姫の花道
(光の加減で顔が見えない)
相手を確認するべく、セリスはサンダル履きの足で駆け出す。
そのときセリスを突き動かしたのは、好奇心であると同時に「世界」への強い意志だった。
不意に開かれた扉の向こうに現れた相手は、セリスが初めて触れ合う「世界」だ。
恐れずにその前に立ち、しっかりと目に焼き付けてみよう。
――わたしは「世界」を知りたい。
走り込んだセリスの前に立っていたのは、見たこともない人間だった。
襟の高い象牙色のカフタンに、装飾性のない皮の腰帯。直剣を佩いている。
白金色のやわらかそうな髪は、首の後ろで束ねているようだ。
浅く焼けた細面に、無骨な眼鏡をかけており、レンズの向こうの瞳は明るい茶色。その瞳が、驚いたように軽く見開かれていた。
(銀髪では……ない? 月の王子であるゼファード兄様ではないの? 誰……?)
相手の目が、セリスの銀色の髪を確認したのを感じた。
視線がぶつかる。
その瞬間、音がすべて消えた。
世界にはセリスと目の前の相手の二人だけしか存在しないかのような、永遠の一瞬。
「あなたは誰ですか?」
先に口を開いたのはセリスで、自分でもびっくりするほど単純でぶしつけな質問をしてしまった。
「ラムウィンドス」
即座に、低くかすれたような声が答える。
(男の人の声。女の人と全然違う)
耳にじんわりとした余韻が残る。もっと聞きたいと思う。それをどう伝えて良いかわからず、セリスは名乗った。
「わたしはセリスです」
「知っている」
返答は、おそろしくそっけなかった。
ラムウィンドスは、すっと廊下を振り返り、声を上げた。
「ゼファード様。笑っていないで早くこちらへ。子どものお守りは俺の仕事ではない」
「……子どものお守り?」
離れた位置から「はっはっは」と明るい笑い声が響いた。
女性ではない、男性の声で。
すぐに、ラムウィンドスの横に人影が現れる。
ゆるく曲のついた長い銀の髪を、緑色の肩掛けに流した背の高い人物。
真珠の刺繍と豪奢な房飾りのついた濃緑の長衣を艶やかに着崩している。水際立った容姿、奔放で華麗な雰囲気。
離宮暮らしであったセリスが、これまで出会ったこともない相手であるが、女性ではないというのは直感的にわかった。
「こんにちは、姫。ゼファードだ。君の兄だよ。迎えにきた、よろしくね」
愛想良く笑いながら、隣に立つラムウィンドスの肩に頭をのせるように傾げて、軽くしなだれかかる。
ラムウィンドスは猛烈に嫌そうな表情をしたが、ゼファードはそれには構わず、セリスを見つめてあっさりと言い放った。
「君には煩わしい予言がある。おそらく、王宮に行けば私と君が仲良くするよう、誰も彼もが余計な気を回すことだろうが、実に迷惑なことだ。大事の前の小事のように考えている者も多いようだが、私は兄妹婚の禁忌を犯すつもりはない」
兄妹婚。
さらっと口にされた言葉に、セリスは顔をこわばらせた。
(やはり「王を選ぶ」というのはそういう意味なのね……!)
男女における結婚というのは、男性を目にしたことがなかったセリスは概念でしか知らないが、「禁忌」の言葉の重さから緊迫感が伝わってくる。
ゼファードは、微笑んだまま言った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。私は予言というものをさほど信じない性質なんだ。か弱き姫に『選ばれた』だけで、この動乱の時代に世界の覇者になれるなんて、そんな簡単な話も信じない。だから君は、好きに生きればいい」
「好きに……生きる?」
ゼファードに対して、冷たい視線を注いでいたラムウィンドスが、ぼそりと呟いた。
「これだけ長い間こんな辺鄙なところに閉じ込めて、いまさら『好きに生きる』も何もない」
うんうん、それはそう。
セリスは思わず、頷いて同意しそうになった。
しかし、続くラムウィンドスの言葉にそんな気持ちは消え去った。
「どうせ世間知らずで、無知で、甘ったれで、自分ひとりでは何もできない。競争相手もいないし、頑張らなくても生きていけるとあらば、怠惰であっても咎められることもない。恐ろしく無能の役立たずだろう。『好きに生きればいい』と言われても、何も思いつきもしないさ」
彼の言葉は、それまでセリスが生きてきた世界には無い冷ややかさと敵意に満ちていた。
「なんですって」
目を大きく見開き、唇を震わせてセリスが言っても、ラムウィンドスはどこを吹く風といった態度である。
ふん、と鼻で笑って言い返してきた。
「何か問題でも?」
「問題しかないです! あ、あ、あなたにわたしの何がわかると言うのですか!」
「何も。知らない、興味もない」
「ならばなぜ、決めつけるようなことを言うのです!」
無知で甘ったれで怠惰で無能と言われた。
ぷるぷると怒りに震えるセリスを見つめて、ラムウィンドスは「聞かれたから一応答える」というだけの気のない態度で言い放った。
「知らなくてもわかるからだ。その年まで引きこもっていたのなら、いっそ一生引きこもって外になんて出てこなければいいものを。弱い人間が生きていけるほど、世界は優しくない」
世界が優しくないなんて。
そんなことは、セリスだってよくわかっている。
相手を確認するべく、セリスはサンダル履きの足で駆け出す。
そのときセリスを突き動かしたのは、好奇心であると同時に「世界」への強い意志だった。
不意に開かれた扉の向こうに現れた相手は、セリスが初めて触れ合う「世界」だ。
恐れずにその前に立ち、しっかりと目に焼き付けてみよう。
――わたしは「世界」を知りたい。
走り込んだセリスの前に立っていたのは、見たこともない人間だった。
襟の高い象牙色のカフタンに、装飾性のない皮の腰帯。直剣を佩いている。
白金色のやわらかそうな髪は、首の後ろで束ねているようだ。
浅く焼けた細面に、無骨な眼鏡をかけており、レンズの向こうの瞳は明るい茶色。その瞳が、驚いたように軽く見開かれていた。
(銀髪では……ない? 月の王子であるゼファード兄様ではないの? 誰……?)
相手の目が、セリスの銀色の髪を確認したのを感じた。
視線がぶつかる。
その瞬間、音がすべて消えた。
世界にはセリスと目の前の相手の二人だけしか存在しないかのような、永遠の一瞬。
「あなたは誰ですか?」
先に口を開いたのはセリスで、自分でもびっくりするほど単純でぶしつけな質問をしてしまった。
「ラムウィンドス」
即座に、低くかすれたような声が答える。
(男の人の声。女の人と全然違う)
耳にじんわりとした余韻が残る。もっと聞きたいと思う。それをどう伝えて良いかわからず、セリスは名乗った。
「わたしはセリスです」
「知っている」
返答は、おそろしくそっけなかった。
ラムウィンドスは、すっと廊下を振り返り、声を上げた。
「ゼファード様。笑っていないで早くこちらへ。子どものお守りは俺の仕事ではない」
「……子どものお守り?」
離れた位置から「はっはっは」と明るい笑い声が響いた。
女性ではない、男性の声で。
すぐに、ラムウィンドスの横に人影が現れる。
ゆるく曲のついた長い銀の髪を、緑色の肩掛けに流した背の高い人物。
真珠の刺繍と豪奢な房飾りのついた濃緑の長衣を艶やかに着崩している。水際立った容姿、奔放で華麗な雰囲気。
離宮暮らしであったセリスが、これまで出会ったこともない相手であるが、女性ではないというのは直感的にわかった。
「こんにちは、姫。ゼファードだ。君の兄だよ。迎えにきた、よろしくね」
愛想良く笑いながら、隣に立つラムウィンドスの肩に頭をのせるように傾げて、軽くしなだれかかる。
ラムウィンドスは猛烈に嫌そうな表情をしたが、ゼファードはそれには構わず、セリスを見つめてあっさりと言い放った。
「君には煩わしい予言がある。おそらく、王宮に行けば私と君が仲良くするよう、誰も彼もが余計な気を回すことだろうが、実に迷惑なことだ。大事の前の小事のように考えている者も多いようだが、私は兄妹婚の禁忌を犯すつもりはない」
兄妹婚。
さらっと口にされた言葉に、セリスは顔をこわばらせた。
(やはり「王を選ぶ」というのはそういう意味なのね……!)
男女における結婚というのは、男性を目にしたことがなかったセリスは概念でしか知らないが、「禁忌」の言葉の重さから緊迫感が伝わってくる。
ゼファードは、微笑んだまま言った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。私は予言というものをさほど信じない性質なんだ。か弱き姫に『選ばれた』だけで、この動乱の時代に世界の覇者になれるなんて、そんな簡単な話も信じない。だから君は、好きに生きればいい」
「好きに……生きる?」
ゼファードに対して、冷たい視線を注いでいたラムウィンドスが、ぼそりと呟いた。
「これだけ長い間こんな辺鄙なところに閉じ込めて、いまさら『好きに生きる』も何もない」
うんうん、それはそう。
セリスは思わず、頷いて同意しそうになった。
しかし、続くラムウィンドスの言葉にそんな気持ちは消え去った。
「どうせ世間知らずで、無知で、甘ったれで、自分ひとりでは何もできない。競争相手もいないし、頑張らなくても生きていけるとあらば、怠惰であっても咎められることもない。恐ろしく無能の役立たずだろう。『好きに生きればいい』と言われても、何も思いつきもしないさ」
彼の言葉は、それまでセリスが生きてきた世界には無い冷ややかさと敵意に満ちていた。
「なんですって」
目を大きく見開き、唇を震わせてセリスが言っても、ラムウィンドスはどこを吹く風といった態度である。
ふん、と鼻で笑って言い返してきた。
「何か問題でも?」
「問題しかないです! あ、あ、あなたにわたしの何がわかると言うのですか!」
「何も。知らない、興味もない」
「ならばなぜ、決めつけるようなことを言うのです!」
無知で甘ったれで怠惰で無能と言われた。
ぷるぷると怒りに震えるセリスを見つめて、ラムウィンドスは「聞かれたから一応答える」というだけの気のない態度で言い放った。
「知らなくてもわかるからだ。その年まで引きこもっていたのなら、いっそ一生引きこもって外になんて出てこなければいいものを。弱い人間が生きていけるほど、世界は優しくない」
世界が優しくないなんて。
そんなことは、セリスだってよくわかっている。