愛とか恋とかウザいので
***
そうやって始まった萌依との暮らしは、驚くほど快適だ。
本人が言っていたとおり萌依は料理上手だし、ちょっとした時間の隙を見つけては、こまめに掃除をしていく。
引き続きハウスキーパーは入れているので、掃除までする必要はないのだが、彼女の性分として全てを人任せにするのは落ち着かないのだという。
なんとも萌依らしい意見だ。
蒼弥としては、全てを彼女任せにしてしまうのが申し訳ないので、週末は『自分の食事に付き合ってほしい』と理由付けして外食に連れ出すことにしている。
成り行きで始まった萌依との結婚生活は、思いの他快適だ。
だからなのか、もともとは祖父を牽制するために始めた契約結婚なのに、会長室への呼び出しをひどく煩わしいものに思えてくる。
蒼弥が会長室に顔を出すと、秘書は蒼弥を会長専用の執務室に案内し、自分は休憩をもらうと告げてドアを閉めた。これからする会話を聞かれたくない重之が、そのように指示しているのだろう。
「会長、お呼びと伺いましたが?」
執務室に入った蒼弥がそう声をかけると、エグゼクティブデスクで鷹揚に待ち構えていた重之は煩わしげに視線を上げた。
そんな顔をするなら呼び出さなければいいと思うのだが、会話の主導権は自分にあると示すための、重之なりのパフォーマンスだ。
だからこそ、蒼弥は鈍感なフリをして相手のペースを崩しにかかる。
「ミツセ氏との共同企画の件でしたら、ご心配なく。発表の時期なども含めて、詳細を詰めている最中です」
ミツセとは、世界的に有名な時計設計師の名前だ。
洋服やジュエリーにデザイナーが存在しているのと同じで、時計にもデザインや設計を担う者がいる。
企業に雇用されて社員としてその業務を担う者もいれば、フリーで仕事を請け負う者もいて、仕事内容も、外装デザインを担う時計デザイナー、内部機構の設計をするムーブメント設計者、企業に属さずに個人で設計製造を担う独立時計師と呼ばれる人たちなどがいる。
ミツセはいわゆる独立時計師で、彼の手掛ける作品は、緻密なムーブメントの動きの美しさに定評があり、世界的に愛好家のいる。
普段ハルモニアの時計は、会社所属の時計設計師が内部構造の設計や全体のデザインを担当している。
ハルモニアの腕時計には百年近い歴史があるからこその定番のデザインがあり、社員でもある設計師は、その伝統敵スタイルを崩すことなく改良を加えていく。
そこには、時の流れを経て磨かれた造形美がある。
だから蒼弥も、先代から受け継ぐそのスタイルを崩す気はない。だが、せっかく倒産の危機を乗り越えて迎えることのできた百年の節目なのだ、少しくらいの遊び心を示したい。
それで以前から個人的面識があったこともあり、世界的に愛好家も多いミツセを口説き落として、数量限定で、共同企画の腕時計を販売することにした。
予定としては十一月に開かれるハルモニアの百周年を記念する式典でそのことを発表し、年末にデザインのお披露目という順に注目を集めて、販売は来年の夏を予定している。
そういった流れを説明する蒼弥に、重之は苦々しく息を吐く。
「会議で聞かされたことを改めて報告させるために、私がお前を呼びつけたと思うか?」
「もしそうなら、迷惑だとは思っています」
蒼弥がニヤリと笑って返すと、重之の眉が跳ねた。
「知らぬ間にお前に家族が増えたようだな。しかも相手は、ウチの社員だとか? そのことを説明をしろ」
蒼弥の権限で、萌依との結婚は極力外部に漏らさないようにしているが、会長である重之にはそのうち伝わるのはわかっていた。
もともと蒼弥が萌依に契約結婚を持ちかけたのは、この重之を牽制するのが目的なので、萌依も彼に知られることは承知してくれている。
それでいて蒼弥の方から結婚の報告をしなかったのは、会長や祖父という間柄であっても、重之に自分の人生に口出しさせる気はないという意思表示のためだ。
「俺が結婚したことをご存じなら、今後は、俺に縁談を持ってくるのはお控えください」
痺れを切らした重之の質問に答える形で宣言すると、重之はますます渋面になる。
「私の縁談を断るためだけに結婚したのか?」
「もしそうだとしたら、クビにでもしますか?」
蒼弥は重之に挑発的な眼差しを向ける。
ミツセとの共同企画のパイプ役は蒼弥が務めている。
百周年の式典を目前に、今のハルモニアの要である自分を排除できるものならしてみろという気分だ。
「お前に人を愛する気持ちがあったのか?」
その問いに、蒼弥がくだらないと肩をすくめると、重之が意地悪く口元を歪める。
「どうせ私への反発心から、適当な女と結婚したのだろう。その証拠に、その関係を公にしていないではないか」
「それには、こちらなりの事情があります」
蒼弥の返答を重之は鼻で笑う。
「まあ、いい。どうせお前にとって結婚など、紙切れ一枚の形式的なもので、相手にこだわりなどなんだろう。それなら結婚話しが広まる前にその女とはさっさと離婚して、適当なタイミングで私が勧める相手と結婚しろ」
「お断りします」
気が付いたら、そんな言葉がスルリと口からこぼれ落ちていた。
確かに蒼弥は、結婚になんの価値も感じていない。
重之を牽制するためだけの契約結婚の相手に萌依を選んだのだって、その場の流れとしか言いようがない。
それでいて、重之に別れろと言われて、強い反発心を覚えるのは……。
「俺は案外この結婚が気に入っているようなので」
言葉にしてみて、改めて腑に落ちる。
一緒に暮らすようになってまだ十日あまりだが、どうやら自分は萌依との暮らしを思いの他楽しんでいるらしい。
「そんな、会社の利益に繋がらん女との結婚……」
引き続き文句を言おうとする重之の言葉を、電子音が妨げる。
蒼弥はスーツの内ポケットしまっていたスマホを取り出して、音を止めた。スマホを内ポケットに戻すついでに腕時計で時刻を確認して、重之へと視線を戻す。
「人と会う予定があるので失礼します」
踵を返して退室使用とする蒼弥を、重之の荒い声が引き止める。
「おいっ! 話しは終わってないぞ」
「まだなにか?」
蒼弥が肩を傾けて振り返ると、重之が言う。
「会社の利益に繋がらん女との結婚を、私は認めないからな」
脅しとも取れる重之の言葉を、今度は蒼弥が鼻で笑う。
「認めなければ、どうすると? 俺の妻になにかしらの圧力をかけると言うのであれば、俺と対立する覚悟をお忘れなく」
相手が牽制をしかけてくるなら、こちらもそれに合わせるまで。
無言のままお互い数秒睨み合い、重之の瞳に弱気の影が差したのを見て、蒼弥は薄く笑う。
「その女の存在が、会社の不利益になるようなことがあれば、すぐにでも離婚させるからな」
今度こそ部屋を出て行こうとする蒼弥の背中に、重之が唸る。
やれるものなら、やってみろ。蒼弥は重之の言葉を、負け犬の遠吠えと聞き流して会長室を後にした。
そうやって始まった萌依との暮らしは、驚くほど快適だ。
本人が言っていたとおり萌依は料理上手だし、ちょっとした時間の隙を見つけては、こまめに掃除をしていく。
引き続きハウスキーパーは入れているので、掃除までする必要はないのだが、彼女の性分として全てを人任せにするのは落ち着かないのだという。
なんとも萌依らしい意見だ。
蒼弥としては、全てを彼女任せにしてしまうのが申し訳ないので、週末は『自分の食事に付き合ってほしい』と理由付けして外食に連れ出すことにしている。
成り行きで始まった萌依との結婚生活は、思いの他快適だ。
だからなのか、もともとは祖父を牽制するために始めた契約結婚なのに、会長室への呼び出しをひどく煩わしいものに思えてくる。
蒼弥が会長室に顔を出すと、秘書は蒼弥を会長専用の執務室に案内し、自分は休憩をもらうと告げてドアを閉めた。これからする会話を聞かれたくない重之が、そのように指示しているのだろう。
「会長、お呼びと伺いましたが?」
執務室に入った蒼弥がそう声をかけると、エグゼクティブデスクで鷹揚に待ち構えていた重之は煩わしげに視線を上げた。
そんな顔をするなら呼び出さなければいいと思うのだが、会話の主導権は自分にあると示すための、重之なりのパフォーマンスだ。
だからこそ、蒼弥は鈍感なフリをして相手のペースを崩しにかかる。
「ミツセ氏との共同企画の件でしたら、ご心配なく。発表の時期なども含めて、詳細を詰めている最中です」
ミツセとは、世界的に有名な時計設計師の名前だ。
洋服やジュエリーにデザイナーが存在しているのと同じで、時計にもデザインや設計を担う者がいる。
企業に雇用されて社員としてその業務を担う者もいれば、フリーで仕事を請け負う者もいて、仕事内容も、外装デザインを担う時計デザイナー、内部機構の設計をするムーブメント設計者、企業に属さずに個人で設計製造を担う独立時計師と呼ばれる人たちなどがいる。
ミツセはいわゆる独立時計師で、彼の手掛ける作品は、緻密なムーブメントの動きの美しさに定評があり、世界的に愛好家のいる。
普段ハルモニアの時計は、会社所属の時計設計師が内部構造の設計や全体のデザインを担当している。
ハルモニアの腕時計には百年近い歴史があるからこその定番のデザインがあり、社員でもある設計師は、その伝統敵スタイルを崩すことなく改良を加えていく。
そこには、時の流れを経て磨かれた造形美がある。
だから蒼弥も、先代から受け継ぐそのスタイルを崩す気はない。だが、せっかく倒産の危機を乗り越えて迎えることのできた百年の節目なのだ、少しくらいの遊び心を示したい。
それで以前から個人的面識があったこともあり、世界的に愛好家も多いミツセを口説き落として、数量限定で、共同企画の腕時計を販売することにした。
予定としては十一月に開かれるハルモニアの百周年を記念する式典でそのことを発表し、年末にデザインのお披露目という順に注目を集めて、販売は来年の夏を予定している。
そういった流れを説明する蒼弥に、重之は苦々しく息を吐く。
「会議で聞かされたことを改めて報告させるために、私がお前を呼びつけたと思うか?」
「もしそうなら、迷惑だとは思っています」
蒼弥がニヤリと笑って返すと、重之の眉が跳ねた。
「知らぬ間にお前に家族が増えたようだな。しかも相手は、ウチの社員だとか? そのことを説明をしろ」
蒼弥の権限で、萌依との結婚は極力外部に漏らさないようにしているが、会長である重之にはそのうち伝わるのはわかっていた。
もともと蒼弥が萌依に契約結婚を持ちかけたのは、この重之を牽制するのが目的なので、萌依も彼に知られることは承知してくれている。
それでいて蒼弥の方から結婚の報告をしなかったのは、会長や祖父という間柄であっても、重之に自分の人生に口出しさせる気はないという意思表示のためだ。
「俺が結婚したことをご存じなら、今後は、俺に縁談を持ってくるのはお控えください」
痺れを切らした重之の質問に答える形で宣言すると、重之はますます渋面になる。
「私の縁談を断るためだけに結婚したのか?」
「もしそうだとしたら、クビにでもしますか?」
蒼弥は重之に挑発的な眼差しを向ける。
ミツセとの共同企画のパイプ役は蒼弥が務めている。
百周年の式典を目前に、今のハルモニアの要である自分を排除できるものならしてみろという気分だ。
「お前に人を愛する気持ちがあったのか?」
その問いに、蒼弥がくだらないと肩をすくめると、重之が意地悪く口元を歪める。
「どうせ私への反発心から、適当な女と結婚したのだろう。その証拠に、その関係を公にしていないではないか」
「それには、こちらなりの事情があります」
蒼弥の返答を重之は鼻で笑う。
「まあ、いい。どうせお前にとって結婚など、紙切れ一枚の形式的なもので、相手にこだわりなどなんだろう。それなら結婚話しが広まる前にその女とはさっさと離婚して、適当なタイミングで私が勧める相手と結婚しろ」
「お断りします」
気が付いたら、そんな言葉がスルリと口からこぼれ落ちていた。
確かに蒼弥は、結婚になんの価値も感じていない。
重之を牽制するためだけの契約結婚の相手に萌依を選んだのだって、その場の流れとしか言いようがない。
それでいて、重之に別れろと言われて、強い反発心を覚えるのは……。
「俺は案外この結婚が気に入っているようなので」
言葉にしてみて、改めて腑に落ちる。
一緒に暮らすようになってまだ十日あまりだが、どうやら自分は萌依との暮らしを思いの他楽しんでいるらしい。
「そんな、会社の利益に繋がらん女との結婚……」
引き続き文句を言おうとする重之の言葉を、電子音が妨げる。
蒼弥はスーツの内ポケットしまっていたスマホを取り出して、音を止めた。スマホを内ポケットに戻すついでに腕時計で時刻を確認して、重之へと視線を戻す。
「人と会う予定があるので失礼します」
踵を返して退室使用とする蒼弥を、重之の荒い声が引き止める。
「おいっ! 話しは終わってないぞ」
「まだなにか?」
蒼弥が肩を傾けて振り返ると、重之が言う。
「会社の利益に繋がらん女との結婚を、私は認めないからな」
脅しとも取れる重之の言葉を、今度は蒼弥が鼻で笑う。
「認めなければ、どうすると? 俺の妻になにかしらの圧力をかけると言うのであれば、俺と対立する覚悟をお忘れなく」
相手が牽制をしかけてくるなら、こちらもそれに合わせるまで。
無言のままお互い数秒睨み合い、重之の瞳に弱気の影が差したのを見て、蒼弥は薄く笑う。
「その女の存在が、会社の不利益になるようなことがあれば、すぐにでも離婚させるからな」
今度こそ部屋を出て行こうとする蒼弥の背中に、重之が唸る。
やれるものなら、やってみろ。蒼弥は重之の言葉を、負け犬の遠吠えと聞き流して会長室を後にした。