【長編版】冷徹弁護士の甘い執着〜八年前の初恋相手に、もう一度捕らわれる〜
 時計を見ると、すでに訪問介護の規定時間はとっくに過ぎている。
 山崎は介護保険を使わない完全プライベートプランでの依頼のため多少の融通は効くものの、不必要な長居はしたくはない。事務所への報告業務も遅れてしまう。

「早く片付けて、引き上げなきゃ」

 麻里はリビングの照明のスイッチを入れ、薄暗かった部屋を明るくする。
 冷たくなった湯呑みをキッチンへ運び、手早く洗って水切りカゴに伏せた。

 その後、居間のローテーブルで訪問介護記録のノートを開いた。
 今日の記録を書こうとして、はたと手を止める。

 いつもなら、『十五時に訪問。バイタル異常なし。手指の痛みを訴えるが、談笑により緩和。水分摂取良好』といった、平穏な一日の記録だけで済むはずだった。

 しかし今日の夕方に起きたことは、あまりにもイレギュラー過ぎた。
 巨大企業の代理人弁護士による、過去の情報漏洩事件に関する事実上の尋問。そして、被介護者の激しい精神的パニックと、それに伴う一時的な記憶の混濁。

(……どこまで詳しく書くべきかしら)

 事業所への報告書に、ミツルギ重工や鳳法律事務所の名前をそのまま出すわけにはいかない。それは守秘義務にも関わることだ。
 しかし、山崎の精神状態に大きな負荷がかかったという事実は書く必要がある。
 確実に申し送りをしておかなければ、ケアマネジャーにや他のスタッフに迷惑がかかるし、今後の介護プランに支障が出る。

 麻里は慎重に言葉を選びながら、記録を書き進めた。

『十七頃、外部の来客(法的な手続きに関する面談)あり。面談中、過去の記憶に関連する強い精神的緊張が見られた。両手の震え、呼吸促迫、軽度のパニック状態に陥るが、すぐに回復。頓服薬(抗不安薬)を服用後、寝室にて就寝。明日の訪問時、精神面の安定度、およびリウマチの疼痛悪化がないか観察を要する』

 麻里は自分で記した事務的な文字を見つめた。虚偽はない。けれどこの文章からは、本当は何があったか知ることは出来ない。

(仕方ないわ。説明を求められたら正直に答えればいい)

 短くため息を吐き、麻里は別のメモ用紙を引っ張り出す。
 こちらは山崎へ向けた伝言用のメモだ。

 彼が目を覚ました時に混乱しないよう、麻里はいつもメモを残している。
 認知障害が軽度なため夜にスタッフがついている必要はないが、万一に備えて目に見える安心を残しておくことは何よりも重要だった。

『山崎さんへ。お薬が効いて気持ちよさそうに眠られていたので、そのままお布団で休んでいただきました。弁護士の先生は山崎さんのお話をしっかり聞いて、「今日はここまでにしておきましょう」と安心した様子でお帰りになりましたよ。何も心配することはありませんからね。また明日、いつものようにお散歩の時間にお伺いします。温かいお茶を一緒に飲みましょう。佐倉麻里より』

 出来るだけ分かりやすいメッセージを書き終え、それをローテーブルの真ん中にそっと置く。

「よし、これで大丈夫……」

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