本気のキスに甘くすがって
「もちろん。お前が大丈夫なら、週末に通話もできる。勉強が嫌だと、愚痴ってきてもいいぞ。まあ、最終的にはケツをたたくけどな?」
「うっ……賢人さん、先生だったら絶対スパルタなタイプですね」
「努力を放棄して自滅したい奴は好きにすればいいが、小さくても目標があるなら、そこを目指すための最大限の努力は続けるべきだろう。俺は応援してるだけだ」

 さすが、サッカー部で全国大会に出場する運動神経を持ちながらも、この国で最も権威のある大学を卒業し、大手の証券会社に勤める人だ。みなぎる自信と妥協を許さない姿勢が、明らかにほかの人とは違う。

「応援もしてほしいですけど……もし私が甘やかしてほしい、って言ったら……どうしますか」

 そんな賢人を見つめ、柚子は好奇心で尋ねた。

「決まってる。もういい、もうやめて、ってお前が泣いて止めるまで、考えられる限りの方法全部でお前を徹底的に甘やかすだけだ」
(うっ……何それ、どうなっちゃうの……)

 徹底的にやると言った賢人なら、本当に妥協せずにそうするだろう。
 嬉しくもあるが、自分が駄目人間になってしまいそうで、柚子は少しだけ怖いと思ってしまった。けれども、そんなことを賢人に尋ねられるようになった自分は、賢人に寄りかかる勇気を持てるようになったのかな、とも思った。


   ◆◇◆◇◆


「お母さん、私、明日はちょっと夜遅いかもしれない」
「あら、そうなの」

 五月になり、就職活動の予定が立て込んできた。
 夕飯の席で、柚子は母に就活の予定を告げる。

「明日一次面接があるんだけど、夜の七時開始なの。終わったらまっすぐに帰ってくるから、夕飯は家で食べるね」
「はいはい、わかりました」
「どこの会社だ」

 母はいつもと変わらない調子で頷いたが、その隣にいた父は表情を険しくさせて、詰問口調で尋ねてきた。

「どこって……普通の……サービス業の会社だけど」
「そんな時間に面接を組むなんて非常識だ。行かなくていい」
「行かなくていいって……そういうわけにはいかないよ」

 厳しい口調の父に少しばかり怯えながらも、柚子は首を横に振った。
 明日面接を受ける予定の会社は、第一志望というわけではない。面接経験を積むために、練習として受けるだけの会社だ。とはいえ、向こうも時間を割いて面接の時間を確保してくれているわけで、その面接に行かなくていい、なんてことは決してない。

「そもそも、公務員試験を受けるのに、なぜ一般企業の面接に行く必要があるんだ」
「それは……面接の練習のためで……」

 公務員試験に受かれば、それだけで就職が決まるというわけではない。その後、合格者に対しては面接が行われ、それを突破して初めて公務員としての採用が決まるのだ。
 民間企業の面接とは異なるだろうが、緊張せずになめらかに話せるようになるには、それなりに練習が要る。それに公務員試験に落ちたら、どのみち民間企業に就職するしかない。公務員試験を受けるからといって、一般企業を対象にした就職活動をしなくていい、ということではないのだ。
 だが、父はそうした細やかな事情を知らない。かといって、すべてを丁寧に説明するつもりは、柚子にはない。どうせ説明したところで、返ってくるのは否定の言葉ばかりだからだ。

「だいたい、お前は本当に就職するのか? 女が働いてどうする。家のことができないだろう」

 今日の父は機嫌が悪いのか、イライラしながら持論を持ち出した。いち早く父の不機嫌さを察知した母は、すっかり貝のように黙っている。

「どうせ女は、男と同じようには働けないんだ。責任も背負えないだろう。就職したところで、結婚すればすぐに仕事を辞めるのが女だ。そうして職場に迷惑をかけるんだったら、最初から働かなければいい。大学なんて行くから、就活という空気に染まるんだ。さっさと見合いをすればよかったものを。まったく、女が社会に出るなんて、ろくなことがない」

 柚子の父は、とても前時代的な考え方の持ち主だった。
 女は高校を卒業したら親のつてで見合いをして、結婚して家庭に入る。そして子供を産み、家族のために人生を捧げる。そうすべきで、そうすることが女の幸せだと信じて疑っていない。事実、柚子の母はそのような経緯で父と結婚し、高卒のまま一度も働きに出たことがない。
 そんな母と子供二人を養える分だけ稼ぐ父は、役職も付いて立派な勤め人ではあると思う。しかし、時代遅れも甚だしいその考え方を押し付けられることは、非常に窮屈で煩わしかった。

「ごちそうさまでした」

 そんな父とこれ以上会話を続けたくなくて、柚子は暗い声で挨拶をすると、自分の食器を洗って早々にリビングを後にした。自分の部屋に行き、公務員試験の問題集を開くが、心の中がささくれ立ってしまい、まったく集中できない。

(嫌い……お父さんなんか、大嫌い……っ!)

 解く気にならない問題集を眺めていると、黒く濁った泥が臭い空気を含んでふくらんできて、あっという間に柚子を不愉快に覆う。
 そもそも高校三年生の頃、大学進学を希望したら真っ先に父親から反対された。女が大学を出る必要なんかない、余計な知恵なんかつけなくていい、それよりも見合いをして家庭に入れと、そればかりだった。三つ年上の兄の時は、「なるべくいい大学に入れ」としつこく言っていたのに、女の柚子に対しては百八十度言うことが違った。徹底した男尊女卑思考だった。

 そんな柚子が大学に進学できたのは、兄が味方してくれたからだ。
 今は時代が違う。大学生の半分は女性だし、多くの女性が大学卒業後に働いている。就職することを考えたら、大卒という資格は最低限持っておくべきものだと、「今の」時代について懇々と父を諭してくれたのだ。
 おかげで柚子は大学に進学できたが、決して父の価値観が変わったわけではなかった。父はあくまでも、大学に進学することを嫌々認めてくれただけで、柚子が就職することには反対だった。かろうじて、安定しているということで公務員だけは認めるようなことを口にしたことがあったので、柚子は公務員になることを第一志望にした。

(なんで……いつまでもあんな価値観なの……)
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