【長編版】冷徹弁護士の甘い執着〜八年前の初恋相手に、もう一度捕らわれる〜
「私は介護士として、毎日彼の隣でその『判断能力』の揺らぎを見ています。このような強圧的な交渉の場において、山崎さんが正常な判断を下すことは不可能です。署名を強行することは、判断能力を欠く相手に乗じた『不当な合意』にあたります」

 福村は冷徹な眼差しを崩さないまま、低く応じた。

「介護職としての『主観』を、規程違反にまで飛躍させるか。だが、彼がこの場で拒絶の意思を示さない以上、私の手続きは適正だ」
「いいえ、適正ではありません。精神面だけではないのです」

 麻里は山崎の震える右手を指差した。

「見てください。山崎さんは重度の関節リウマチを患っています。特に関節が強張る夕方のこの時間、彼は自分でお箸を持つことさえままならない。そんな彼に、その細い万年筆を握らせて書かせるサインに、一体どんな『本人の自由意思』が宿るというんですか?」

 福村の視線が、初めて山崎の変形した指先へと落ちる。
 麻里は畳み掛けるように言葉を続けた。

「指一本動かすのにも激痛を伴う今の彼に署名を迫る行為は、物理的強制に近い。……先生が求めるのは、後で簡単にひっくり返される『形だけの紙切れ』ですか? それとも、法的に一点の曇りもない『真実の合意』ですか?」

 福村はすぐに言い返すことなく、麻里をじっと見つめていた。
 張りつめた空気の中、麻里の心臓が大きく跳ねる。

(一介の介護士が言い過ぎ、よね……。これで山崎さんに不利益が生じたらきっとクビだわ)

 内心焦っていると、福村の鋭い眼差しがほんの少しだけ緩んだ。
 そして彼は口角をあげて優雅に微笑んだ。

「私に法的に瑕疵(かし)のない手続きをしろと、そう教示するつもりか」

 怒りではない。なにかを楽しんでいる気がした。
 昔から先輩はそうだった。
 結論がでない議論を少しずつ前に進めていくのが好きなのだ。

(変わらないですね、福村先輩)

 麻里はまるで八年前にタイムスリップしたかのような感覚になった。
 だから、福村先輩になら提案が出来る。そう思ってしまったのだ。

「そうです。だから、今日はお引き取りください。そして何度もここへ足を運ぶべきです。山崎さんの体調と精神状態が安定している時間に、ご本人に納得いくまで説明を尽くすべきです。もちろん私も山崎さんが理解できるようサポートいたします。……それが弁護士としての誠実な仕事ではないですか?」

 正直、あまりにも無謀な提案だった。
 大企業の代理として来ている彼にはかなり難しいだろう。

 けれど福村は間を置かずにうなずいた。

「……いいだろう。私が自ら足を運び、彼の『合意』を直接確認させてもらう」

 福村はそれだけ言うと鞄を手に取り、玄関へと向かった。


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