夜だけ、わがまま聞いて?

午前八時の密室

激しい嵐が嘘のように去った、翌朝。
鳳司の逞しい腕の中からどうにか抜け出した私は、一睡もできないまま制服に着替え、校門へと向かうために玄関へと降りた。
「おはよう、愛李栖。夕べはよく眠れたか?」
後ろから、寝癖を少し残した司が爽やかに声をかけてくる。
昨夜、おでこにキスされた感触が蘇って顔が熱くなるけれど、それ以上に私の身体を支配していたのは、得体の知れない恐怖だった。
玄関の前に停められた、漆黒のマイバッハ。
その横で、いつも通り一糸乱れぬ三つ揃いのスーツを纏い、完璧な角度で一礼する律が立っていた。
「――お嬢様、鳳様。お迎えに上がりました」
声も、表情も、いつも通りの完璧な『鉄壁の執事』。
だけど、車のドアを開けるために差し出された律の右手を見て、私は息が止まりそうになった。
いつもなら真っ白で汚れ一つないはずの手袋が、新調されたばかりの新品であるにもかかわらず、その下の拳がかすかに、みしり……と固く握りしめられている。
「サンキュ。じゃあ愛李栖、行こうぜ」
司が私の肩を抱くようにして、先に車内へ乗り込む。
その瞬間、律の視線が、私のハイネックの襟元へと向けられた。
見られた……!
昨日彼が刻んだ首筋の痕を、私が必死に隠していること。
そして、その痕の上から司に触れられたかもしれないという疑念。
律の瞳の奥が一瞬で、底なしの沼のように暗く濁るのを私は見逃さなかった。
防音ガラスで仕切られた、広すぎる後部座席。
隣には「なぁ、放課後どこ行く?」と無邪気に話しかけてくる司がいる。
けれど、私の意識は完全に、運転席のバックミラーへと吸い寄せられていた。
チカ、と一瞬、ミラー越しに律と目が合う。
その瞬間、律の口元が、スッと歪んだ。
いつもなら絶対に崩さないポーカーフェイス。
なのに、司が窓の外を見た一瞬の隙を突いて、律は私だけに分かるように、妖しく、残酷な笑みを浮かべたのだ。
その目が、声を出さずにこう動いた気がした。
――『お覚悟は、できていますね?』――
ゾク、と背中に冷たい鳥肌が立つ。
昼間なのに。隣に婚約者がいるのに。
バックミラーの向こうにいる律は、完全に昨夜ベランダから私たちを睨みつけていた『飢えたケダモノ』の目をしていた。
「……愛李栖? 顔色悪いぞ。どこか痛むのか?」
「えっ? あ、ううん……なんでもないの」
司が心配そうに私の顔を覗き込み、その大きな手で私の額に触れようとする。
キィィィッ――!!!
「――っ、きゃあ!?」
突如、マイバッハが猛烈なGを伴って急ブレーキをかけた。
シートベルトが身体に食い込み、司の手が私の額から逸れる。
「チッ……! おい、何すんだよ運転手!」
司が不機嫌そうに仕切りガラスを睨みつける。
律はゆっくりと車を路肩に止めると、何食わぬ顔でマイクのスイッチを入れ、スピーカー越しに極上の、冷ややかな声を発した。
「申し訳ございません、鳳様。……野良猫が、急に飛び出してまいりまして。……我が物顔で他人の敷地に踏み入る不届きな『ケダモノ』は、早めに駆除しておかなければなりませんので」
「は? 猫なんていたか?」と怪訝な顔をする司。
だけど、私には分かっていた。
律の言っている「不届きなケダモノ」が司のことであり、そして、約束を破った私への「最初のお仕置き」が、すでに始まっているのだということに。
学校に着いて司が先に車を降りた一瞬、律が私の耳元で囁くであろう言葉を想像して、私は震えが止まらなくなっていた――。
< 10 / 21 >

この作品をシェア

pagetop