レディ・マーメイド
「失礼いたします。亜紋さん、樹莉さまをお連れしました」
ゲストルームの隣は広いリビングダイニングのようだった。
ソファに座ってパソコンを開いていた亜紋が、黒木の声に顔を上げる。
「樹莉、よく眠れた……」
黒木の後ろにいる樹莉を見て、亜紋は驚いたように言葉を止めた。
「おはようございます。昨日は本当にありがとうございました」
樹莉が頭を下げると、亜紋はハッとして口を開く。
「いや。それより今日は仕事は休みか?」
「はい、そうです」
「それならここでゆっくり過ごすといい。それと、昨夜のことについて詳しく話を聞かせてもらいたい」
「わかりました」
神谷に促されて、樹莉は亜紋の向かい側のソファに座った。
コーヒーを二人の前のテーブルに置いた神谷が退室し、黒木は壁際に控える。
亜紋はコーヒーをひと口飲むと、両膝に腕を載せて樹莉を正面から見つめた。
樹莉は思わずドキッとする。
サラリと下ろした前髪から少し覗く形のよい額と涼し気な瞳。
改めて見るとモデルか俳優のようだった。
シャツとスラックスというシンプルな装いながら、亜紋の醸し出すオーラは惹き込まれてしまうような魅力があった。
「樹莉、昨日の夜のことを訊きたい。思い出すのは辛いか?」
短く、だが気遣うように尋ねられ、樹莉は首を横に振る。
「いいえ、大丈夫です」
「そうか。嫌なら答えなくていいから」
「はい」
亜紋は逡巡するように一度視線を落としてから、再び顔を上げた。
「あの男に、樹莉は見覚えがないんだよな? 男の目的にも心当たりはないか?」
「ありません。ただあの時、背後から押さえつけられて訊かれたんです。『どこに隠した? 』と」
亜紋の眉がわずかにキュッと寄せられた。
「私にはなんのことかわからず、訊きたくても息が苦しくて声が出ませんでした。そこをあなたに助けられたのです。本当にありがとうございました」
「いや、怪我がなくてよかった。それより男はなにかを探していて、それを樹莉が持っている、あるいはどこかに隠したと思っている。それにも思い当たるものはないか?」
樹莉は真剣に考えてみたが、やはりなにも思い浮かばなかった。
「そうか。恐らくはパーティーの時に樹莉が手にしたのではないかと俺は思っている。しかもゴミのように一見価値のないものを」
「ゴミ、ですか?」
それならば数え切れないほど回収した。
一番多いのは紙ナフキンだ。
昨日は立食パーティーで、バンケットホール中央の長方形のテーブルにはビュッフェスタイルで料理を並べていた。
ゲストは思い思いにそれをお皿に取り、壁際にある丸テーブルの席に着いて食べる。
樹莉達スタッフはオーダーを受けたドリンクを配って回り、その際に使用済みのお皿とナフキンを回収していた。
「ゴミというなら、その紙ナフキンが一番に思い浮かびます」
「なるほど。樹莉は紙ナフキンを回収した時、なにか不自然なものを見つけなかったか?」
「いえ、なにも。汚れたものですから、その場で広げてチェックをしたりはしません。お客様の目につかないよう、速やかに回収することになっていますし。ただ、バックヤードでゴミ箱に入れる際は、例えば中にピアスや指輪などお客様の大切なものが紛れ込んでいないか、手でクシャッと握って確かめてから捨てています」
「そうか……。もしかしたらそのナフキンになにか文字が書かれていて、気づかずに捨てられたのかもしれないな」
小さく呟いた亜紋が落胆しているように見えて、樹莉は思わず「すみません」と頭を下げる。
「いや、樹莉が謝ることなどない」
「でも念の為、制服のポケットになにか入っていないか確認しますね。ゴミではないものは一度ポケットに入れてバックヤードで確認するのですが、昨日はバタバタしてそれを忘れていたのかもしれません」
「そうか、それはあり得るな」
はい、と頷いた樹莉は、「あっ!」と声を上げた。
「どうした、なにか思い出したか?」
「いえ、違うんです。先程、制服のスカートを神谷さんにクリーニングに持って行っていただいて……」
するとそれまで黙って壁際に控えていた黒木がデスクに歩み寄り、どこかに電話をかけた。
手短に通話を終えると、亜紋に報告する。
「神谷さんに訊いてみたところ、ランドリーに出す際にスタッフと一緒に確認したが、樹莉さまの制服のスカートにも私服のジーンズのポケットにもなにも入っていなかったとのです」
「わかった、ありがとう」
そう答える亜紋に、樹莉はそっと訊いてみた。
「あの、私が知らない間になにかお客様の重要なものを捨ててしまったのでしょうか? それを探して昨日襲われたとか?」
「それについてはまだ断言できない。ただ樹莉はこの先も狙われる可能性が高い」
ハッと樹莉は目を見開く。
昨夜男に襲われた時の恐怖が蘇ってきた。
亜紋は身を乗り出して真っ直ぐ樹莉を見つめる。
「樹莉、しばらく仕事を休めないか?」
「そんな、それは無理です。私はまだバンケットスタッフになって3ヶ月の下っ端ですが、それでも一人欠けるのも大変なほど現場は忙しくて」
「そうか。それなら必ず一人にならないように気をつけてくれ。一人暮らしの部屋にも帰らない方がいい。一番危険なのは昨日と同じ、帰り道だ」
「ですが実家は遠いので、やはり自分の部屋に帰るしかありません。毎日タクシーを使えるほど金銭的な余裕もないです」
「わかった。それならしばらくはここから職場に通え。送迎は黒木にさせる」
はい!?と樹莉は目を丸くする。
「え、あの、どういうことですか?」
「そういうことだ。じゃあ」
亜紋は立ち上がると、呆然としたままの樹莉に背を向けて奥の部屋へと姿を消した。
ゲストルームの隣は広いリビングダイニングのようだった。
ソファに座ってパソコンを開いていた亜紋が、黒木の声に顔を上げる。
「樹莉、よく眠れた……」
黒木の後ろにいる樹莉を見て、亜紋は驚いたように言葉を止めた。
「おはようございます。昨日は本当にありがとうございました」
樹莉が頭を下げると、亜紋はハッとして口を開く。
「いや。それより今日は仕事は休みか?」
「はい、そうです」
「それならここでゆっくり過ごすといい。それと、昨夜のことについて詳しく話を聞かせてもらいたい」
「わかりました」
神谷に促されて、樹莉は亜紋の向かい側のソファに座った。
コーヒーを二人の前のテーブルに置いた神谷が退室し、黒木は壁際に控える。
亜紋はコーヒーをひと口飲むと、両膝に腕を載せて樹莉を正面から見つめた。
樹莉は思わずドキッとする。
サラリと下ろした前髪から少し覗く形のよい額と涼し気な瞳。
改めて見るとモデルか俳優のようだった。
シャツとスラックスというシンプルな装いながら、亜紋の醸し出すオーラは惹き込まれてしまうような魅力があった。
「樹莉、昨日の夜のことを訊きたい。思い出すのは辛いか?」
短く、だが気遣うように尋ねられ、樹莉は首を横に振る。
「いいえ、大丈夫です」
「そうか。嫌なら答えなくていいから」
「はい」
亜紋は逡巡するように一度視線を落としてから、再び顔を上げた。
「あの男に、樹莉は見覚えがないんだよな? 男の目的にも心当たりはないか?」
「ありません。ただあの時、背後から押さえつけられて訊かれたんです。『どこに隠した? 』と」
亜紋の眉がわずかにキュッと寄せられた。
「私にはなんのことかわからず、訊きたくても息が苦しくて声が出ませんでした。そこをあなたに助けられたのです。本当にありがとうございました」
「いや、怪我がなくてよかった。それより男はなにかを探していて、それを樹莉が持っている、あるいはどこかに隠したと思っている。それにも思い当たるものはないか?」
樹莉は真剣に考えてみたが、やはりなにも思い浮かばなかった。
「そうか。恐らくはパーティーの時に樹莉が手にしたのではないかと俺は思っている。しかもゴミのように一見価値のないものを」
「ゴミ、ですか?」
それならば数え切れないほど回収した。
一番多いのは紙ナフキンだ。
昨日は立食パーティーで、バンケットホール中央の長方形のテーブルにはビュッフェスタイルで料理を並べていた。
ゲストは思い思いにそれをお皿に取り、壁際にある丸テーブルの席に着いて食べる。
樹莉達スタッフはオーダーを受けたドリンクを配って回り、その際に使用済みのお皿とナフキンを回収していた。
「ゴミというなら、その紙ナフキンが一番に思い浮かびます」
「なるほど。樹莉は紙ナフキンを回収した時、なにか不自然なものを見つけなかったか?」
「いえ、なにも。汚れたものですから、その場で広げてチェックをしたりはしません。お客様の目につかないよう、速やかに回収することになっていますし。ただ、バックヤードでゴミ箱に入れる際は、例えば中にピアスや指輪などお客様の大切なものが紛れ込んでいないか、手でクシャッと握って確かめてから捨てています」
「そうか……。もしかしたらそのナフキンになにか文字が書かれていて、気づかずに捨てられたのかもしれないな」
小さく呟いた亜紋が落胆しているように見えて、樹莉は思わず「すみません」と頭を下げる。
「いや、樹莉が謝ることなどない」
「でも念の為、制服のポケットになにか入っていないか確認しますね。ゴミではないものは一度ポケットに入れてバックヤードで確認するのですが、昨日はバタバタしてそれを忘れていたのかもしれません」
「そうか、それはあり得るな」
はい、と頷いた樹莉は、「あっ!」と声を上げた。
「どうした、なにか思い出したか?」
「いえ、違うんです。先程、制服のスカートを神谷さんにクリーニングに持って行っていただいて……」
するとそれまで黙って壁際に控えていた黒木がデスクに歩み寄り、どこかに電話をかけた。
手短に通話を終えると、亜紋に報告する。
「神谷さんに訊いてみたところ、ランドリーに出す際にスタッフと一緒に確認したが、樹莉さまの制服のスカートにも私服のジーンズのポケットにもなにも入っていなかったとのです」
「わかった、ありがとう」
そう答える亜紋に、樹莉はそっと訊いてみた。
「あの、私が知らない間になにかお客様の重要なものを捨ててしまったのでしょうか? それを探して昨日襲われたとか?」
「それについてはまだ断言できない。ただ樹莉はこの先も狙われる可能性が高い」
ハッと樹莉は目を見開く。
昨夜男に襲われた時の恐怖が蘇ってきた。
亜紋は身を乗り出して真っ直ぐ樹莉を見つめる。
「樹莉、しばらく仕事を休めないか?」
「そんな、それは無理です。私はまだバンケットスタッフになって3ヶ月の下っ端ですが、それでも一人欠けるのも大変なほど現場は忙しくて」
「そうか。それなら必ず一人にならないように気をつけてくれ。一人暮らしの部屋にも帰らない方がいい。一番危険なのは昨日と同じ、帰り道だ」
「ですが実家は遠いので、やはり自分の部屋に帰るしかありません。毎日タクシーを使えるほど金銭的な余裕もないです」
「わかった。それならしばらくはここから職場に通え。送迎は黒木にさせる」
はい!?と樹莉は目を丸くする。
「え、あの、どういうことですか?」
「そういうことだ。じゃあ」
亜紋は立ち上がると、呆然としたままの樹莉に背を向けて奥の部屋へと姿を消した。