愛とか恋とかウザいので
1・愛も恋もいりません
九月初日の火曜日。世界的シェアを持つ老舗時計メーカー・ハルモニアの女性更衣室で、萌依は、始業前に自分の服装チェックをする。
ベースメイクと自然な色のリップ。目元のメイクは、トレードマークともいえる太い黒縁の眼鏡を掛けているので、眉をアイブローで整えるだけ。
服装は、白のブラウスに黒のレディーススーツ、足下は黒のフラットシューズで、艶のある黒髪は一つに纏めている。
(うん。完璧)
清潔感があって、動きやすくて機能的。
人によっては『野暮ったい』なんて言われることもあるけど、萌依としては、自分の装いは働く女性としてこれ以上ないくらい完璧だと思っている。
体調管理も万全で、まだまだ暑い日が続きそうだけど夏バテの気配もない。
最後に、『社長秘書』と入った社員証の入ったネックストラップを首にかければ朝の身支度は終わりだ。
恋人の手酷い裏切りに遭い、愛も恋も二度とお断りと心に決めて転職をしたのは一年半前。
萌依が、内情を知ったのは転職後だったのだけれど、その頃のハルモニアは、前社長の経営判断の誤りからかなりの業績悪化を招いていた。倒産の可能性も出てきている中、起死回生の策として創業家の御曹司である早瀬蒼弥を新社長に迎えて改革にいそしんでいる時期だった。
元は外資系金融機関で働いていたという蒼弥は、発想が柔軟で、これまでの慣例に囚われることなく経営体制を刷新していき、結果ハルモニアは、世界的シェアを持つハイブランドな時計メーカーとしての評価を取り戻すことができた。
萌依はそんな能力評価主義の蒼弥に評価され、半年前から彼の秘書のひとりとして仕事を任されている。
(よし。今日も仕事を頑張ろう)
心の中で自分を鼓舞して、萌依は自分のロッカーを閉め、更衣室を出て行く。
「朝比奈さん」
更衣室を出て足を踏み出しかけた萌依は、名前を呼ばれて動きを止めた。
ふり向くと、肩周りがふわりとしたサマーニットに、マーメードシルエットのスカートというオフィスカジュアルな装いの女性が、萌依を追いかけてきた。
切れ長の目をアイラインで強調するメイクは、知的な印象を与える。
(確か企画部の……)
女性の名前を思い出そうとしていると、相手が海外の雑誌を差し出す。
「これは?」
「休暇を取って、アメリカに行ってきたの。ハルモニア創業百周年を記念して、様々なプロジェクトが進行しているでしょ。その参考になると思うから、社長に渡していただけるかしら」
企画部の彼女が柔らかく微笑む。
ハルモニアは今年の十一月に創業百周年の節目を迎える。
蒼弥を社長に迎え業績を回復させたハルモニアは、百周年の節目を、新体制アピールのいい機会と捉えている。
そのため、様々な企画が進行中だ。
雑誌の表紙を見るに、ハイブランドなファッションアイテムを特集しているようだ。ハルモニアの商品か、なにか参考になる記事が取り上げられているのかもしれない。
「ありがとうございます。参考にさせていただきます」
「絶対、社長に渡してよ」
雑誌を受け取る萌依に、女性が念押ししてくる。
その口調に萌依が眉根を寄せても、相手は気にせず、そのついでといった感じで小さな紙袋を差し出す。
「あと、これも社長に渡していただけるかしら?」
「それは?」
「トランジットの間に空港で買ったお菓子よ。雑誌だけじゃ失礼かと思って」
どこか言い訳めいた口調で、そう説明する。
(トランジットの合間……)
萌依は手渡された紙袋を一瞥する。
紙袋からして高級そうなそれは、一時期ネットでも話題になった有名店のもので、空港で気軽に買えるようなものではない。
蒼弥のために買ってきた、特別なお土産とわかるそれに、萌依は内心嘆息する。
「生憎、社長はこういったものを受け取らない主義ですので」
淡々とした萌依の言葉に、サマーニットの彼女がムッとする。
「資料のついでなんだから、いいじゃない。そういうの、秘書の仕事でしょ」
強い口調で文句を言われても、萌依の意見は変わらない。
「社として有益な情報があるようでしたら、資料はお渡しいたします。ですが、社長の意向に沿わない贈答品をお預かりするのは、私の業務の範疇を超えていますので」
萌依は無表情に、自分の役割を説明する。
同じ女性の気軽さからか、社長秘書の中で萌依が飛び抜けて若いためか、これまでも社の内外を問わず、複数の女性に蒼弥への橋渡しを頼まれてきた。
その度に萌依はこうやって、その頼みを断ることにしている。
一礼して踵を返し歩き出す萌依の背中に、「なによ可愛くない。そんなんだから、誰にも相手にされないのよ」と、女性のヒステリックな声が飛んでくる。
「あなたが社長の秘書に選ばれたって、逆に女としての魅力がないからなんじゃない」
遠ざかる背後で、なかなかに失礼な言葉が続くが、萌依は気にしない。
(誰にも愛されなくて結構です)
なにせ萌依は、恋愛お断りなのだ。
恋愛感情に心乱されることなく、仕事に集中して、それなりの評価をもらえればそれでいい。
下手に馴れ合って、頼み事を断りづらい状況を作るくらいなら、親しい同僚も必要ない。――それは、前の職場で恋人に裏切られて傷付いた萌依が、自分を守るために出した結論だ。
恋心を捨てるついでに、お洒落を楽しむ心も捨てたのは、元カレに自分がどう見えるかを気にして努力していた自分を恥じているからだ。
エレベーターホールに辿り着いた萌依は、ボタンを押し、エレベーターの到着を待つ間に、先ほど渡された雑誌を開いてみた。
パラパラとページを捲りひととうり内容を確認しようとした萌依は、あるページで動きを止め、ため息と共に雑誌を閉じる。
腕時計の特集ページに、彼女のものとおぼしき連絡先が油性ペンで書き込まれているのを見つけたからだ。
萌依がお菓子を預からない場合を想定しての対策だろう。
「この知恵を、他のことに使えばいいのに」
もし雑誌に本当に有益な情報があるようなら、蒼弥には同じものを買って渡すことにしよう。
こちらの雑誌は、萌依が処分するしかない。
(個人情報のあるページは、シュレッダーにかけた方がいいよね)
面倒くさい手間が増えたと嘆息していると、エレベーターが到着しドアが開く。
ベースメイクと自然な色のリップ。目元のメイクは、トレードマークともいえる太い黒縁の眼鏡を掛けているので、眉をアイブローで整えるだけ。
服装は、白のブラウスに黒のレディーススーツ、足下は黒のフラットシューズで、艶のある黒髪は一つに纏めている。
(うん。完璧)
清潔感があって、動きやすくて機能的。
人によっては『野暮ったい』なんて言われることもあるけど、萌依としては、自分の装いは働く女性としてこれ以上ないくらい完璧だと思っている。
体調管理も万全で、まだまだ暑い日が続きそうだけど夏バテの気配もない。
最後に、『社長秘書』と入った社員証の入ったネックストラップを首にかければ朝の身支度は終わりだ。
恋人の手酷い裏切りに遭い、愛も恋も二度とお断りと心に決めて転職をしたのは一年半前。
萌依が、内情を知ったのは転職後だったのだけれど、その頃のハルモニアは、前社長の経営判断の誤りからかなりの業績悪化を招いていた。倒産の可能性も出てきている中、起死回生の策として創業家の御曹司である早瀬蒼弥を新社長に迎えて改革にいそしんでいる時期だった。
元は外資系金融機関で働いていたという蒼弥は、発想が柔軟で、これまでの慣例に囚われることなく経営体制を刷新していき、結果ハルモニアは、世界的シェアを持つハイブランドな時計メーカーとしての評価を取り戻すことができた。
萌依はそんな能力評価主義の蒼弥に評価され、半年前から彼の秘書のひとりとして仕事を任されている。
(よし。今日も仕事を頑張ろう)
心の中で自分を鼓舞して、萌依は自分のロッカーを閉め、更衣室を出て行く。
「朝比奈さん」
更衣室を出て足を踏み出しかけた萌依は、名前を呼ばれて動きを止めた。
ふり向くと、肩周りがふわりとしたサマーニットに、マーメードシルエットのスカートというオフィスカジュアルな装いの女性が、萌依を追いかけてきた。
切れ長の目をアイラインで強調するメイクは、知的な印象を与える。
(確か企画部の……)
女性の名前を思い出そうとしていると、相手が海外の雑誌を差し出す。
「これは?」
「休暇を取って、アメリカに行ってきたの。ハルモニア創業百周年を記念して、様々なプロジェクトが進行しているでしょ。その参考になると思うから、社長に渡していただけるかしら」
企画部の彼女が柔らかく微笑む。
ハルモニアは今年の十一月に創業百周年の節目を迎える。
蒼弥を社長に迎え業績を回復させたハルモニアは、百周年の節目を、新体制アピールのいい機会と捉えている。
そのため、様々な企画が進行中だ。
雑誌の表紙を見るに、ハイブランドなファッションアイテムを特集しているようだ。ハルモニアの商品か、なにか参考になる記事が取り上げられているのかもしれない。
「ありがとうございます。参考にさせていただきます」
「絶対、社長に渡してよ」
雑誌を受け取る萌依に、女性が念押ししてくる。
その口調に萌依が眉根を寄せても、相手は気にせず、そのついでといった感じで小さな紙袋を差し出す。
「あと、これも社長に渡していただけるかしら?」
「それは?」
「トランジットの間に空港で買ったお菓子よ。雑誌だけじゃ失礼かと思って」
どこか言い訳めいた口調で、そう説明する。
(トランジットの合間……)
萌依は手渡された紙袋を一瞥する。
紙袋からして高級そうなそれは、一時期ネットでも話題になった有名店のもので、空港で気軽に買えるようなものではない。
蒼弥のために買ってきた、特別なお土産とわかるそれに、萌依は内心嘆息する。
「生憎、社長はこういったものを受け取らない主義ですので」
淡々とした萌依の言葉に、サマーニットの彼女がムッとする。
「資料のついでなんだから、いいじゃない。そういうの、秘書の仕事でしょ」
強い口調で文句を言われても、萌依の意見は変わらない。
「社として有益な情報があるようでしたら、資料はお渡しいたします。ですが、社長の意向に沿わない贈答品をお預かりするのは、私の業務の範疇を超えていますので」
萌依は無表情に、自分の役割を説明する。
同じ女性の気軽さからか、社長秘書の中で萌依が飛び抜けて若いためか、これまでも社の内外を問わず、複数の女性に蒼弥への橋渡しを頼まれてきた。
その度に萌依はこうやって、その頼みを断ることにしている。
一礼して踵を返し歩き出す萌依の背中に、「なによ可愛くない。そんなんだから、誰にも相手にされないのよ」と、女性のヒステリックな声が飛んでくる。
「あなたが社長の秘書に選ばれたって、逆に女としての魅力がないからなんじゃない」
遠ざかる背後で、なかなかに失礼な言葉が続くが、萌依は気にしない。
(誰にも愛されなくて結構です)
なにせ萌依は、恋愛お断りなのだ。
恋愛感情に心乱されることなく、仕事に集中して、それなりの評価をもらえればそれでいい。
下手に馴れ合って、頼み事を断りづらい状況を作るくらいなら、親しい同僚も必要ない。――それは、前の職場で恋人に裏切られて傷付いた萌依が、自分を守るために出した結論だ。
恋心を捨てるついでに、お洒落を楽しむ心も捨てたのは、元カレに自分がどう見えるかを気にして努力していた自分を恥じているからだ。
エレベーターホールに辿り着いた萌依は、ボタンを押し、エレベーターの到着を待つ間に、先ほど渡された雑誌を開いてみた。
パラパラとページを捲りひととうり内容を確認しようとした萌依は、あるページで動きを止め、ため息と共に雑誌を閉じる。
腕時計の特集ページに、彼女のものとおぼしき連絡先が油性ペンで書き込まれているのを見つけたからだ。
萌依がお菓子を預からない場合を想定しての対策だろう。
「この知恵を、他のことに使えばいいのに」
もし雑誌に本当に有益な情報があるようなら、蒼弥には同じものを買って渡すことにしよう。
こちらの雑誌は、萌依が処分するしかない。
(個人情報のあるページは、シュレッダーにかけた方がいいよね)
面倒くさい手間が増えたと嘆息していると、エレベーターが到着しドアが開く。