
私は社交界ではあえて、公爵の孫だと公言して祖父の威をひけらかすことはしてこなかった。
実家は伯爵家だが、事業提携目的とはいえ爵位の低い子爵家に嫁ぐことが在学中から決まっていたこともあり、いざというときの隠し玉にするためだ。
もちろん、知ってる人は知っている。実際、陛下も私の祖父が公爵だから、その娘が伯爵家に嫁ぎ、さらに孫の私が今の子爵家に嫁いだことを把握しておられた。
リーゼの婚約者を決める際、相手方との釣り書きの交換が当然あった。しかし私はリーゼが夫の庶子であることを仄めかして、義母の私の情報は、実家の伯爵家までに記述を留めた。
婿の無知は、彼の伯爵家より我が家のほうが子爵家で爵位が一つ低いことや、前子爵夫人の私が子供を産めなかったことなどから、私を侮っていることに起因する。
下に見ているから、私の実家や系譜まで詳しく確認する労を取らなかったのだ。
……ただ。彼の実家は、かつてアルヴィスを冷遇していた家だ。
そして彼らは、自分たちの息子が婿入りする家に、庶子アルヴィスのかつての恋人だった私がいることを認識しているのは間違いない。
なのになぜ、自分たちの息子と、私の夫の庶子だったリーゼの結婚を許したかといえば……
私はそのこともリーゼに話した。女子爵になったとはいえ、これらの背景はまだ若いリーゼには把握しきれていないようだったから。
アルヴィスもリーゼも庶子だけど、婿の両親はリーゼに親切だったから、私はあえて二人の結婚を許した。
もっとも、アルヴィスと違ってリーゼは婚約前の時点で次期女子爵になることが確定していた。貴族社会での序列を意識しての態度だろうけど。
「子爵家を乗っ取ろうとする意識までは、ないと思うの。けど、あなたが婿殿と結婚することで、私を通して間接的にアルヴィスに嫌がらせがしたかったんじゃないかしら」
主に彼の父の正妻が。
リーゼは、ぽろぽろと涙をこぼした。
「り、離縁します。お義母様の名誉のためにも……っ」
「駄目よ。……いいから、結婚を続けなさい。これから生まれてくる子供にはちゃんと両親がいたほうがいい。あなたが一番よくわかってるでしょう?」
夫婦の仲は良く、子供が授かるのも早かった。
今回、私が出家の話を切り出したのは、リーゼが安定期に入ったことを医師にしっかり確認した後である。
それに、と私は続けた。
「婿殿のこと、学園の頃から憧れてたんでしょう? 大切にしてあげて」
そう、婿の実家の思惑に気づきながらも、私が交際や婚約、結婚まで認めたのはリーゼの気持ちに気づいていたから。
それと、婿がそれなりに優秀だったのも大きい。そこは学者にまでなったアルヴィスとの血縁を感じさせるところ。
「でも。わかるわね?」
最後に私は念押しした。
リーゼは私に渡されたハンカチで涙を拭うと、しっかりと顔を上げ、私と目をきちんと合わせてから頷いた。
「はい。夫は愛してます。でも、彼の手綱を握るのは、私」
満点の答えだ。私は満足げに頷いた。
「婿殿にも立場がある。だから、ことさら名誉や殿方の自尊心を傷つけては駄目よ。あなたたち、恋愛結婚だもの。あなたは生涯愛されながら、上手く彼を導いてあげて」
ものは言いようだ。要は「夫を飴と鞭で上手く操縦しろ」を婉曲表現するとこうなる。
リーゼは何度も何度も頷いた。
「大丈夫よ。あなた、私よりずっと賢い娘だもの」
血の繋がりのない親子関係だったけど、母はあなたのこと、ちゃんと認めて、信じているの。
だから安心して、私はこの家から旅立っていける。
アルヴィスとは神殿への出家の前に、最後のお茶を飲んだ。
いつもの湖の見える店で、私たちは長いこと他愛のない話をした。
最近話題の本のこと、学生だった昔のこと。
スノーフレークのめでたい結婚のこと。
彼女の旦那様の話になると、一瞬だけ呆気に取られた後、爆笑していた。
「リースト伯爵か! なるほど、彼はそういう男だったんだな」
「メガエリス様をご存知なの?」
「あそこは今の当主が騎士団長だが、今の王家と同じくらい古い家なんだ。今では珍しい魔法の家なんだよ」
「それは、ええ。知ってるけど」
王国史で習うから、歴史を学んだ者なら皆知っている。
だいたい千年くらい前に、勇者の一族の今の王家と、魔王の末裔と呼ばれたメガエリス様の一族が意気投合して、このアケロニア王国に引っ越してきたのだ。
当時はともに伯爵位を授かっている。
後に王家が堕落して、勇者の一族が打ち倒して新王朝を開いた。それが今の国王や王族たちの系譜だ。
しかし、メガエリス様のリースト家はずっと伯爵位のまま。諸説あるが、政治と距離を置くためと言われている。王族の皆様とは仲が良いのにね。
「今でも魔導具や魔法薬の開発と販売のシェアを握ってるんだ」
「あ、なるほど。あなたの研究、薬学だものね」
「そういうことさ。彼はやり手だよ。年に何度か僕もお会いするけど、そうか……冷徹なだけじゃなく、情熱の人だったか……」
私も、彼は冷徹で厳格な人だと思っていた。
だけど、スノーフレーク絡みで見せたあの単純さと残酷さが同居した言動を見ると、あれが本性な気がするわ。
妻のスノーフレークには甘い溺愛する姿ばかり見せてるようだけども。
お茶を飲みながら、どちらからともなく、これが最後だと悟っていた。
最初に切り出したのはアルヴィスだ。
「……実は、南のカサンドリア王国から現地の大学教授として招かれていてね。行ったら、現地に骨を埋めることになると思う」
「そう……寂しくなるわね。実は私も、夫婦仲の良いリーゼたちの子爵家が居心地悪くて、神殿に出家するつもりなの」
「………………」
「………………」
しばらく、お互いに長い沈黙を楽しんだ。
「また会うときは、茶くらい、飲めるのだろう?」
「ええ、もちろんよ。アルヴィス」
微笑んだ私に、彼は何も言わず、ただ深く頷いた。
それが、私たちの最後の別れとなった。
「お義母様。本当に、神殿へ行ってしまわれるのですか」
リーゼの瞳が潤んでいた。女子爵として家を背負い、滅多なことでは涙を見せなくなっていたこの子がだ。
「ええ。決めたの」
私はできる限り穏やかに答えた。
「誤解しないでね、リーゼ。私は追い出されるのでも、逃げるのでもないわ。自分で選んだの。残りの人生をどこでどう過ごすかをね。それを女が自分の意思で選べるというのは、とても贅沢なことなのよ」
婿のことには触れなかった。けれど、聡いリーゼはわかっている。自分の選んだ夫がこれまで私にどんな目を向けてきたか。
それが私の決意の、ひとつの理由であることも。
「あの人が……夫が、お義母様に失礼な態度を。私、何度も注意したのです。でも」
「いいのよ」
私はリーゼの手を取った。
かつて、孤児院から来たばかりの冷えて小さかったその手は、今は家を統べる女主人の、しっかりとした手になっていた。
「あなたの夫が私を悪く思うのには、理由があるじゃない? あの人はアルヴィスの……私の古い友人の甥なのだもの」
しかしリーゼの顔は晴れない。だからこそ申し訳ないのだという顔だ。
「彼の目には、私はきっとこう映っているのでしょうね。『大好きな叔父をたぶらかした悪女』『子も産めなかったくせに、いつまでも家に居座るみっともない女』って。……ふふ。あながち間違ってもいないわ」
「そんな! お義母様はそんな方では」
「ええ。だから、あなたにだけは、本当のことを話しておくわ。あなたも気づいていたと思うけど」
私はリーゼにだけ、しっかり事実を自分の言葉で打ち明けていくことを決めていた。
アルヴィスとの間にあったものは、世間が囃すような爛れたものでは決してなかったことをだ。
たまにリーゼも伴って訪れていた、あの郊外の湖の見える店でお茶を飲み、本や最近あった出来事の話をする。ただそれだけの間柄だったこと。
私が彼に求めたのは愛人の男ではなく——夫に庶子を押し付けられ、軋みかけた自分の自尊心のためだけだったことを、だ。
「社交界に私のよくない噂が出回ってるけど、あなたの夫が絡んでるみたいね。事実無根すぎて誤解を解いて回る気もないけど……」
「や、やはり……申し訳ございません……っ」
「いいのよ。ただ、私の実家の兄や両親は静観してるけど、母方の公爵のお祖父様、まだまだ健在でね。私、孫の中で唯一の女子だったから、いまだにすごく甘くて」
リーゼが息を呑む。
そう。私が報復せずとも、祖父が婿に何らかの制裁を加えることは充分に考えられる。
でも婿は、私の祖父のことを知らないのだ。だからあんな態度が取れる。
私は社交界ではあえて、公爵の孫だと公言して祖父の威をひけらかすことはしてこなかった。
実家は伯爵家だが、事業提携目的とはいえ爵位の低い子爵家に嫁ぐことが在学中から決まっていたこともあり、いざというときの隠し玉にするためだ。
もちろん、知ってる人は知っている。実際、陛下も私の祖父が公爵だから、その娘が伯爵家に嫁ぎ、さらに孫の私が今の子爵家に嫁いだことを把握しておられた。
リーゼの婚約者を決める際、相手方との釣り書きの交換が当然あった。しかし私はリーゼが夫の庶子であることを仄めかして、義母の私の情報は、実家の伯爵家までに記述を留めた。
婿の無知は、彼の伯爵家より我が家のほうが子爵家で爵位が一つ低いことや、前子爵夫人の私が子供を産めなかったことなどから、私を侮っていることに起因する。
下に見ているから、私の実家や系譜まで詳しく確認する労を取らなかったのだ。
……ただ。彼の実家は、かつてアルヴィスを冷遇していた家だ。
そして彼らは、自分たちの息子が婿入りする家に、庶子アルヴィスのかつての恋人だった私がいることを認識しているのは間違いない。
なのになぜ、自分たちの息子と、私の夫の庶子だったリーゼの結婚を許したかといえば……
私はそのこともリーゼに話した。女子爵になったとはいえ、これらの背景はまだ若いリーゼには把握しきれていないようだったから。
アルヴィスもリーゼも庶子だけど、婿の両親はリーゼに親切だったから、私はあえて二人の結婚を許した。
もっとも、アルヴィスと違ってリーゼは婚約前の時点で次期女子爵になることが確定していた。貴族社会での序列を意識しての態度だろうけど。
「子爵家を乗っ取ろうとする意識までは、ないと思うの。けど、あなたが婿殿と結婚することで、私を通して間接的にアルヴィスに嫌がらせがしたかったんじゃないかしら」
主に彼の父の正妻が。
リーゼは、ぽろぽろと涙をこぼした。
「り、離縁します。お義母様の名誉のためにも……っ」
「駄目よ。……いいから、結婚を続けなさい。これから生まれてくる子供にはちゃんと両親がいたほうがいい。あなたが一番よくわかってるでしょう?」
夫婦の仲は良く、子供が授かるのも早かった。
今回、私が出家の話を切り出したのは、リーゼが安定期に入ったことを医師にしっかり確認した後である。
それに、と私は続けた。
「婿殿のこと、学園の頃から憧れてたんでしょう? 大切にしてあげて」
そう、婿の実家の思惑に気づきながらも、私が交際や婚約、結婚まで認めたのはリーゼの気持ちに気づいていたから。
それと、婿がそれなりに優秀だったのも大きい。そこは学者にまでなったアルヴィスとの血縁を感じさせるところ。
「でも。わかるわね?」
最後に私は念押しした。
リーゼは私に渡されたハンカチで涙を拭うと、しっかりと顔を上げ、私と目をきちんと合わせてから頷いた。
「はい。夫は愛してます。でも、彼の手綱を握るのは、私」
満点の答えだ。私は満足げに頷いた。
「婿殿にも立場がある。だから、ことさら名誉や殿方の自尊心を傷つけては駄目よ。あなたたち、恋愛結婚だもの。あなたは生涯愛されながら、上手く彼を導いてあげて」
ものは言いようだ。要は「夫を飴と鞭で上手く操縦しろ」を婉曲表現するとこうなる。
リーゼは何度も何度も頷いた。
「大丈夫よ。あなた、私よりずっと賢い娘だもの」
血の繋がりのない親子関係だったけど、母はあなたのこと、ちゃんと認めて、信じているの。
だから安心して、私はこの家から旅立っていける。
アルヴィスとは神殿への出家の前に、最後のお茶を飲んだ。
いつもの湖の見える店で、私たちは長いこと他愛のない話をした。
最近話題の本のこと、学生だった昔のこと。
スノーフレークのめでたい結婚のこと。
彼女の旦那様の話になると、一瞬だけ呆気に取られた後、爆笑していた。
「リースト伯爵か! なるほど、彼はそういう男だったんだな」
「メガエリス様をご存知なの?」
「あそこは今の当主が騎士団長だが、今の王家と同じくらい古い家なんだ。今では珍しい魔法の家なんだよ」
「それは、ええ。知ってるけど」
王国史で習うから、歴史を学んだ者なら皆知っている。
だいたい千年くらい前に、勇者の一族の今の王家と、魔王の末裔と呼ばれたメガエリス様の一族が意気投合して、このアケロニア王国に引っ越してきたのだ。
当時はともに伯爵位を授かっている。
後に王家が堕落して、勇者の一族が打ち倒して新王朝を開いた。それが今の国王や王族たちの系譜だ。
しかし、メガエリス様のリースト家はずっと伯爵位のまま。諸説あるが、政治と距離を置くためと言われている。王族の皆様とは仲が良いのにね。
「今でも魔導具や魔法薬の開発と販売のシェアを握ってるんだ」
「あ、なるほど。あなたの研究、薬学だものね」
「そういうことさ。彼はやり手だよ。年に何度か僕もお会いするけど、そうか……冷徹なだけじゃなく、情熱の人だったか……」
私も、彼は冷徹で厳格な人だと思っていた。
だけど、スノーフレーク絡みで見せたあの単純さと残酷さが同居した言動を見ると、あれが本性な気がするわ。
妻のスノーフレークには甘い溺愛する姿ばかり見せてるようだけども。
お茶を飲みながら、どちらからともなく、これが最後だと悟っていた。
最初に切り出したのはアルヴィスだ。
「……実は、南のカサンドリア王国から現地の大学教授として招かれていてね。行ったら、現地に骨を埋めることになると思う」
「そう……寂しくなるわね。実は私も、夫婦仲の良いリーゼたちの子爵家が居心地悪くて、神殿に出家するつもりなの」
「………………」
「………………」
しばらく、お互いに長い沈黙を楽しんだ。
「また会うときは、茶くらい、飲めるのだろう?」
「ええ、もちろんよ。アルヴィス」
微笑んだ私に、彼は何も言わず、ただ深く頷いた。
それが、私たちの最後の別れとなった。