レディ・マーメイド
込み上げる想い
「んー? 樹莉ちゃん、どうかしたの?」
その日の勤務を終えて更衣室で着替えていると、隣のロッカーの静香に声をかけられた。
「仕事でなにかあった?」
「いえ、そういう訳ではないのですが。ちょっと考えごとというか……」
「ふうん。よし、じゃあご飯食べに行くか!」
「え? 先輩、デートは?」
「今日は女子会。たまにはいいでしょ。ほら、行くよ」
静香に腕を引かれて、樹莉は前回と同じ創作料理のダイニングバー『マーメイド』に向かった。
「ではでは、お疲れ様でした。かんぱーい」
何品かオーダーしてからカクテルで乾杯すると、静香は早速身を乗り出す。
「それでレディ・マーメイドのお悩みは? 王子様にどうやって会いに行こうか、って?」
「もう、先輩。そんなんじゃないですから。それより彼氏さんのデート断って大丈夫でしたか?」
「平気よ。そんな年がら年中一緒にいたら息が詰まるし、たまにはそれぞれの時間も大切にしなきゃね。向こうも今夜は同期と飲んで帰るって」
「そうなんですね。お互いに信頼し合っていてすてきです」
樹莉はグラスの氷をカランと揺らしながら尋ねた。
「先輩は、どうやって彼とおつき合いすることになったんですか?」
「あら、どうしたの急に? 簡単よ。合コンで意気投合して、そのまま今に至るって感じ」
「じゃあ最初から、恋人としておつき合いを始めたってことですよね」
すると静香はなにやら思い当たったらしく、ニヤリと口元を緩める。
「なるほど。樹莉ちゃんは今、恋の入り口に立っているってことね」
「え? どういうことですか?」
「気になる人がいて、その人とこれからどうなっていくのかなーって。考えごとってそれでしょう?」
確かに、と樹莉は言葉もなくうつむいた。
「樹莉ちゃんはその人のことが好きなの?」
「大切な人ではあるんです。だけどおつき合いするとかは考えられなくて」
「どうして?」
「私はふさわしくないし釣り合わないから、つき合うのもおこがましい気がして。でもそんなふうに考えるってことは、本当に好きだとは思っていないからかな、と。そしたら今日、別の人におつき合いをしてほしいと言われて。私はその人のことを好きでもなんでもないのですけど、おつき合いや結婚を考えたら、その人の方がいいような気がしてきて……」
話しながら、そんなふうに考えていたとは、と樹莉自身も驚いた。
(私、和田社長の方が現実的に交際を考えられるってこと? 亜紋さんより?)
まさかそんな、でも、と色んな気持ちが駆け巡る。
静香はグラスをコトッとテーブルに置くと、「樹莉ちゃんさ」と顔を上げた。
「あれこれ考えすぎて疲れてない?」
「あ、はい。すごく疲れてます」
「それってもったいないよ。恋ってもっと楽しむものなんだから。ふさわしいとか釣り合わないとか、そんな客観的なことは考えないで、もっと主体的に動けばいいんだよ」
「主体的に?」
「そう。一緒にいたい、離れたくない。その気持ちがあれば充分、樹莉ちゃんは彼のことが好きなんだよ。逆にそんな気持ちが湧いてこない人は、彼氏にはならないわね」
樹莉は視線を落として考える。
(一緒にいたい、離れたくないと思えるのは亜紋さん。ずっとずっとそばにいてほしい。和田社長は……、理想的な家庭を築けそう。お互いに一般家庭で育って、ホテルの現場で働いてきた。和田社長になら、私は負い目も引け目も感じずに接することができると思う。だけど、それって……)
考えがまとまらないまま、樹莉は静香に口を開いた。
「なにも考えずに恋をするのと、現実的に将来を見据えて生活を共にするのとでは、別の人を思い浮かべてしまうんです。恋と結婚は、夢と現実って感じで別々に考えてしまって」
「なるほどねえ、樹莉ちゃんのシゴデキなところが裏目に出ちゃったわね」
そう言って静香はグッと樹莉に顔を寄せる。
「樹莉ちゃん、仕事では先々を読んで行動することが大事よ。だけど恋はそんなふうにしてはダメ」
「え?」
「仕事ができないくらいでちょうどいいの。なんにも周りが見えてないな、冷静に客観的に物事を捉えてないなって。それでいいのよ、恋はね。大事なのは自分の心の声」
「私の、心の声?」
そう言えば昨日、神谷にも同じことを言われた。
心で返事をしろと。
「小難しい言葉を並べ立てる大人より、小さな女の子に戻ったくらいでちょうどいいのよ、樹莉ちゃんは。私はあなたにふさわしくないわ、なんて言わないで、知っている言葉だけで想いを伝えるの。大好き!ずっと一緒にいてね!って、小さくて可愛い、ちょっとわがままな女の子になればいいのよ」
聞いているうちに、頬が真っ赤になった。
「そんな、私は静香先輩みたいに可愛くないから」
「恋する女の子は、彼の目には誰よりも可愛く映るものよ。それと……」
静香はちょっといたずらっぽく笑う。
「樹莉ちゃん、今誰を思い浮かべて恥ずかしくなったの?」
「え?」
今、誰を……?
大好き!と伝えている自分を想像して頬が赤くなったのは……
「その人が、今樹莉ちゃんが好きな人よ」
想像したのは和田ではない。
(亜紋さん……)
難しい言葉を全部捨てたら、残っていたのは「亜紋さんが好き」
ただそのひと言だった。
その日の勤務を終えて更衣室で着替えていると、隣のロッカーの静香に声をかけられた。
「仕事でなにかあった?」
「いえ、そういう訳ではないのですが。ちょっと考えごとというか……」
「ふうん。よし、じゃあご飯食べに行くか!」
「え? 先輩、デートは?」
「今日は女子会。たまにはいいでしょ。ほら、行くよ」
静香に腕を引かれて、樹莉は前回と同じ創作料理のダイニングバー『マーメイド』に向かった。
「ではでは、お疲れ様でした。かんぱーい」
何品かオーダーしてからカクテルで乾杯すると、静香は早速身を乗り出す。
「それでレディ・マーメイドのお悩みは? 王子様にどうやって会いに行こうか、って?」
「もう、先輩。そんなんじゃないですから。それより彼氏さんのデート断って大丈夫でしたか?」
「平気よ。そんな年がら年中一緒にいたら息が詰まるし、たまにはそれぞれの時間も大切にしなきゃね。向こうも今夜は同期と飲んで帰るって」
「そうなんですね。お互いに信頼し合っていてすてきです」
樹莉はグラスの氷をカランと揺らしながら尋ねた。
「先輩は、どうやって彼とおつき合いすることになったんですか?」
「あら、どうしたの急に? 簡単よ。合コンで意気投合して、そのまま今に至るって感じ」
「じゃあ最初から、恋人としておつき合いを始めたってことですよね」
すると静香はなにやら思い当たったらしく、ニヤリと口元を緩める。
「なるほど。樹莉ちゃんは今、恋の入り口に立っているってことね」
「え? どういうことですか?」
「気になる人がいて、その人とこれからどうなっていくのかなーって。考えごとってそれでしょう?」
確かに、と樹莉は言葉もなくうつむいた。
「樹莉ちゃんはその人のことが好きなの?」
「大切な人ではあるんです。だけどおつき合いするとかは考えられなくて」
「どうして?」
「私はふさわしくないし釣り合わないから、つき合うのもおこがましい気がして。でもそんなふうに考えるってことは、本当に好きだとは思っていないからかな、と。そしたら今日、別の人におつき合いをしてほしいと言われて。私はその人のことを好きでもなんでもないのですけど、おつき合いや結婚を考えたら、その人の方がいいような気がしてきて……」
話しながら、そんなふうに考えていたとは、と樹莉自身も驚いた。
(私、和田社長の方が現実的に交際を考えられるってこと? 亜紋さんより?)
まさかそんな、でも、と色んな気持ちが駆け巡る。
静香はグラスをコトッとテーブルに置くと、「樹莉ちゃんさ」と顔を上げた。
「あれこれ考えすぎて疲れてない?」
「あ、はい。すごく疲れてます」
「それってもったいないよ。恋ってもっと楽しむものなんだから。ふさわしいとか釣り合わないとか、そんな客観的なことは考えないで、もっと主体的に動けばいいんだよ」
「主体的に?」
「そう。一緒にいたい、離れたくない。その気持ちがあれば充分、樹莉ちゃんは彼のことが好きなんだよ。逆にそんな気持ちが湧いてこない人は、彼氏にはならないわね」
樹莉は視線を落として考える。
(一緒にいたい、離れたくないと思えるのは亜紋さん。ずっとずっとそばにいてほしい。和田社長は……、理想的な家庭を築けそう。お互いに一般家庭で育って、ホテルの現場で働いてきた。和田社長になら、私は負い目も引け目も感じずに接することができると思う。だけど、それって……)
考えがまとまらないまま、樹莉は静香に口を開いた。
「なにも考えずに恋をするのと、現実的に将来を見据えて生活を共にするのとでは、別の人を思い浮かべてしまうんです。恋と結婚は、夢と現実って感じで別々に考えてしまって」
「なるほどねえ、樹莉ちゃんのシゴデキなところが裏目に出ちゃったわね」
そう言って静香はグッと樹莉に顔を寄せる。
「樹莉ちゃん、仕事では先々を読んで行動することが大事よ。だけど恋はそんなふうにしてはダメ」
「え?」
「仕事ができないくらいでちょうどいいの。なんにも周りが見えてないな、冷静に客観的に物事を捉えてないなって。それでいいのよ、恋はね。大事なのは自分の心の声」
「私の、心の声?」
そう言えば昨日、神谷にも同じことを言われた。
心で返事をしろと。
「小難しい言葉を並べ立てる大人より、小さな女の子に戻ったくらいでちょうどいいのよ、樹莉ちゃんは。私はあなたにふさわしくないわ、なんて言わないで、知っている言葉だけで想いを伝えるの。大好き!ずっと一緒にいてね!って、小さくて可愛い、ちょっとわがままな女の子になればいいのよ」
聞いているうちに、頬が真っ赤になった。
「そんな、私は静香先輩みたいに可愛くないから」
「恋する女の子は、彼の目には誰よりも可愛く映るものよ。それと……」
静香はちょっといたずらっぽく笑う。
「樹莉ちゃん、今誰を思い浮かべて恥ずかしくなったの?」
「え?」
今、誰を……?
大好き!と伝えている自分を想像して頬が赤くなったのは……
「その人が、今樹莉ちゃんが好きな人よ」
想像したのは和田ではない。
(亜紋さん……)
難しい言葉を全部捨てたら、残っていたのは「亜紋さんが好き」
ただそのひと言だった。