【長編版】冷徹弁護士の甘い執着〜八年前の初恋相手に、もう一度捕らわれる〜
 麻里が山崎の方を向くと、彼はただ唇を噛み締めうつむいただけだった。
 それはまるで肯定しているかのような仕草だ。

「今日はこちらの『念書』に署名をいただきに来ました。過去の罪を認め、被害総額の一部を賠償することに合意していただく」

 福村が書類とペンを差し出す。
 麻里は目の前の光景が信じられなかった。

 自分をリストラに追い込んだ会社の元凶が、世話をしていた老人であったという事実。
 そしてその罪を白日の下に晒し、冷徹に裁こうとしているのが、かつての初恋の人であるという現実。

(待って……待ってよ)

 麻里の指先が戸惑いで微かに震える。

(落ち着くのよ。今の私は山崎さんの介護士。私がやるべきことは……)

 そして気付けば口を開いていた。

「――待ってください、福村先生」

 麻里の声が、静まり返った居間に響く。福村の動きがぴたりと止まった。
 彼は冷ややかな視線を、スローモーションのようにゆっくりと麻里へ向けた。

「……何か? 私は今、依頼人であるミツルギ重工の権利を行使している。妨害は業務妨害罪に問われる可能性があるが、理解しているか」

 完全な警告だ。麻里の喉が恐怖で引き攣る。
 けれど彼女は福村と山崎の間に割り込んだ。

「山崎さんは今、その署名に応じられません」

 麻里は福村の目をまっすぐ見据えてはっきりと言い切る。
 相手が誰であろうと、今の麻里は戸惑って震えている山崎をサポートするのが仕事だ。
 麻里は手を握りしめて言葉を続けた。

「山崎さんには軽度の認知障害があり、事理弁別能力……つまり法的判断能力が著しく低下する場合があります。ご本人が内容を十分に理解していない状態での合意形成は、後日、意思無効として取り消しの対象になります」

 福村の瞳が僅かに細められ、鋭く麻里を射貫いた。

「……なるほど。だが能力に欠缺(けんけつ)があると見なす客観的根拠はない。意思能力の有無を争うなら、立証責任はそちらにある」
「医師の診断書がありますし、手帳も交付されています」
「軽度ならば判断能力はあるとも捉えられる。現状、彼は私の提示した証拠群に対して有効な反論を一切行わなかった。これは事実上の承認と解すべきだ」

 淀みのない完璧な法理を示される。
 けれど麻里は必死に食い下がった。

「いいえ、沈黙は承認ではありません! 弁護士職務基本規程第五条、信義則の問題です。福村先生は、相手方が判断能力に疑いがあることを『見ないふり』で済ませるおつもりですか?」

 麻里の言葉に福村の眉がピクリと動く。
 彼に睨まれるとまるで法廷に立たされたような気分になる。けれど退くことはできない。

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