夜だけ、わがまま聞いて?

暴かれた刻印

司くんとの1週間の同居生活が明けた日の午後。
私は九龍家の重厚な応接室に呼び出され、ソファの対面に座る厳格な父と司くんを見上げて、指先を震わせていた。
私たちの背後には、いつも通り完璧な角度で一礼した執事の律が、まるですべての感情を消し去った影のように控えている。
「愛李栖、司くん。1週間の試み、大義であった。鳳家の執政とも話し合い、本日、正式にお前たちの婚約届を提出することに決まった」
お父様が冷徹な手つきで、テーブルの上に1枚の重々しい書類――『婚約届』を滑らせた。
「ここにサインをしなさい。九龍家の娘としての義務だ。拒否は許さん」
頭がクラクラした。
ついに、逃げられない現実が目の前に突きつけられたのだ。
チラリと背後の律を盗み見ると、彼は一糸乱れぬ黒のスーツを纏い、鉄壁のポーカーフェイスを崩していない。
だけど、彼が前夜、私の薬指を千切れんばかりに強く噛み締めながら『あなたを監禁してでも離しませんから』と囁いたあの掠れた声が、耳の奥で生々しく蘇る。
もしここで私がサインを拒めば、律の存在がお父様にバレて、律は間違いなく消される。
それだけは絶対に嫌だった。
「……わかり、ました……」
私は涙で視界を滲ませながら、テーブルの上の万年筆を手に取った。
震える手で、書類の署名欄にペン先を落とそうと、俯いたその瞬間だった。
「――待て。愛李栖、その手……どうしたんだ?」
不意に、対面に座っていた司くんが鋭い声を上げ、テーブル越しに私の右手をガシッと掴んだ。
「っ、きゃあ……っ!」
「おい、司くん。何の真似だ」とお父様が眉をひそめる。
けれど、司くんは私のお父様を無視して、私の右手の薬指を凝視していた。
そこには、昨夜律がドロドロとした執着と共に、容赦なく鋭い歯を立てて刻みつけた、赤黒い【噛み痕】がくっきりと残っていたのだ。
「これ、ただの傷じゃないだろ……。誰かに噛まれたような……」
司くんのハスキーな声が、疑惑で低く震える。
私が焦って手を引こうと身をよじった拍子に、制服のハイネックの襟元が、わずかに大きくはだけた。
「……っ!?」
司くんが息を呑むのが分かった。
ハイネックの隙間から見えてしまったのだ。1週間、私が必死に隠し続けていた、首筋から鎖骨にかけて、律が何度も、何度も、激しく上書きして貪り尽くした、どす黒いほどの【キスマークの群れ】が。
「愛李栖……お前、その首の痕……誰につけられたんだよ……ッ!」
司くんがソファから立ち上がり、激しい怒りとショックで端正な顔を歪める。
「なんだと?」とお父様も怪訝な顔で私の首元を覗き込もうとした、その時。
カツン――。
静まり返った応接室に、硬い革靴の音が響いた。
「――お嬢様の手を、あまり強く握らないでいただけますか。鳳様」
後ろに控えていた律が、音もなく一歩前に進み出ていた。
声は、いつも通り完璧に澄んだ執事の声。
けれど、横目で見た律の顔からは、昼間のポーカーフェイスが完全に剥ぎ取られていた。
汗に濡れた前髪の隙間から覗くその瞳は、狂おしいほどの嫉妬と愉悦にギラギラと濡れた、あの『夜のケダモノ』の目をしている。
律はゆっくりと、自分の白い手袋を片手ずつ、引き千切るように脱ぎ捨ててテーブルに放り投げた。
「瀬名……? お前、何の真似だ!」
お父様が激怒して立ち上がる。
けれど、律はお父様など目に入らないと言わんばかりに、司くんの手から私の右手を強引に奪い返すと、自分の大きな手のひらで私の華奢な身体を後ろから抱きすくめた。
「気づくのが遅いんですよ、鳳様。……この1週間、あなたが隣の部屋で気安くお嬢様に触れようとするたび、俺がどんな気持ちでいたか、あなたには分からないでしょう?」
「瀬名、お前……っ、まさか愛李栖に……っ!」
司くんの瞳が、驚愕と、今すぐ律を殴り殺しそうなほどの激しい怒りで燃え上がる。
男二人の視線が、火花を散らすどころか、血を流し合うような殺気でバチバチに交差した。
「お嬢様の身体のすべては、10年前から俺のものです。あの夜、テラスの陰でお嬢様が俺を選んだ時からずっと……。あなたのような男に、1ミリだって触れさせてやるわけがない」
律は司くんを冷酷に見据えながら、わざと見せつけるように、私の首筋の痕へ、自分の熱い唇を深く、深く押し当てた。
「ん……っ、りつ……っ、お父様の前で、だめ……っ」
お父様の絶叫が響くなか、私はお父様への恐怖よりも、ついに自分のすべてを奪い奪還しにきてくれた律の狂暴な愛の重さに、心臓が壊れそうなほどの甘い歓喜の音を立てていた――。
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