姫の花道
「これがいまから十五年前の話。月の国は、セリス姫が無自覚なまま誰かを『選ばないように』女性だけで構成された離宮へと隔離し、厳重に管理して世間とのつながりを断ってきた。そして対外的には、まるでそんな姫など存在していないかのように振る舞ってきた――それがわたしの聞いている話のすべてよ」
寄木細工のはまった窓から差し込む光の中、銀色の髪に櫛を通してもらいながら、セリスは鏡の中の自分を見つめる。
(セリス。「覇王を選ぶ姫」それがわたし)
緑の瞳が、瞬きもせずに自分を見返してきた。
「月の国は、歴史ある古い王国。そして小さな国です。めざましい勢いで台頭してきた新興国に囲まれ、難しい立ち位置にありますから、おいそれと姫の存在がよそに知られるわけにはいかなかったのです」
櫛を使いながら、侍女のマイヤが答える。
「理屈はわかるの。いっそ『最初からいないもの』として放逐しようにも、わたしが王家の目の届かないどこかで誰かを選んだら、世界が大変なんですものね。世界が!」
この日セリスが身に着けているカフタンは、繊細なレースや真珠の刺繍で彩られた豪勢なもので、一人では着付けられないほど複雑な意匠であった。
これまで人前に出る機会がなかったセリスには縁のないものである。
華奢な肩にふわりと流れるのは、銀の髪。月の王家の証だ。
(私は「世界」を知らない。でも、この髪の色はとても特殊だと聞いているわ。王家とは無関係な存在として野に放つこともできないくらいに)
生かすならば、隠すしかなかった。
男性たちから、他国から。
「姫様、ずーっと閉じ込められてきたご不満はもっともなことと思いますが、王宮でいきなり誰彼構わず喧嘩を売るようなことがあってはいけませんよ」
「わかっています。私は予言の姫。世界を変える王を選ぶ……」
セリスは、もう一度鏡を見つめる。
自分自身と目を合わせて、問いかける。
「私が選んだ相手が世界を統べる覇王となるとして――その傍らに立つ私はいったい、何者なのかしら?」
奇妙にねじれた運命の予言。
選んだ相手がこの世界のすべてを手にする覇王になったとして、王の覇業はセリスの手柄ではなく、王の手にしたものはセリスの所有物でもないだろう。
(覇王の添え物? 争い、奪われる女? それでわたしの手には、何が残るというの?)
自分の手に目を落とす。
重いものを持ったことがない、水仕事をしたことがない、苦労を知らぬ手だ。
その手が、まだ出会ってもいない、この世のどこかにいるであろう相手の手を取ることを想像する。
(……「男性」に出会ったことがないんだもの。想像がつかないわ)
思い描くのを諦めようとしたそのとき、セリスの脳裏をよぎったのは、かつて離宮をとりまく森の奥で、ただ一度きり、偶然出会った少年の姿だった。
金色の髪、金色の瞳。
すらりと若木のように背が高く、声が低く、離宮にいる女官たちとは何もかもが違った。
隠れて剣の稽古をしていたという少年は、真夜中に離宮を抜け出してきたセリスに手を差し伸べた。
セリスは、その手を取った。すんなりと長い指なのに、触るとでこぼことしていて固く、大きな手をしていた。
このひとは男性なのだ、と幼いセリスにも直感的にわかった。離宮に残されていた古ぼけた絵本に描かれていた男性に似ていた。
無邪気に、セリスは少年に話しかけた。
“あなたは太陽の神、アスランディアみたいね”
大きく見開かれた瞳。驚きに打ちのめされた顔。すぐに彼は表情を引き締めてセリスに言った。
“二度とその名を口にしてはいけない”
「姫様、もう間もなく王宮からの迎えが到着するかと思います。最後の確認をしますので、お立ちになって、全身を見せていただけますか」
マイヤに声をかけられて、セリスは椅子から立ち上がる。
自分が長く過ごしてきた離宮の一室を見回して、呟いた。
「予言の姫は十五歳となり、結婚相手を選ぶのにふさわしい頃合いと、ついに王宮へと呼び出されることになった、と」
セリスは、これから選ぶのだ。
月の国の民から、覇王になる人間を。
(建前と、聞いたわ。たとえ月の民から次代の王となる人間が現れたとしても、月には古い王家があり、わたしには兄がいる。立太子されておらず、後継者として認定されていないとは聞くけれど、どう考えても、わたしが兄王子を選ぶのが、月の国にとって最善の道よ)
選ぶという言葉が何を意味しているのか、正確なところはわからない。
わかっているのは、セリスに期待されているのは「兄を選ぶこと」ただそれだけだ。
そしておそらく、「他の相手を選ぶことがないように」セリスはまた男性からは遠ざけられる。
覇王が男性に限られたことではないとすれば、今度は完全に女性からも遠ざけられ、すべての人間から隔離されるかもしれない。
セリス自身が「覇王」となるわけではないのだから、選定後は用済みなのだ……。
「あまり追い詰められすぎると、部屋の中に入り込んできた虫ですら、私の運命の相手に思えて手を取ってしまうかもしれないわよ」
鏡の中から見返してくる銀色の姫と目を合わせて、セリスは唇を噛みしめる。
そのとき、ドアをノックする音が響いた。
先んじて「お待ちください!」と悲鳴じみた声を上げながら、侍女が部屋に入ってくる。
セリスを見て、早口に告げてきた。
「ゼファード様が、姫様を直々にお迎えにいらしてます!」
それは、兄王子の名。
ハッと息を呑んで、セリスは振り返る。
開け放たれた戸口に、背の高い相手が立っているのが見えた。
寄木細工のはまった窓から差し込む光の中、銀色の髪に櫛を通してもらいながら、セリスは鏡の中の自分を見つめる。
(セリス。「覇王を選ぶ姫」それがわたし)
緑の瞳が、瞬きもせずに自分を見返してきた。
「月の国は、歴史ある古い王国。そして小さな国です。めざましい勢いで台頭してきた新興国に囲まれ、難しい立ち位置にありますから、おいそれと姫の存在がよそに知られるわけにはいかなかったのです」
櫛を使いながら、侍女のマイヤが答える。
「理屈はわかるの。いっそ『最初からいないもの』として放逐しようにも、わたしが王家の目の届かないどこかで誰かを選んだら、世界が大変なんですものね。世界が!」
この日セリスが身に着けているカフタンは、繊細なレースや真珠の刺繍で彩られた豪勢なもので、一人では着付けられないほど複雑な意匠であった。
これまで人前に出る機会がなかったセリスには縁のないものである。
華奢な肩にふわりと流れるのは、銀の髪。月の王家の証だ。
(私は「世界」を知らない。でも、この髪の色はとても特殊だと聞いているわ。王家とは無関係な存在として野に放つこともできないくらいに)
生かすならば、隠すしかなかった。
男性たちから、他国から。
「姫様、ずーっと閉じ込められてきたご不満はもっともなことと思いますが、王宮でいきなり誰彼構わず喧嘩を売るようなことがあってはいけませんよ」
「わかっています。私は予言の姫。世界を変える王を選ぶ……」
セリスは、もう一度鏡を見つめる。
自分自身と目を合わせて、問いかける。
「私が選んだ相手が世界を統べる覇王となるとして――その傍らに立つ私はいったい、何者なのかしら?」
奇妙にねじれた運命の予言。
選んだ相手がこの世界のすべてを手にする覇王になったとして、王の覇業はセリスの手柄ではなく、王の手にしたものはセリスの所有物でもないだろう。
(覇王の添え物? 争い、奪われる女? それでわたしの手には、何が残るというの?)
自分の手に目を落とす。
重いものを持ったことがない、水仕事をしたことがない、苦労を知らぬ手だ。
その手が、まだ出会ってもいない、この世のどこかにいるであろう相手の手を取ることを想像する。
(……「男性」に出会ったことがないんだもの。想像がつかないわ)
思い描くのを諦めようとしたそのとき、セリスの脳裏をよぎったのは、かつて離宮をとりまく森の奥で、ただ一度きり、偶然出会った少年の姿だった。
金色の髪、金色の瞳。
すらりと若木のように背が高く、声が低く、離宮にいる女官たちとは何もかもが違った。
隠れて剣の稽古をしていたという少年は、真夜中に離宮を抜け出してきたセリスに手を差し伸べた。
セリスは、その手を取った。すんなりと長い指なのに、触るとでこぼことしていて固く、大きな手をしていた。
このひとは男性なのだ、と幼いセリスにも直感的にわかった。離宮に残されていた古ぼけた絵本に描かれていた男性に似ていた。
無邪気に、セリスは少年に話しかけた。
“あなたは太陽の神、アスランディアみたいね”
大きく見開かれた瞳。驚きに打ちのめされた顔。すぐに彼は表情を引き締めてセリスに言った。
“二度とその名を口にしてはいけない”
「姫様、もう間もなく王宮からの迎えが到着するかと思います。最後の確認をしますので、お立ちになって、全身を見せていただけますか」
マイヤに声をかけられて、セリスは椅子から立ち上がる。
自分が長く過ごしてきた離宮の一室を見回して、呟いた。
「予言の姫は十五歳となり、結婚相手を選ぶのにふさわしい頃合いと、ついに王宮へと呼び出されることになった、と」
セリスは、これから選ぶのだ。
月の国の民から、覇王になる人間を。
(建前と、聞いたわ。たとえ月の民から次代の王となる人間が現れたとしても、月には古い王家があり、わたしには兄がいる。立太子されておらず、後継者として認定されていないとは聞くけれど、どう考えても、わたしが兄王子を選ぶのが、月の国にとって最善の道よ)
選ぶという言葉が何を意味しているのか、正確なところはわからない。
わかっているのは、セリスに期待されているのは「兄を選ぶこと」ただそれだけだ。
そしておそらく、「他の相手を選ぶことがないように」セリスはまた男性からは遠ざけられる。
覇王が男性に限られたことではないとすれば、今度は完全に女性からも遠ざけられ、すべての人間から隔離されるかもしれない。
セリス自身が「覇王」となるわけではないのだから、選定後は用済みなのだ……。
「あまり追い詰められすぎると、部屋の中に入り込んできた虫ですら、私の運命の相手に思えて手を取ってしまうかもしれないわよ」
鏡の中から見返してくる銀色の姫と目を合わせて、セリスは唇を噛みしめる。
そのとき、ドアをノックする音が響いた。
先んじて「お待ちください!」と悲鳴じみた声を上げながら、侍女が部屋に入ってくる。
セリスを見て、早口に告げてきた。
「ゼファード様が、姫様を直々にお迎えにいらしてます!」
それは、兄王子の名。
ハッと息を呑んで、セリスは振り返る。
開け放たれた戸口に、背の高い相手が立っているのが見えた。