レディ・マーメイド
「樹莉」
「はい」

静かな夜の暗闇に紛れるように、二人は小さな声で話をする。

「ここで、暮らさないか?」
「……え?」

樹莉が亜紋の顔を振り仰ぐと、亜紋はじっと見つめ返した。

「毎日ここからパレ・ド・フローラに通えばいい」
「そんな、私なんかがこんなところで暮らすなんて、分不相応です」
「……ここは不満か?」
「まさか、そうではなくて。私は自分の稼ぎに見合った生活をしています。お給料から家賃と生活費を払って、残ったお金で日々のお楽しみやお買い物に使ったり。自分で地に足つけて生活しています。こんなにも現実離れした贅沢な場所で暮らすなんて、私の財力では無理ですから」
「俺がいいと言ってるのに? 樹莉からお金をもらおうなんて、微塵も思っていない」
「ますますダメですよ。だって理由がありませんから」
「理由は」

亜紋は言葉を止めると、樹莉と視線を合わせて真っ直ぐ射貫く。

「俺が樹莉を好きだからだ」

ハッと樹莉は目を見開いた。

「俺のそばにいろ、樹莉。ひとときも離したくはない」
「亜紋さん、あの……」

樹莉の声がかすれる。
頭の中で色んな気持ちが混じり合った。

(私も亜紋さんが好き。だけど、ここで暮らすのは違う気がする。私は私を失いたくない。亜紋さんに寄りかかって、亜紋さんがいなければ生きていけないような、弱い人間にはなりたくない)

どう言えば伝わるだろうと思っていると、亜紋が不安げに顔を覗き込んできた。

「樹莉?」
「はい、あの……」
「樹莉は他に好きな人がいるのか?」

樹莉は首を横に振る。

「じゃあ、俺が嫌いか?」
「いいえ、そんなことないです。でもここで暮らすことはできません。これは私の価値観なんです」

亜紋はじっと樹莉を見つめてから頷いた。

「そうか、わかった。……人魚姫は海の生活を捨てたが、俺は樹莉からなにも奪いたくはない。だけど俺は樹莉を決して諦めない。俺と樹莉の、二人の答えを見つけていきたい」

それでいいか?と聞かれて、樹莉はコクリと頷く。

「よかった。樹莉、今はこれだけ許してくれ。俺の気持ちを少しでも伝えたい」

そう言うと亜紋は、大きな左手で樹莉の右の頬を包む。

「……可愛い俺の人魚姫」

優しく微笑むと、亜紋はそっと樹莉の頬にキスをした。
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