メイドインダーク(マフィア令嬢と少年メイドのインモラル逃亡潜伏)
第二話「妄想と家族ごっこと壊れた少年」(前)
1
午前十時にコーヒーを持っていってあげたら、隣りの控え部屋のドアを叩いても、黒人執事のジョニーさんが出てくる気配がありません。
もちろん陽のあるうち、特に外に出るときなどにはあくまでも「メイド風」の普通の服装ですけれど(あまり派手過ぎない程度のレースがついたシャツと短いスカートで、薄物のハーフパンツなんかを下に履いています)。ボーイッシュな少女みたいで、パッと見には見分けがつかないでしょうけれど、これもマリア様の見立てだったりするわけです。
「ジョニーさん! 寝てるんですか? もう朝の十時ですよ」
ドアをポンポン叩いて呼びかけたりしていると、同じ階のミズ・テートが顔を出して笑いながら「そこは物置だよ」なんて冗談を言うのです。
このテートさんというのはまだ若い金髪の小母さん(四十くらい?)で、アメリカ人らしいユーモアセンスの持ち主なのです(聞くところによれば、元の旦那さんはアメリカ軍の兵士で、駐屯基地内で麻薬の密売で逮捕されて帰ったのですが、テートさんはこの南の国に居ついてしまったのだそうです)。
けれどもこの冗談は少し度が過ぎていると感じました。
だいたい自分が白人だからといって、有色人種の黒人の方を蔑むのは良くないことです。マリア様は白人ハーフですけれども、ボクやジョニーさんに、そんな酷いことは言ったりしないんですから。
「ここは物置なんかじゃないですよ。ジョニーさんに失礼です!」
人としての義務感からボクは少しだけ怒って控えめに言い返します。
多少狭苦しくたって、ここはれっきとした「執事の控え部屋」なのです。
それにジョニーさんはとても良い人なのです。
この「逃亡生活」の始まりから、ずっと付き添ってマリア様とボクを守ってくれています。これまでに何度か暴漢に襲われそうになったときなどにも、ナイフで戦ってやっつけたり撃退したりした「勇敢な大人の男」なんですから。
とても尊敬してます。
ときどきボクシングのコツを教えてくれるし、一、二度ほど短いSEXをしたこともあるけれども、とても気遣ってくれて優しかったんです。「レイプしてゴメンな」などと言ったときの、あの哀しそうな目が脳裏を過ぎるだけで、胸が切なくなるのは、ひょっとしたら「恋」なのかもしれません。でも、それだとマリア様に浮気しているみたいで悪い気もするし、本当の女の人のする「恋」とはまた違う気もします。
テートさんはキョトンとした顔をしたけれど、すぐに思い出したみたいに答えてくれました。
「ああ、そうだったね。あなたの『お友達』が住んでるんだったわね?」
「親友です!(まい・べすと・ふれんど!)」
ボクはカタコトの英語でお返事します。
慣れもありますが、実は勉強はマリア様が毎日教えてくれているんです(高校に通っていた頃の成績は良い方で、特に文系科目では秀才だったらしい)。
そしてマリア様ご自身も、いつかちゃんと大学に行くのが夢なのだそうです。ただ、近い将来に大学の入学資格を得るために自分でコツコツ勉強しているものの、何しろ「逃亡生活」なので肝心の試験を受ける目処が立たないのが悩みの種だとか。それでも諦めず「第二外国語」や「地理とか歴史」なんかを計画的に独学しています。あと、他にも「スクリプト言語のビックリプログラム」を作るのが好きらしく(クリックすると勝手にウィンドウが幾つも開いたりするのとか……)、僕もたまにHTMLとかでホームページ作成するやり方を教わったり(マリア様曰く「中学校の技術や家庭科の授業の替わり」だそうで……)。
テート小母さんは微笑ましげに、哀れむような微笑を浮かべてこう言うのです。
「そうだったわね。『親友』がいるんだったわね」
「そうです! 親友のナイスガイです!」
ボクはジョニーさんの名誉にかけて、ぐっと胸を張って強く断言しました。
それにしても「親友」とは悪くない響き。ほんの思いつきで転がり出た言葉だけれども、ボクとジョニーさんとの間柄にピッタリだと思いませんか? そういえばヨーロッパの言葉(ドイツ語とか)ではしばしば「友達」の意味の言葉が「恋人」の意味を含んでいたりもするそうですし(しょせんはこれもマリア様の受け売りですが)。
「だけどねえ……あんまり騒がないでおくれ」
ですがテートさんが引っ込む前にそう言われると、たしかにその通りだと反省します。
えくすきゅーず・みー。あいむ・そーりー。
とりあえず、追いかけるようにそんなふうに告げて、軽く途方に暮れ。
ボクはとうとうどうしたらいいかわからなくなり、ボクはマリア様と二人で住んでいる部屋へと引き返しました。
マリア様はちょうど午前のお茶を召し上がりつつ、読書のお時間でした。本日のタイトルはドストエフスキーの『白痴(イジオート)』。これはマリア様のお気に入りの本の一つで、お母様と同じロシアの国の、長い長い恋愛小説です(他には『嵐が丘』とかも好きだそうですが、ボクもいつか読んでみたいです)。
「マリア様、ジョニーさんがお寝坊さんです」
ボクがはばかりながら相談したとき、マリア様は思い出したような顔でハッとして、少し哀しげなお顔で教えてくださいました(ジーンズとTシャツの部屋着姿も似合ってます)。
「ジョニーは……その……しばらく出ているわ。わたしの『お馬鹿さん(イジオート)』」
肩透かしを食わされたボクは、キョトンとしつつ相槌を打つのでした。
「そうだったんですか」
そういえば、もうかれこれ何日も、ジョニーさんに会っていない気がします。
ひょっとしたらどこかに「お出かけ」しているのかもしれません。
考えてみれば前にも、マリア様とこんなやり取りがあったように思いますけれども、何だか記憶が曖昧でよく思い出せません。記憶にロックが懸かったみたいになっていて、思い出そうとしても、遡って正確に想起するのが困難なのです。
これはボクの「七不思議」の一つなんだと思います。
昔の日本での生活のことを思い出そうとしても実感がなくて他人事のようで、頭が回想を拒否しているみたいになるし、今現在のマリア様との普段の日常生活のことは割合に細部まで思い出せるのに、ジョニーさんのこととなるとまるで駄目。「親友」として申し訳ないみたいですが、深層心理での関心の高低の違いなんでしょうか、抽象的で観念的な思い出しか浮かばなくって、それが何時何処での出来事だったのかも曖昧で。
それでも落胆をわかって欲しくって、こんなふうに甘えた愚痴をこぼしてみました。
「えっと、コーヒーを入れて持っていったんですけれど……」
「そうなの。ごめんね、先に教えておけば良かったんだけど」
マリア様は少し申し訳なさげに微笑するのです。
「……そのコーヒー、あなたが飲んじゃいなさい。それから昨日の復習のドリル、午前中にやっちゃいなさい」
こういうときのマリア様は、優しい家庭教師みたいです。夜のマリア様も好きだけれども、昼間の「マリアお姉ちゃん」も大好きです。世間的には一応は「遠い親戚の従妹で、奉公がてらの行儀見習い」ということで通っています。
とにかくマリア様の言葉どおりに素直に勉強することにします。マリア様が本を読んでいるテーブルの斜め向かいに座って、数学のドリルを広げます(マリア様がインターネットで探してプロントアウトしたものを、単元のテーマごとにまとめてホッチキスしてくれたのです)。もう一冊、世界史の穴埋めドリルも忘れてはいけません。それにこの位置だと、採点してもらったり、わからないところを説明してもらうのにも便利なのです。
テーブルにボクの鉛筆の音がカリカリと小さく響きます。
マリア様は相変わらず『白痴』の小説を読みながら(日課が「国語・読書の日」なのでしょう)、しばしばチラチラと様子をうかがっているのが気配でわかりました。しばらくすると英語の、ちょっとした辞書のような厚さの文法書なんかを持ってきてパラパラやっていますが、きっと午後の授業でボクに教える内容ややり方も考えているんでしょう。
ついでにマリア様がノートやドイツ語の辞書を開いているのは、英語の例文をドイツ語に直す作文演習をやっているそうです。ドイツ語は英語に似ているそうですが文法の語順配列が独特で(西欧語なのに妙に日本語に似ている?)、しかも冠詞と単語の性別がややこしく、日常的に演習を繰り返さないと習得は無理だとかで(マリア様は「昼も夜も」堅忍不抜で、性格的にねちっこく執念深いところがあります)。「ドイツ語の定番を作ったルターを恨む」とかしばしばボヤいています(宗教改革時代の宗教家のルターの翻訳したドイツ語聖書とかが、現在のドイツ語の下敷きやルーツだそうで)。
そして客観的な科学としての真偽は全く不明ですが、マリア様ご本人曰く「秀才で頭の良い女なんてのは、むしろこんな日々の勉強のストレスと知能と想像力の差で、偏差値不足で相手構わず盛って交尾してるバカ女より内面がエロくなって当たり前」だとか、何とか(マリア様はきっと、本来ならば三十歳前後まで秘められていたはずの危ない内面の蓄積が、人生上のアクシデントで表に決壊してしまったのかもしれません)。
壁にはお手製の「週ごとの授業表」と月や半年ごとの学習目標が貼ってあったり。
この部屋の女主人の性格と「我が家の家風」がこんなところにも反映しています。
今はボクは数学は連立方程式や因数分解のところで、中学校の教科書レベルだけでなくて、高校で習うようなことも「参考までに」チョコチョコ教えてくれたりします(十三歳ですが)。ちなみに教科書には、マリア様が昔に使った数学検定のテキストを使っています。
実はマリア様と過ごしたこの二年間ほどで、社会科や理科、英語の基本的な中学校の内容は大雑把に教わり終わっています。そしてその復習を兼ねて高校初級レベルの「生物・化学」と「世界史」と「英文法」を日替わりで講義してもらうのが日課になっていたり(内容的には重複していますから)。国語は漢字検定のドリルと、マリア様が勧めてくれた本を読むことで補っています。先週からはモーパッサンの短編集を読んでいて、その前にはコナン・ドイルの『シャーロックホームズの冒険』や『ギリシャ神話』の文庫本でした。
体育は「夜のベッドでの運動」の他に、卓球とかをやったりもします。
いつか一緒に高校卒業の試験を受けるのが目標ですから、勉強のモチベーションは充分なのです。それに実際上の問題として、たとえ衣食住に足るお金があったのだとしても、学校にも通わずに(たいして仕事があるわけでもなく)何もせずにいたとしたら、暇と無為で頭がおかしくなってしまうに決まっています。
こんなふうにして、ボクとマリア様の昼の生活はいつも過ぎていくのです。
だけど今日は頼れる執事のジョニーさんがいない。
だったら、いざとなったらマリア様を守るのはメイドのボクの役目なのです。
だからちょっと可愛らしいめのスカートの下に隠蔽された、ハーフパンツの隠しポケットに入れたナイフを、上からこっそり撫でてみました(外出時には上手い具合にウエストポーチの下になる位置です)。これは以前にジョニーさんがボクにくれた宝物で「お守り」でもあるのです。
折りたたみ式なので二つ折りにして、刃の部分をちょうど柄の中に畳めるようになっていますけれども、飛び出した背の部分に輪ッかがついているので片手でも刃を出せるようになっています(安全性を考えてか、開閉のバネは弱いのですが、親指で引っかければ簡単に開けて扱いやすいのです)。それから鈍い金色の金属(真鍮?)の握りの部分は、持ったときに滑らないように側面にギザギザが付いていて、面の部分には象嵌細工が施されているのです。貝の裏の真珠質の部分を加工して表面の溝に嵌めこんであって、模様として綺麗なだけでなくて滑り止めにもなっています。
これもちょっとした「ナイフ職人」さんの芸術作品なのだそうで、そこいらで売っている安物の果物ナイフなんかとは、どだいモノが違う。ブレードはガッシリとして厚く、十センチ近い刃渡りがあってちょっとした「短剣」の仲間だそうで。……もちろん日常のちょっとした作業に使うこともできますし、いざとなれば喧嘩で人を斬りつけたり刺し殺したりするのにも充分頼りになるでしょう(滞在・潜伏中のこの国は、必ずしも治安が良くないですし、マリア様ご自身も追われる身なのですから……)。
いざ争いになったときには、普段から卓球で鍛えている動体視力や反応の機敏さも、きっと役に立つに違いありません。ですからマリア様と卓球をするときには、いつもボクシングのフットワークなんかを密かに意識しています。小さなラケットがナイフの代用で、ピンポンボールは差し詰め、相手の拳骨や突っ込んできた顔面みたいなものでしょうか。
万事に抜かりはありません。
マリア様を守って生き延びるためだったら、ボクはいつだって殺し合いでもなんでもやる覚悟ですから。胸のポケットに備えつけている金属の軸のペンなども、いざとなれば相手の目や喉に突き刺すための武器に使えることでしょう。
けれどもそんな決意を表に出すのは重苦しいし、少々無粋で無作法です。
だからお利口さんに「将来のため」の勉強をすることにします。
「出来ました」
因数分解と連立方程式のプリントを仕上げて、斜め向かいのマリア様に採点に渡し、今度は世界史のプリントに手をつけます。
ややあってマリア様が答え合わせしたプリントを戻してくれます。
計算間違いが何箇所かあったので、世界史のドリルの後で訂正です。
「そうだ」
やがてマリア様が言いました。
「お昼ごはん、ビーフンとパスタとどっちがいいかしら? 晩はロールキャベツでもつくるつもりでいるんだけど。……ちょうど野菜と挽肉があるから、餡かけビーフンとか。それか、野菜入りの炒めパスタとかでもいいけれど」
我が家では習慣として、朝ごはんがボクの担当で(トーストと卵と飲み物程度ですが)、お昼ごはんがマリア様のお手製。それから夕食は週に三・四回くらいはマリア様で、二回くらいはボクが作ります(その都度にマリア様が「家庭科の替わり」に教えてくれるので、ずいぶん上手くなりました)。
ボクはわざと数秒返事をせずに、マリア様の顔をじっと眺めていました。
こういうときのマリア様は、それと自分で気が付かないうちに、とても優しい顔をしているからです。
だってこんなときの、さりげない愛情の籠った視線が一等に大好きなんです。
午前十時にコーヒーを持っていってあげたら、隣りの控え部屋のドアを叩いても、黒人執事のジョニーさんが出てくる気配がありません。
もちろん陽のあるうち、特に外に出るときなどにはあくまでも「メイド風」の普通の服装ですけれど(あまり派手過ぎない程度のレースがついたシャツと短いスカートで、薄物のハーフパンツなんかを下に履いています)。ボーイッシュな少女みたいで、パッと見には見分けがつかないでしょうけれど、これもマリア様の見立てだったりするわけです。
「ジョニーさん! 寝てるんですか? もう朝の十時ですよ」
ドアをポンポン叩いて呼びかけたりしていると、同じ階のミズ・テートが顔を出して笑いながら「そこは物置だよ」なんて冗談を言うのです。
このテートさんというのはまだ若い金髪の小母さん(四十くらい?)で、アメリカ人らしいユーモアセンスの持ち主なのです(聞くところによれば、元の旦那さんはアメリカ軍の兵士で、駐屯基地内で麻薬の密売で逮捕されて帰ったのですが、テートさんはこの南の国に居ついてしまったのだそうです)。
けれどもこの冗談は少し度が過ぎていると感じました。
だいたい自分が白人だからといって、有色人種の黒人の方を蔑むのは良くないことです。マリア様は白人ハーフですけれども、ボクやジョニーさんに、そんな酷いことは言ったりしないんですから。
「ここは物置なんかじゃないですよ。ジョニーさんに失礼です!」
人としての義務感からボクは少しだけ怒って控えめに言い返します。
多少狭苦しくたって、ここはれっきとした「執事の控え部屋」なのです。
それにジョニーさんはとても良い人なのです。
この「逃亡生活」の始まりから、ずっと付き添ってマリア様とボクを守ってくれています。これまでに何度か暴漢に襲われそうになったときなどにも、ナイフで戦ってやっつけたり撃退したりした「勇敢な大人の男」なんですから。
とても尊敬してます。
ときどきボクシングのコツを教えてくれるし、一、二度ほど短いSEXをしたこともあるけれども、とても気遣ってくれて優しかったんです。「レイプしてゴメンな」などと言ったときの、あの哀しそうな目が脳裏を過ぎるだけで、胸が切なくなるのは、ひょっとしたら「恋」なのかもしれません。でも、それだとマリア様に浮気しているみたいで悪い気もするし、本当の女の人のする「恋」とはまた違う気もします。
テートさんはキョトンとした顔をしたけれど、すぐに思い出したみたいに答えてくれました。
「ああ、そうだったね。あなたの『お友達』が住んでるんだったわね?」
「親友です!(まい・べすと・ふれんど!)」
ボクはカタコトの英語でお返事します。
慣れもありますが、実は勉強はマリア様が毎日教えてくれているんです(高校に通っていた頃の成績は良い方で、特に文系科目では秀才だったらしい)。
そしてマリア様ご自身も、いつかちゃんと大学に行くのが夢なのだそうです。ただ、近い将来に大学の入学資格を得るために自分でコツコツ勉強しているものの、何しろ「逃亡生活」なので肝心の試験を受ける目処が立たないのが悩みの種だとか。それでも諦めず「第二外国語」や「地理とか歴史」なんかを計画的に独学しています。あと、他にも「スクリプト言語のビックリプログラム」を作るのが好きらしく(クリックすると勝手にウィンドウが幾つも開いたりするのとか……)、僕もたまにHTMLとかでホームページ作成するやり方を教わったり(マリア様曰く「中学校の技術や家庭科の授業の替わり」だそうで……)。
テート小母さんは微笑ましげに、哀れむような微笑を浮かべてこう言うのです。
「そうだったわね。『親友』がいるんだったわね」
「そうです! 親友のナイスガイです!」
ボクはジョニーさんの名誉にかけて、ぐっと胸を張って強く断言しました。
それにしても「親友」とは悪くない響き。ほんの思いつきで転がり出た言葉だけれども、ボクとジョニーさんとの間柄にピッタリだと思いませんか? そういえばヨーロッパの言葉(ドイツ語とか)ではしばしば「友達」の意味の言葉が「恋人」の意味を含んでいたりもするそうですし(しょせんはこれもマリア様の受け売りですが)。
「だけどねえ……あんまり騒がないでおくれ」
ですがテートさんが引っ込む前にそう言われると、たしかにその通りだと反省します。
えくすきゅーず・みー。あいむ・そーりー。
とりあえず、追いかけるようにそんなふうに告げて、軽く途方に暮れ。
ボクはとうとうどうしたらいいかわからなくなり、ボクはマリア様と二人で住んでいる部屋へと引き返しました。
マリア様はちょうど午前のお茶を召し上がりつつ、読書のお時間でした。本日のタイトルはドストエフスキーの『白痴(イジオート)』。これはマリア様のお気に入りの本の一つで、お母様と同じロシアの国の、長い長い恋愛小説です(他には『嵐が丘』とかも好きだそうですが、ボクもいつか読んでみたいです)。
「マリア様、ジョニーさんがお寝坊さんです」
ボクがはばかりながら相談したとき、マリア様は思い出したような顔でハッとして、少し哀しげなお顔で教えてくださいました(ジーンズとTシャツの部屋着姿も似合ってます)。
「ジョニーは……その……しばらく出ているわ。わたしの『お馬鹿さん(イジオート)』」
肩透かしを食わされたボクは、キョトンとしつつ相槌を打つのでした。
「そうだったんですか」
そういえば、もうかれこれ何日も、ジョニーさんに会っていない気がします。
ひょっとしたらどこかに「お出かけ」しているのかもしれません。
考えてみれば前にも、マリア様とこんなやり取りがあったように思いますけれども、何だか記憶が曖昧でよく思い出せません。記憶にロックが懸かったみたいになっていて、思い出そうとしても、遡って正確に想起するのが困難なのです。
これはボクの「七不思議」の一つなんだと思います。
昔の日本での生活のことを思い出そうとしても実感がなくて他人事のようで、頭が回想を拒否しているみたいになるし、今現在のマリア様との普段の日常生活のことは割合に細部まで思い出せるのに、ジョニーさんのこととなるとまるで駄目。「親友」として申し訳ないみたいですが、深層心理での関心の高低の違いなんでしょうか、抽象的で観念的な思い出しか浮かばなくって、それが何時何処での出来事だったのかも曖昧で。
それでも落胆をわかって欲しくって、こんなふうに甘えた愚痴をこぼしてみました。
「えっと、コーヒーを入れて持っていったんですけれど……」
「そうなの。ごめんね、先に教えておけば良かったんだけど」
マリア様は少し申し訳なさげに微笑するのです。
「……そのコーヒー、あなたが飲んじゃいなさい。それから昨日の復習のドリル、午前中にやっちゃいなさい」
こういうときのマリア様は、優しい家庭教師みたいです。夜のマリア様も好きだけれども、昼間の「マリアお姉ちゃん」も大好きです。世間的には一応は「遠い親戚の従妹で、奉公がてらの行儀見習い」ということで通っています。
とにかくマリア様の言葉どおりに素直に勉強することにします。マリア様が本を読んでいるテーブルの斜め向かいに座って、数学のドリルを広げます(マリア様がインターネットで探してプロントアウトしたものを、単元のテーマごとにまとめてホッチキスしてくれたのです)。もう一冊、世界史の穴埋めドリルも忘れてはいけません。それにこの位置だと、採点してもらったり、わからないところを説明してもらうのにも便利なのです。
テーブルにボクの鉛筆の音がカリカリと小さく響きます。
マリア様は相変わらず『白痴』の小説を読みながら(日課が「国語・読書の日」なのでしょう)、しばしばチラチラと様子をうかがっているのが気配でわかりました。しばらくすると英語の、ちょっとした辞書のような厚さの文法書なんかを持ってきてパラパラやっていますが、きっと午後の授業でボクに教える内容ややり方も考えているんでしょう。
ついでにマリア様がノートやドイツ語の辞書を開いているのは、英語の例文をドイツ語に直す作文演習をやっているそうです。ドイツ語は英語に似ているそうですが文法の語順配列が独特で(西欧語なのに妙に日本語に似ている?)、しかも冠詞と単語の性別がややこしく、日常的に演習を繰り返さないと習得は無理だとかで(マリア様は「昼も夜も」堅忍不抜で、性格的にねちっこく執念深いところがあります)。「ドイツ語の定番を作ったルターを恨む」とかしばしばボヤいています(宗教改革時代の宗教家のルターの翻訳したドイツ語聖書とかが、現在のドイツ語の下敷きやルーツだそうで)。
そして客観的な科学としての真偽は全く不明ですが、マリア様ご本人曰く「秀才で頭の良い女なんてのは、むしろこんな日々の勉強のストレスと知能と想像力の差で、偏差値不足で相手構わず盛って交尾してるバカ女より内面がエロくなって当たり前」だとか、何とか(マリア様はきっと、本来ならば三十歳前後まで秘められていたはずの危ない内面の蓄積が、人生上のアクシデントで表に決壊してしまったのかもしれません)。
壁にはお手製の「週ごとの授業表」と月や半年ごとの学習目標が貼ってあったり。
この部屋の女主人の性格と「我が家の家風」がこんなところにも反映しています。
今はボクは数学は連立方程式や因数分解のところで、中学校の教科書レベルだけでなくて、高校で習うようなことも「参考までに」チョコチョコ教えてくれたりします(十三歳ですが)。ちなみに教科書には、マリア様が昔に使った数学検定のテキストを使っています。
実はマリア様と過ごしたこの二年間ほどで、社会科や理科、英語の基本的な中学校の内容は大雑把に教わり終わっています。そしてその復習を兼ねて高校初級レベルの「生物・化学」と「世界史」と「英文法」を日替わりで講義してもらうのが日課になっていたり(内容的には重複していますから)。国語は漢字検定のドリルと、マリア様が勧めてくれた本を読むことで補っています。先週からはモーパッサンの短編集を読んでいて、その前にはコナン・ドイルの『シャーロックホームズの冒険』や『ギリシャ神話』の文庫本でした。
体育は「夜のベッドでの運動」の他に、卓球とかをやったりもします。
いつか一緒に高校卒業の試験を受けるのが目標ですから、勉強のモチベーションは充分なのです。それに実際上の問題として、たとえ衣食住に足るお金があったのだとしても、学校にも通わずに(たいして仕事があるわけでもなく)何もせずにいたとしたら、暇と無為で頭がおかしくなってしまうに決まっています。
こんなふうにして、ボクとマリア様の昼の生活はいつも過ぎていくのです。
だけど今日は頼れる執事のジョニーさんがいない。
だったら、いざとなったらマリア様を守るのはメイドのボクの役目なのです。
だからちょっと可愛らしいめのスカートの下に隠蔽された、ハーフパンツの隠しポケットに入れたナイフを、上からこっそり撫でてみました(外出時には上手い具合にウエストポーチの下になる位置です)。これは以前にジョニーさんがボクにくれた宝物で「お守り」でもあるのです。
折りたたみ式なので二つ折りにして、刃の部分をちょうど柄の中に畳めるようになっていますけれども、飛び出した背の部分に輪ッかがついているので片手でも刃を出せるようになっています(安全性を考えてか、開閉のバネは弱いのですが、親指で引っかければ簡単に開けて扱いやすいのです)。それから鈍い金色の金属(真鍮?)の握りの部分は、持ったときに滑らないように側面にギザギザが付いていて、面の部分には象嵌細工が施されているのです。貝の裏の真珠質の部分を加工して表面の溝に嵌めこんであって、模様として綺麗なだけでなくて滑り止めにもなっています。
これもちょっとした「ナイフ職人」さんの芸術作品なのだそうで、そこいらで売っている安物の果物ナイフなんかとは、どだいモノが違う。ブレードはガッシリとして厚く、十センチ近い刃渡りがあってちょっとした「短剣」の仲間だそうで。……もちろん日常のちょっとした作業に使うこともできますし、いざとなれば喧嘩で人を斬りつけたり刺し殺したりするのにも充分頼りになるでしょう(滞在・潜伏中のこの国は、必ずしも治安が良くないですし、マリア様ご自身も追われる身なのですから……)。
いざ争いになったときには、普段から卓球で鍛えている動体視力や反応の機敏さも、きっと役に立つに違いありません。ですからマリア様と卓球をするときには、いつもボクシングのフットワークなんかを密かに意識しています。小さなラケットがナイフの代用で、ピンポンボールは差し詰め、相手の拳骨や突っ込んできた顔面みたいなものでしょうか。
万事に抜かりはありません。
マリア様を守って生き延びるためだったら、ボクはいつだって殺し合いでもなんでもやる覚悟ですから。胸のポケットに備えつけている金属の軸のペンなども、いざとなれば相手の目や喉に突き刺すための武器に使えることでしょう。
けれどもそんな決意を表に出すのは重苦しいし、少々無粋で無作法です。
だからお利口さんに「将来のため」の勉強をすることにします。
「出来ました」
因数分解と連立方程式のプリントを仕上げて、斜め向かいのマリア様に採点に渡し、今度は世界史のプリントに手をつけます。
ややあってマリア様が答え合わせしたプリントを戻してくれます。
計算間違いが何箇所かあったので、世界史のドリルの後で訂正です。
「そうだ」
やがてマリア様が言いました。
「お昼ごはん、ビーフンとパスタとどっちがいいかしら? 晩はロールキャベツでもつくるつもりでいるんだけど。……ちょうど野菜と挽肉があるから、餡かけビーフンとか。それか、野菜入りの炒めパスタとかでもいいけれど」
我が家では習慣として、朝ごはんがボクの担当で(トーストと卵と飲み物程度ですが)、お昼ごはんがマリア様のお手製。それから夕食は週に三・四回くらいはマリア様で、二回くらいはボクが作ります(その都度にマリア様が「家庭科の替わり」に教えてくれるので、ずいぶん上手くなりました)。
ボクはわざと数秒返事をせずに、マリア様の顔をじっと眺めていました。
こういうときのマリア様は、それと自分で気が付かないうちに、とても優しい顔をしているからです。
だってこんなときの、さりげない愛情の籠った視線が一等に大好きなんです。