それは面倒で。 でも愛しくて。
 袖を掴んだ。振り向いたその人は、確かにあたしの彼氏だった人だ。結婚するから別れてくれと素っ気ないメッセージで身勝手にも終わりを告げたあの人だ。
 彼氏、いや元カレはあたしを見て瞠目し狼狽えた。あたしが言葉をたたみかけようとしたとき、ひょこりと元カレの背中から連れの女性が顔を覗かせた。ああ、この人が奥さんか。元カレの腕に触れるその左手薬指にはシルバーリングが光っている。それが、その証拠だ。あたしはそっと袖口を離す。
「どちら様?」
「さあ。人違いじゃないかな」
 女性が不思議そうにあたしを見つめる。
 元カレはあたしを初めて見るような顔をしてにこりと笑う。
「すいません。失礼ですが、私はあなたを知らないのですが、どこかでお会いしましたか?」
 分厚い壁が立ちはだかる。
 さっきの狼狽は一瞬で、すでに感情を立て直している。元カレはの職業は営業だと言っていた。その仕事ぶりが、今成果を発揮している。有無を言わせないプレッシャーに、あたしはぐっと押し黙る。
 
 ああ、あたしのほうが完全に浮気相手だ。元カレは、清楚な奥さんを守ろうと必死になっているように見える。奥さんは、あたしを怪しむ素振りはない。夫が二股をかけていたなんて考えもしない表情だ。
 あたしは一歩退きすいません、と笑った。
「勘違いでした。とても似ていたので……」
「そうですか」
 元カレはほっとした表情をし、奥さんの腰を抱いて再びカウンターへ向き直った。注文を受けていた店員が、ちらとあたしを見てまた視線を戻す。
 あたしはコーヒーショップを出ることにした。
 蜜葉はまだ戻ってこない。カフェオレもドーナツもそのままだけど、それを片付ける余裕はなかった。心臓を雑巾絞りされているようで、息苦しくて痛くて辛くて気を抜いたら涙が洪水を起こす寸前まで込み上げてきている。
 鞄すら持たず、あたしは入り口に向かった。
 猪突猛進、ドアを開けて入ってこようとした人にぶつかりそうになりすいません、と謝る。顔も見ずに通り過ぎようとして腕を掴まれ顔を上げた。
 するとその人は待ち侘びた人だった。
「あ、蜜葉」
 ぽろ、と涙腺が崩壊した。気が緩んだ。まずい、止まらない。
「どうしたの。また泣いてたの」
 蜜葉はあたしの頭を胸に抱き、泣き顔を見られないようにしてくれた。
 邪魔にならないよう、入り口から少し歩いたところに移動する。内緒話をするように木の影に隠れた。あたしは蜜葉の胸から顔をずらし、ガラス張りの壁から注文をする元カレと奥さんを確認した。
 蜜葉があたしと同じほうを見やる。
 
「あの二人がどうかしたの」
「……元カレとその奥さん」
 あたしの言葉に蜜葉は瞠目し、軽蔑の眼差しを元カレに向けた。
「へえ。そう。あれがね」
「蜜葉。顔が怖い」
 冷たい目に冷たい微笑み。あたしまで背筋が凍りそうで頬が引きつる。
「逃げてきたの?それとも見つかった?」
「……あたしから、声を掛けた」 
「え。だ、大丈夫だったの」
「大丈夫だったわ。修羅場にすらならなかった。元カレ、あたしのこと知らない人みたいに扱ったわ。あたしも合わせた。奥さんのこと、本当に大事みたい」
「……そっか」
「奥さん、あたしのこと怪しみもしなかった。浮気してたなんて思ってない感じだった。あたしが浮気相手だったんだって突きつけられて、ちょっと、しんどい」
 へら、と笑う。あとからあとから流れて止まらない涙を、蜜葉は手の甲で拭う。そのうちニットの袖口で拭き始めたのであたしは蜜葉から離れようとした。ニットが駄目になってしまう。
 けれど蜜葉はあたしの腰を引き寄せ逃げられないように腕を回す。
「ちょっとって顔じゃないけど」
 苦しそうに顔を歪める蜜葉に、なんで蜜葉までそんな顔をするのかと苦笑した。蜜葉は優しすぎる。だから申し訳ない気持ちと同時に甘えたい気持ちも出てきてしまう。
「あは。結構しんどい」
 素直になった。
 蜜葉がこつんとおでこを合わせる。
「抱きしめていい?」
 もうほとんど抱きしめられているけれど、あたしは蜜葉の背中に腕を回して胸に顔をくっつけた。
「嫌じゃなければ甘えさせて」
「嫌じゃないから言ってる」
 冬の木々の隙間に身を潜め、あたしは蜜葉に甘えてしまう。蜜葉はあたしの頭を撫でて背中をぽんぽんと優しく叩く。涙でニットが濡れていく。これ、弁償よね。蜜葉ならいいよって笑って断るだろうけど、今回ばかりは新調させてもらおう。
 ぐずぐずと鼻を鳴らして蜜葉の心臓の音を聞く。きっと穏やかな音だろうと思ったそれは、なぜか早鐘を打っていて戸惑う。泣きやまないあたしにどうしたらいいのかわからないのだろう。それなのに、蜜葉は嫌がらず優しくただただ甘い。愛しくなり、このまま蜜葉の体温に包まれていたいと思ってしまう。離れたくなくて、離さないでほしくて抱きしめる腕に力を込めると、蜜葉も抱きしめ返してくれた。
 
「っは。すげぇ顔」
「……?蜜葉?どうしたの」
 
 いきなりの悪態に、あたしは顔を上げた。
 蜜葉がガラス張りの壁を見ている。けれどすぐにあたしを見て、親指で涙の筋を拭き取った。
「あ、ごめん。見苦しい顔を」
「鈴華のことじゃない。そんなわけないだろ」
「じゃあ、誰のことよ」
「あれ」
 蜜葉はガラス張りの壁に視線を向けた。あたしもその先を見やる。 
 ガラス張りの店内から、元カレがひとりでこっちを見ている。能面のようなその表情に、あたしはごくりと喉を鳴らす。あんな顔、見たことない。どうしようもない怒りを抑え込めず、その視線で訴えてくる。何してるんだ、と言われのない理由で責められている気がする。
 怖くて蜜葉のニットをきゅっと握りしめた。
 元カレはいつも優しくて、笑顔で、あたしの理想そのものだった。あのメッセージを受け取るまでは。
 蜜葉はあたしを抱きしめながら元カレに冷たい視線を投げかける。冷笑し、あたしに向き直るといつもの柔らかい微笑みを浮かべとんでもないことを口にした。
「キスしてるふりでもしようか」
「え、は?」
「見せつけてみよう」
「え、ちょ」
 蜜葉があたしの背を木に寄りかからせ、覆い被さる。ガラス張りの壁からは、蜜葉の背中しか見えない。蜜葉の顔が近づいてきて、蜜葉の唇があたしの唇の端っこに触れる。見る角度から見れば恋人同士が抱擁しキスしているように見えるだろう。
 事実抱擁しキスしているけど。唇の端だけど。
 あたしは恥ずかしくて目を閉じる。すると蜜葉の唇の感触が強くなる。柔らかくてふにっとしてて、胃のあたりがきゅう、と痛くなる。
 唇の感触が離れると、そっと目を開け蜜葉を見た。眼鏡を片手で直した蜜葉は軽く頬を抓ってきた。
「な、にゃに?」
「目、閉じないでよ。本当にキスしたくなるから」
 蜜葉はあたしの腰を抱き、コーヒーショップへと戻る。あたしは戻りたくなくて立ち止まる。ガラス張りの壁にちらと視線をやると、元カレの隣の奥さんがコーヒーの載ったトレーを持ちながら頬を染めてこっちを見ていた。元カレを見上げ、何か話している。
 キスしているところはばっちり見ていたらしい。
「鈴華」
 立ち止まったあたしを、優しく呼ぶ。見上げると、おでこにちゅっとキスをされた。
「な、なんで?」
「見せつけたかったからさ」
「だ、だからなんで?」
「鈴華はもうあんたのものじゃないよってさ」
 まるで、嫉妬しているかのような口振りに、あたしは目線を彷徨わせる。勘違いなら、恥ずかしい。でも、確かめたい。蜜葉は何とも思ってない女を、キスのふりをして元カレから守ろうとするだろうか。
「あの、蜜葉」
「なに?」
「コーヒー、まだ残ってる?」
「少しね」
「まだ仕事、ある?」
「今日の分は終わったよ。その確認の電話だったんだ。タイミング悪くてごめんね」
「ううん。あのね、あたし、まだカフェオレも残ってるしドーナツには手を付けてないの。でも帰ろうとしてたんだけど」
「そっか。そうだよね。鈴華が帰るなら僕も帰るよ」
「カフェオレとドーナツ持ち帰りにするわ」 
「そうだね」
「それで、その。蜜葉とはまだ話したいし、だから、その、蜜葉が良ければなんだけど」 
「うん」
「うち、来ないかな、なんて」
 ちら、と蜜葉を見上げた。蜜葉はぽかんとし、はっと我に返って「行く」と即答した。 
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